薄黄色のカーディガン
潮のにおいがいつも立ちこめていた。遠くに聞こえる波の音。横浜の長浜、相模湾に面した所に施設はあった。言葉をあまり話さない子供、障害を抱えた子供達が全寮制で生活をしていた。
広い敷地に高い塀で覆われ、そこは清潔な病院のような外観だった。二階はなく鉄筋の立派な建物で、庭は管理の行き届いた濃い芝生が、きちんと敷き詰められ、用務員のおじさんも掃除のおばさんも、いつもニコニコと挨拶をしてくれたが、こちらの反応にはあまり興味がないようだった。
時折、子供を迎えにくるお父さんとお母さんが来たが表情が対称的だったのを覚えている。連れて行かれる子供は、無表情だったり、いやがったり、おどおどしていたり、その反応もマチマチだった。いつボクのお父さんは来るのだろうか、誰かのお母さんを眺めては、あんな優しそうな人だったら嬉しいなとか、色黒の背広を来たお父さんを見かけると、強そうだなとか、淡い期待で見つめていた。あまりにじっと見つめるものだから、怪訝な顔をして背けたり、怒ったような表情になる、お母さんもいたりした、そんな反応が不思議だった。
みゆきさんという、鼻の横に大きなホクロのあるお姉さんがいて、いつも優しくしてくれた。担当の先生だと言われていた。大柄な肩幅のある女の人で、白いパンツは、いつもはち切れそうだった。薄黄色のカーディガンをまとって、いろいろと世話をやいてくれた。そして、いつもナフタリンのような匂いがしていた。お風呂にも入れてくれたし、やや乱暴にそして事務的に身体を洗ってくれた。
背中の褥瘡も治った頃、散歩にも連れていってくれた。
ボクはその施設の中でもひときわ小さく、言葉をきちんとしゃべるまでに時間がかかり、まっすぐ立てるようになるの大変だったのよ、とみゆきさんは教えてくれた。
「達也君は、偉いねぇ」
「達也君は、頑張ったよねぇ」
「パパの事は覚えてる?」
「ママのことは?」
元気になればなるほど、みゆきさんはいろいろと聞いてくるのだった。質問した後には、ボードに束ねた紙の上にボールペンで何かを一生懸命書いていた。
「わからない、おにぎり食べたい」
そんなことを答えていた記憶がある。苦しそうな笑顔をつくりながら、治ったばかりの背中を、そっと撫でて頭にやさしく手を置いてくれた。
4月の相模湾の海はまだ、水も澄んでいて透明だった。海水浴のシーズンになると砂を巻いて濁ったようになるのだが、この時期の人もまばらな長浜が好きだった。海が静かに太陽の光を反射させてキラキラと輝いていた。少し歩くと海水浴場があり、浜の外れには、古ぼけたネズミ色のブロックで作られた公衆トイレがあった。みゆきさんと自由に散歩できるようになってからも、そのトイレには近寄らなかった。臭いが遠くからでも、わかるくらいに強く、中にはフナムシが床の色を変えるくらいに、うようよいて、近づくと引き波のように移動するのを何度か見てからは、どんなに尿意や便意を催しても、施設まで股間をおさえて走った。みゆきさんはそんなボクを見てよく笑っていた。