死ぬ?
エリザは持っていた本と魔王の右腕を一度亜空間へ収納した。血の海に倒れているシュメルクハーケンに近づくと、右足でその胴体をつついた。その瞬間、胴体や四肢は黒い粒子となって空中に消えてしまい、頭部だけが残された。
「ふふふ、あっけない」
エリザの頬はかすかに上気していた。興奮状態にあるのは明らかだった。エリザはハウルの様子を確認したが、ハウルはその場に座り込んで微動だにしていなかった。
エリザは収納したのとは別の本を亜空間から取り出した。先ほどの本は地面から鉄棒を生やす魔法の呪文が記された本だった。本命の蘇生魔法の呪文が記された本をぱらぱらとめくる。間違いはない。後は、また魔王の右腕をこの場に出して呪文を唱えるだけ――。
エリザ左手の指先が亜空間の入口に触れた。エリザはそちらに意識を移す。まさにその時であった。
「『解けろ』!」
その声はエリザの足元のハウルのものだった。エリザは反射的に左手を亜空間から引き抜いて、ハウルを見ようとした。だがそれは叶わなかった。エリザとハウルの間には毛皮をまとった何かが後ろ足だけで立っていた。エリザの体はその何かに仰向けに押し倒された。持っていた本と頭の三角帽子が床に転がる。
「な――!?」
それはエリザが串刺しにしたはずの白虎であった。エリザの両腕は白虎の両前足に踏みつけられていた。エリザは自身の細い腕に力を入れてみたが、白虎が前足に体重をかけているせいか、上半身は動かせそうにもない。両足は自由な状態だったので白虎の腹に蹴りを入れてみるが、強靭な筋肉を叩いただけに終わった。
白虎は互いの鼻と鼻が重なるくらいの至近距離に顔を近づけた。獲物を決して逃さない眼と今にも首を食いちぎりかねない牙。いや、下手な行動をすれば躊躇なく白虎はそうするだろう。獣臭い息がエリザの顔にかかる。獰猛な肉食動物にここまで接近された経験はエリザの人生の中では一度もなかった。
白虎は雄たけびを上げた。それは空気を震撼させる。脳に直接振動をぶつけられているようにエリザは錯覚した。しかし、耳を塞ぎたくても両腕は動かない。エリザができるのは、この苦痛と恐怖からの一刻も早い脱却を祈ることのみだった。部屋が静けさを取り戻した時、エリザの体は冷や汗にまみれていた。
「どうよ。面白いじゃろ」
白虎は人間のシュメルクハーケンの姿に変化して言った。その体は血まみれだった。シュメルクハーケンはエリザに馬乗りになり、両腕でエリザの首をいつでも締め上げられるように包み込んでいた。
「……ありえない……! あれは確実に死んでいたはず……!」
エリザは吐き気をこらえて言った。対照的に、エリザの上のシュメルクハーケンはにやにやと笑っている。
「確かにお前は死体を見たのじゃろう。だがの、それはワシの死体であって、ワシの死体ではない」
シュメルクハーケンの答えは哲学的とも言えるものだった。しかし、エリザはこの魔法を知っていた。
「まさか……!」
「そのまさか。自らの肉体を死体へと変身させ、仮死状態をつくりだす。これぞ、高位変身魔法『偽骸虚死』」
シュメルクハーケンはハウルの方を振りかえらずに声を掛けた。
「ハウル! よく『最重要任務』を覚えてたな! お前にしちゃあ上出来じゃ!」
「えへへ……。もう、本当に心配したんですから……」
ハウルは手で涙をぬぐった。最重要任務とは、シュメルクハーケンが金貨の山に変身したとき、それを外部から解呪するために、ハウルに与えた命令だった。無生物から元の姿に戻るためには外部からの意思が必要となる。死体は生物でない。ハウルはシュメルクハーケンの遺言じみた言葉を聞き、実行する隙を伺っていたのだ。
「お前の欠点はその若さ。若いゆえに経験がなく、油断する。魔王を殺せて舞い上がっておったか? ワシが動物以外に変身できんと思うたか? もしも、ワシが死体になっとるときに即座に蘇生魔法を唱えておったら、今頃、ワシはその具になっとったかもな。お前はワシのことを変身魔法しか能がないと言ったが、今はその能無しにいいようにされとるのじゃ」
「ぐっ……!」
エリザはシュメルクハーケンをきつく睨んだ。それはエリザがシュメルクハーケンに初めて見せる表情だった。
「本来ならば、こんな舐めた真似してくるやつは、バラバラ死体にしてやる所じゃ。だがしかし、ワシは前途有望な若者には寛大なんでの。魔王の右腕の封印を解除したのはお前か?」
「……ええ」
「素晴らしい。ワシを封印した勇者プライムは超一流の封印魔法使い。月日が経過して劣化しとるとはいえ、勇者の封印を解いたとなると、歴史に名が残るじゃろう。いい意味でも、悪い意味でもの。おかげでこっちが解除する手間が省けたわい」
「そうね。あれを解くのには時間もお金もかかった」
「なぜ初代魔王を復活させようとした。今度は答えてくれるな」
シュメルクハーケンがそう言うと、エリザは観念したように話し始めた。
「私の故郷の国と隣国は長い間戦争状態にあったの。戦争といっても、互いの国力は拮抗していたから、大きな衝突は避けられていた。けれど数年前、隣国の軍が各地で一斉に攻勢をかけてきた。それまでの軍とは質も量も桁違いだった。私の国は一気に劣勢に立たされた。私は一度国を離れ、戦局をひっくり返すために初代魔王様の力を手に入れようとした。それだけのことよ」
