青紫の気体
ふすまが開いて暗闇に光りが差す、廊下から洩れる白い光。コンビニの袋を耳元におき、側にあぐらをかいて、ボクが生きているのを確かめようと、顔を鼻先に近づける。洩れる灯りを背にして、どんな顔をしているのか、いつもわからなかった。服からしみ出る煙草のにおい、ハッカような息。喉にかかるような咳払い。かすかな息の出入りを確認すると、大きな溜息を長くついて、内と外の鍵をかけすぐ立ち去ってしまう。懸命に顔を横に向けて声を絞る。
「パパ、パパ・・・・・・」ドアがそっと締まると靴を引きずって歩く音が聞こえ、やがて車のエンジン音が遠ざかって行く。
いつも天井を眺めていた。なんの変哲もない、ありきたりの格子天井。木の目が人の目玉みたいに思えた。
朝は強い光が部屋に照りつけ、天井の色彩はやや赤みがかったものとなり、午後はその色も白く薄れ、やがて黒く塗りつぶされていった。
身をよじると昨日食べたもの、そしてその前に食べたもの、その前の前のゴミ達が、ガサガサと音をたてた。
背中は、毎日布団に押しつけられて、心臓の鼓動に合わせて痺れていた、それも鈍い厚みを感じるだけになっていた。
トイレにもいけなくなった。鼻の奥を刺すような刺激も今は感じない。
手を伸ばしておにぎりの袋に触れることは出来ても、中身はなかった。お腹が上から、何かにぐいぐいと押しつけられて重い。それでもなぜか、手を置くと丸く固くふくれてきていた。ツバもでなくなり、舌がスポンジみたいにどんどん口の中で大きくなって、鉄を舐めているようだった、身体と空気の境目が緩んでいく。
闇の中、音もなく静かに舞い落ちる枯れ葉になり、緩やかに回転し、辿り着かない底のない穴に、長く落ちて行く。
かすかな音が遠くに聞こえる。
やがて大きくなり、いくつもの音が重なった。
いろんな音が穴の上から追っかけてきてはピッタリと、耳の横に並んで、落ちて行く動きが止まる。
遠くからサイレンの音。怒っているような声、ドアを破る音、誰かが部屋をドカドカと踏みならし、窓を乱暴に開け放つ。畳がミシミシと鳴っていた。灯りがついて目の前が真っ白になる。
大人の大きな声が響く。
首筋に暖かいゴムのようなものを押し当てられ、顎をぐいぐいと動かされた。
マスクをつけた白いヘルメットを被った人が、ボクの瞼をむきながら、ペンライトをゆらゆらと揺らし続けた。
その眼が、天井の場所にあった。
マスクが、もごもごと何回も動いていた。
その眼に強い光りが宿った時にペンライトを見つめた、まぶしくて痛かった。
誰かがが慎重に布団と背中をはがす、抱きかかえられて柔らかな台にそっと乗せられた。
ドアの前に立つ隣の叔母さんとその家族が、恐る恐るのぞき込み、そして口元を歪ませ、顔を背け鼻と口をふさいだ。
乗せられた台が小刻みにゆれる。廊下の天井に張り付いた、黒い虫が飛び交う蛍光灯が足先から頭の上の方に流れていく、長く長い灰色のトンネルを移動した。
そして星空を見た。
不思議な光りがいくつも瞬いていた、焦点が合わず滲んでいる、冷たい風が身体の周りをなでるように流れ、冷たい空気を感じた、青紫の気体。それは何度も何度も、喉の少し下くらいに入っては、せわしなく出て行った。窮屈な空間には長くとどまりたくないような、そんな動きだった。マスクをあてがわれ、強制的な風が肺を満たした。