透明な存在
学校ではあの日以来何かが変わってしまって、つまらなさそうに授業を聞かず校庭を眺めていても、どの先生も注意をしてこなかった。他の生徒達の反応も、遠くからよそよそしく大回りをするようにすれ違い、なるべく目線を合わせないようにしていた。放っておかれるというのは、楽だった。
あるとき、急な便意を催して席を立ち上がった。予想以上に椅子が床を引きずる音が大きかったが、誰もこちらを振り向かず、先生に至ってはぶつぶつ言いながら、黒板に何かを書き連ねていた。無視というよりは黙殺というのだろうか。関わらないように息を潜めているような空気に息苦しさを覚えて、無言で教室の外に出た。
廊下には誰もおらず、遠くのつきあたりの階段まで見通せた。無人の廊下を闊歩する自由を味わった。
教室では他の生徒達が授業に取り組んでいた。他の教室の前を行き来しているときに、授業をしている教師は、明らかに私に気づきはするのだが、こちらをあえて、見ようとは、しなかった。トイレを済ませて何度か、廊下を行き来し、自分の座っていた席を外から眺めた。
虐められていたときに、花瓶を置かれた記憶が甦る。例えば、今死んでしまったら、あそこに誰かが、花を置いてくれるだろうか。自分が死んでしまった後の事を考えた。生きているという事を、「意識があり知覚できる事だ」と仮定したら、今、教室の中に肉体は存在していないが、廊下の外から教室の中を眺めることは出来る。自分の席に今は、誰も座ってはいないが、さっきまで座っていた自分が、誰からも相手にされない花瓶のようなものに思えた。そして、こうして独り、誰もいない廊下を自由に歩いている自分を、本当の自分自身であるかのように感じた。
「透明な存在になってわかる」
置物の自分にそっとつぶやいた。誰かからの、何者からも視線を注がれず、その思念を受けず。そしてそういうものに一切影響を受けない独りの、自分自身であることを意識していた。
廊下から見る、扉で仕切られた教室の中が
「生の世界、存在している世界」
教室の外に閉め出された、自分自身でいられる見渡しが効く、自由な世界というものが、実は「死の世界」なのかもしれないという事を考えて見た。「肉体を失ってしまった意識のある知覚できる存在」は、廊下側のガラスの扉から、この生の世界を垣間見れるが、教室の中のモノに、二度と触れることが出来ず、その敷居を跨ぐ事すら出来ない。
教室の中の人々からすれば、その存在すら感知しない世界。こちら側でも、叫ぶことも扉を叩くこともできるのだが、仮に音は響いたとしても、廊下側にいる透明な存在である私には誰も気付かず、誰かが振り返って廊下を見たとしても、風がドアを叩いただけ、なんだ。・・・としか感じないのが、
「生きる者の世界」、完全に仕切られた世界。
自分自身でいられる感覚を、強く味わえる死の世界は、しかし孤独で過酷な、見ることだけしか出来ない。死んでしまったら、二度と何にも参加できず、誰からも存在すら、関知されないのが、廊下側の世界なんだ。
花瓶でもそこに在る限り、人は避けてくれるじゃないか。それでもいいんだ。それだけでもいいんだ。そこに在るのだから。舌打ちされようが、不愉快そうな顔をされようが、耐えがたい孤独を紛らわせてはくれる。そんな事を強く感じた。