一気に話し終えたエリザはどこか投げやりな様子だった。強張っていた体からも力が抜けている。シュメルクハーケンはしばらくの間無言だったが、唐突に言った。
「よし、ワシが初代魔王の代わりにその戦争に参加してやる」
「え……?」
「ええー!?」
エリザの間の抜けた声と、ハウルの驚愕の声が重なった。
「そんなに驚かんでもええじゃろ」
シュメルクハーケンとしては予想外の反応をされて不満だった。次に口を開いたのはエリザだった。
「なぜそんなことをするの? 何がお望み?」
「勘違いするでない。お前がワシのことを馬鹿にしたから、目にもの見せてやろうと思っただけのことじゃよ」
「たったそれだけのことで……。あのね、私は遊びで言ってるんじゃないの」
「ワシだって本気で言うとる」
エリザの目はシュメルクハーケンに対しての心底あきれ果てた心情を物語っていた。シュメルクハーケンも負けじとエリザを見つめ返した。
「私は絶対反対です!!」
ハウルは二人の会話に割り込んだ。ハウルが大声で自己主張をするのは滅多にないことだ。さらに言えば、『絶対』という強調の言葉を使うのも珍しいことだった。
「なんじゃい、ハウル。でかい声なんぞ出しよって。お前まさか、手錠をかけられたことがそんなに気に入らんかったのか? みみっちい奴じゃの」
「違います! この人はシュメルクハーケン様を殺そうとしたんですよ! そんな人に協力するなんておかしいです!」
ハウルはエリザに敵意をむき出しにしていた。今日はやけにハウルの攻撃的な一面が見られる、とシュメルクハーケンは思った。
「こうなったのも、元を正せば、お前が簡単に捕まったからではないか。そんな奴がこの件に口を出す権利は無いの。ほほほ」
「うう、それはそうですけど」
その自覚はあったのか、ハウルはうなだれるとそれ以上シュメルクハーケンの決定に意見を挟まなかった。
「私もその子と同意見ね。それに、私に勝てたからと言って、魔王様が初代魔王様よりも優秀なことにはならない」
「けっ、可愛げのないやつじゃ」
シュメルクハーケンがそう毒づいた直後、その頭頂部に何かが直撃した。
「あだっ」
「シュメルクハーケン様!」
衝撃は大したものではなかったが、シュメルクハーケンは尻もちをついた。見ると、その隙に脱出したエリザが木製の箒に乗って宙に浮かんでいた。転がっていた三角帽子をかぶり、本を手に持っている。当たったのは箒の先端部に違いない。シュメルクハーケンはエリザに馬乗りの状態だったので、恐らくは、部屋の入口から侵入してきたであろう箒に注意を向けるのが難しかったのだ。
「私はまだ初代魔王様を諦めない。また会いましょう、魔王様」
エリザは出会ったときのように微笑みを浮かべた後、部屋を出て行った。シュメルクハーケンはエリザを追おうとはしなかった。エリザも言っていたように、魔王の体を求めて再び姿を現すと思ったからだ。
「おい、ハウル。ワシは疲れた。膝枕をしろ」
ハウルは目を輝かせると、床の中でも血で汚れていない場所に座ろうとした。しかし、何かに気が付いたのか、申し訳なさそうに言った。
「……すみません、シュメルクハーケン様。膝が血で汚れてしまっていて、いえ、シュメルクハーケン様の血が汚いという意味ではなく……」
「当たり前じゃ。そんなことは気にせんからさっさと座れ」
ハウルがその場に正座すると、シュメルクハーケンはその太ももに頭を預けた。体は大の字に投げ出している。シュメルクハーケンとハウルの目線が重なり合った。
「シュメルクハーケン様、お怪我は大丈夫でしたか?」
「ふん、心配するのが遅いわ、ばかもん」
「えっと、元気に話していらしたし、体の穴が塞がっていたようなので大丈夫かなと……」
「魔王は傷の直りが早いからの。とはいえ、完全に回復しとらんからこうやって休憩しとるわけ」
シュメルクハーケンは目をつぶった。ここらでひと眠りしようと考えていたところだったが、ハウルが遠慮がちに声を掛けた。
「あの、この前はとても失礼なことを言ってしまいました。まだちゃんと謝れてなくて……」
「あー、あれか。そういえば、ワシ傷ついてたのー」
勿論、シュメルクハーケンは傷ついてなどいない。それよりも、シュメルクハーケンに『ごまをすっているのか』などと言われたハウルの方がよほど辛い思いをしただろう。
しかし、ハウルはシュメルクハーケンの嘘に気が付かず顔を曇らせた。
「うう、本当にすみません……。これからはあまり出しゃばった真似は……」
「いや、いいや」
ハウルは自分の耳を疑った。シュメルクハーケンは片目だけを開けて言った。
「無理に変わる必要もあるまい。ワシは完璧じゃが、完璧すぎると従者の仕事が無くなっちまうからの。時々、わざと突っ込みどころを出しとるわけじゃ。その時はいつものようにワシに口出しするがよい」
シュメルクハーケンはそれだけを言うと、目を閉じて眠り始めた。結局、シュメルクハーケンはハウルを罵倒したことを謝罪しなかった。だが、ハウルは満足していた。シュメルクハーケンにいつもの自分を認められたような気がしたからだった。ハウルはいつまでもシュメルクハーケンの寝顔を見つめていた。