黄色の液体
街の中心に高校はあった。四階建ての乳白色の建物で、地震補強の為の斜めの構造物が窓という窓に、張り付いていて圧迫感があった。屋上からはよく山々が見渡せた。誰も相手にしてくれないので、昼飯はいつも独り屋上で食べた。時折、屋上に同じように弁当を抱えてくる生徒達がいても、一瞥さえもされなかった。景色を眺めていると、いろいろな事から解放されるような気になった。ただ、それもつかの間の日常でしかなかった。
背中の傷跡が目立つのでプールは毎回見学をしていたが、体育着に着替えているときに見られてしまった。傷跡が顔のように見える箇所があって、
「人面瘡だ」と気味悪がられた。
学校行事などに鈴木夫妻が来れば、
「お前の父ちゃん、なんだありゃ、なんでウス汚れた作務衣で学校に来るの?」
「お前の母ちゃん、まるで蟹みたいだな」
「おたく夫婦みたいで気持ち悪いな」と言われ、トイレの個室に入れば、上から水を掛けられたりした。
誰も助けてくれず、僕と関わる事を、皆拒んだ。
酷かったのは、豊という身体の大きな同級生からの虐めだった。豊は、身長が一番大きく、そして顔が縦に長く、江戸時代の浮世絵に出てくるような昔風の顔つきで、それぞれのパーツが大きく歯が前に出ていた。先生に対しても強気で、上級生に対しても、睨みが利いていた。それは兄がこの辺りでは有名なワルで、シンナーを吸って何度も乱闘騒ぎを起こしていたりもしたからだった。いつからか、豊に目をつけられて、よく殴られたり蹴られたりしていた。
失神ゲームをやらされた。息を急激に吸っては吐く、というのを繰り返させられ、止めたあとに胸をぐいぐいと押される。目の前が真っ暗になって倒れ込む。意識を失い倒れて、痙攣する様が面白いのだという。
「お前、このまえすごかったで、泡ふいてよ」仲間達と笑いながら豊が言う。床に倒れた後に身体を激しく前屈させ、急に弓なりになるような動作を繰り返すらしい。何を言われても、うつむいて押し黙るしかなかった。堪えるのには慣れていた。その無反応さが、更に彼らの嗜虐心を煽った。
虐められるような日々の中で唯一つの救いは、色白の目立たないおとなしいクラスの女子の存在だった。取り立てて美しいというようなものもなく、特に目立つ特徴もなかったが、髪が長くよく風になびいていた。静かなたたずまいを持っていて、特別な何かを感じていた。
遠くからそっと見かけるだけで、元気付けられているような気さえしていた。
僕が虐められているというのを知りながら、ほんの少しだけ目があったとしても、他の女子のような蔑んだ視線を、かえしてきたりはしなかった。気持ちを悟られまいと、いつも、あわてて視線をはずしていた。この子にだけは嫌われたくなかった。そして僕の事が嫌いではない。勝手にそう、思い込んでいた。
廊下で先生や他の生徒からの目隠し役の取り巻きに囲まれて、失神ゲームが始まった。「もう、やめて」か細い声で言うが、そんな声に耳を傾けるような連中ではなかった。残忍な顔つきで豊に、
「いいからやれよぉぉーー」と、耳元で叫ばれる。金属音の耳鳴りが右耳から左耳に抜ける。
「スー、ハー、スーハー、スーハー、スーーハーー、スーーー、ハーーー、スッハー」
「スーハッ、スーハー、スッーーーーー、ハッーーーー」頃合いを見て、豊が全力で廊下の壁に押しつけた僕の胸を押す。途端にくらくらして、足下に崩れる。その後弓なりになって廊下の壁に後頭部を打ちつけるのが分かった。
その様を見て腹を抱えて笑う連中の姿が、うっすらと見えたときに、激しく嘔吐する感覚に襲われて、横向きのまま昼に食べた弁当を廊下にぶちまけるのが分かった。物を吐ききっても吐く動作が止まらない。
「うわっ、きたねぇ」目隠しの壁が乱れる。
遠く廊下で、悲しげな表情でこちらを見つめている、女の子が見えた。初めて気になったあの子だった。身体を前後に揺らせながらも、その子の表情を目で追っていた。全くの無表情で、顎にかすかに、まとわりつく後れ毛を指で後ろになでつけ、口元をかすかに歪ませていた。そのとき始めてわかった事がある。誰にも悟られぬように笑っていたのだった。
(いつも僕を見て笑えるのを堪えていたんだ)と言うことを知った。
やがてスローモーションのように顔を背け、視界から消えていくのが見えた。
強い色彩の映像が、フラッシュのように目の前に瞬いた、何度も思い出す光景。自分が汚物にまみれ動けずに、天井を眺めていたことを思い出した。獣の様な臭いに包まれ、布団と背中を接着剤のように膿が、乾いた膿がシャツからしみ出して張り付いていて、それを慎重にはがそうとしてくれる救急隊員。不思議なマスクの動きと目の輝き、無音の中、何かが頭に響くように感じるあの光景、瞳孔が瞬間的に広がるような、そんな感覚があって目の前が明るくなった。
そのとき何かが、お腹で弾けた。
どうでもよくなった。死んでもいいと思った。僕自身の存在も、その涼しげな女の子の事も。どうでもいい。廊下に広がる黄色の液体の発する酸っぱい臭いも。口を満たす苦い胃液も。怒りではなく、もっと継続的で強い何かが湧いていた。
そして、それは嘔吐のような動作と共に、物ではない何かを、はき出すようだった。
お腹の底から、それは「どかん」とわき上がって目から迸った。
僕は不意に立ち上がって、豊の襟元を両手でしっかりと掴んで、頭突きをしていた。柔らかい鼻を押しつぶし、前歯をへし折り、血が髪の毛にまとわりついた。僕に注がれた鈴木夫妻の悪意で、固く堆積し、厚い殻で覆われた頭で、何度も何度も。豊の白目はうさぎの目のように赤く染まった。目隠しの人垣は、音もなく動けなかった。遠くから、悲鳴のような叫び声が聞こえる。やがて豊の頭とボクの頭が、ぶつかる音だけになった。何かをつぶやく自分自身を聞いた。何をつぶやいていたか、覚えていない。
そして、その後の事は、記憶になかった