エピローグ:A Day of Slightly Shifted
朝の電車に揺られながら、私はため息とともに『本』を閉じた。
面白かった。すごく、面白かった。ドキドキした、ハラハラした。先はどうなるのだろうと夢中で読んだ。
読み終わってしまったならそれは、どこか別の、異世界の、物語の主人公の身に起きた出来事だと思える。
でも記憶にある体験の方は、私の身に実際に起きたことだ。そして今も、起き続けていることだ。
私は『本』をしまい、右腕に手を当てた。
袖の下には、まだ完治していない怪我がある。私はそれが、どこで受けた怪我かまだ覚えているけれど、半分くらいはそれは勘違いで、友人宅での飲み会の帰り道に、壊れたフェンスから飛び出た金網で切った怪我だったような気もしてきている。
考え続けることから逃げたい脳は、今日もせっせと記憶を周りの世界に合わせようとする。
駅から出て、整然と歩く人波から外れ、小さな公園のベンチに腰掛けた。
朝の光は柔らかく、梢からは鳥のさえずりが聞こえる。時計を見た。
始業にはまだ、時間がある。
あの端っこの世界で。
少女の姿が消えた後、私は考えた。軌跡の中にヒントがある、と彼女が言った。
世界から別の世界へ移動が起きるとき、変化するものと変化しないものがある。
ほとんどの場合は、変化する部分がごく少なく、変化しない部分が圧倒的に多い。
でも最後の方の移動は、ありとあらゆるものが変化してしまっていた。
それでも、考えてみると、変化しないものが必ず傍に在った。
それは、北部さんという人間の存在だったり。
右腕の怪我という私自身の状態だったり。
それに思い至ったとき、私の頭にある仮説がひらめいた。
この、とんでもなく離れてしまった世界と、最初の世界をつなぐ、何かがあるはずだ。
私は扉を開いて、それを探した。
そして、見つけた。
今、その『本』は鞄の中にある。
最初の世界から消え失せて、最後の世界で見つけたもの――
偏っていた確率を、収束させるよすがになった。
私は鞄を開きたい衝動に駆られる。もしかしたら、この鞄の中で、さっきしまったあの『本』は、別の本に変わってしまっている可能性がある。
世界から別の世界への移動は、唐突で、予想がつかなくて、下手をしたら気づくことすら出来ない。
けれど、選び取れるものもある。
自分が行きたい世界にむけて、力を尽くすことが出来る。
ヒールを履いた足音が近づいてきて、驚いたように私の傍で止まった。私は、顔を上げる。
「おはよう、北部さん」
片手を挙げた。なるべく自然に聞こえるように、と自分に言い聞かせながら口を開く。
「あのさ、ちょっと相談したい重大な用事があるんだけど、今日の帰り、時間作れるかな?」
~END~
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