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6,五番目のずれ、或いは、ワールド・エンドB

 声の主の少女には、やっぱり見覚えがない。

 不思議な瞳をしていた。溶けた黄金のような、蜂蜜のような、金色。まっすぐこちらを見つめているが、それでいて、どこを見ているか分からない。

 夜を切り取ったような黒髪は、腰まで流れ落ちていた。

 白いパフスリーブの膝丈ワンピースは古風で、この場所の、無機質な雰囲気とはそぐわない。

 だから彼女は、ここに属するものではないのだと何となく分かった。


「そうでもないのよ」

 彼女は私の考えを読み取ったかのように言う。

「誰だってみんな、どこにでも属しているし、どこにも属してないの」


「あの……」

 私は口を開き、そこで言葉に詰まった。

 問いたいことがたくさんある。彼女は答えを知っているような気がする。

 けれど下手な質問をしたら、彼女は消えてしまいそうな気がしたのだ。

 彼女は小首をかしげて、質問の先を待っていた。


「………、元の世界に戻るには、どうしたらいいんですか」

「まあ座りなさいな」

 かしこまった私の問いかけに直には答えず、彼女はマイペースに椅子を勧めた。壁の一面がガラス張りである以外は何もない無機質な部屋に、丸テーブルと椅子があった。

 それらは、彼女が在れと言ったから現れたように見えた。けれども、私は外の景色にばかり気をとられていたので、最初からあったそれらに気づかなかっただけかもしれない。

 私は座った。

 彼女も、向かいに座った。紅茶が差し出される。最初から在ったかもしれないし、いま生まれたかもしれない紅茶が。

 湯気を立てるそれを、私はおっかなびっくり見つめる。


「元に戻りたいの?」

「はい」

 間髪入れずに答える。その答えに、彼女の瞳が疑問を浮かべていた。だから私は、先を話さなくてはいけない。

「この世界は……、生きて行くには寂しいところに見えるから、です」

「本なら在るわよ。そう、……その扉の向こうにね。食べるものも、着るものも、その他、あなたが生きていくのに必要なものは一通り」

 ガラスと向かい合う壁面にはなるほど、扉があった。彼女がたったいま定義してくれたから、おそらく私はこの先ここで生きていくことも出来るのだろう。

「他に人は……、人は誰も居ない?」

「人は居ないわ。ここには居ない」

 彼女は自分を勘定に入れなかった。

「でもあなたは、その元の世界とやらをあまり気に入っていなかったのではなくて?」

「それは……」

 私は返す言葉を失う。漠然とした不安を思い出した。


 彼女は上品な手つきでカップを持ち上げ、紅茶を飲む。私はカップがかすかな音ともにソーサーに置かれるまで待った。

「残念だけれど、そもそも元の世界なんてものはないの。世界はとてもあやふやなのよ」

「え……」

「あなたはここを、異世界だと思っている?」

「違うんですか?」

 彼女は私の瞳をじっとのぞき込み、小さく首を振った。

「ここも、言うなれば『元の世界』なのよ。――尤も、確かにここはだいぶ端っこだけれども」

「端?」

「ええ。ここまで飛ばされてくる人は、稀有だわ。確率的に起こりえることは、どんなに小さな可能性でも、いつか起こるということね」

 彼女は独り言のように言った後、壁に向かって手を上げた。

 壁の一部に、四角く光が差す。そこに一本の横線の映像が現れた。手書きの線をぱらぱら漫画にしたかのように、絶えず小さくぶれている。

「世界は、たくさんの線から成り立っている」

 彼女の言葉に合わせて、スクリーン映像の中で線が上下に増えた。さらには最初の線が縮小していくと、画面の上下から次々に新たな線が現れ、無数の線の羅列になる。

「分かるかしら?」

 彼女はこちらを振り向き、問うた。私は少しの間考え、小さく頷く。

「パラレルワールド?」

 彼女はいたずらっぽく微笑む。

「マルチバース、多世界解釈、多元宇宙論、etc……。いろいろ言い方があるけれど、あなたの好きな分野ね。隣り合う世界同士の違いはとても些細なのだけれど、世界と世界の違いが大きくなるほど、距離も離れていくの」

 彼女は再び、スクリーンを見る。

「あなたは……、いえ、あなたたちはみんな、生まれてからずっと今まで、この線と線の間を頻繁に行き来しているのよ」

 線の上に、小さな点が無数に現れる。それらは画面の右から左へ向かって同じ速度で流れながら、上下の線に飛び移っては戻り、また別の線へ飛び移りを繰り返していた。

「………。いやいやいや、待ってくれ。私は、今まで……、いや、少なくともごくごく最近まで、ずっと同じ線の上にいたんだ。こんな風に世界から世界へと飛び移ってなど……」

 私は思わず中腰になる。身体がテーブルの端に当たり、カップの中の液体が怪しく揺れた。

「あら? そうかしら?」

 彼女は面白がるように言い、左の耳の上に髪をかき上げた。

「もう冷めてるわよ」

 私は座り直し、促されるままに紅茶を飲む。薫り高く、美味しい。


「他の誰もいじるはずはないのに、確かに置いておいたはずの場所から、物がなくなったことはない? 持ってきたはずの物を持っていなかったことは? 逆に、持っていると思っていなかった物をたまたま持っていたことは? 誰かと言った言わないの争いになったことは? 久しぶりに会った友人と、共通の記憶の細部が違ったことは? 人に対する印象が変わったことは? 誰かを、がらっと人が変わってしまったように思ったことは?」

「そんなことは……、それは……」

 私は口ごもる。

「でも……! それはみんな、勘違いで、」

 彼女はゆっくりと首を振ってから、テーブルの上に身を乗り出した。

「勘違いではないの。それはみんな、『現実に起こったこと』。あなたが一つの世界から、隣り合う別の世界へと移動した証拠なのよ。人の場合は、相手の方が別の世界から移動してきたのかもしれないけど」

 カップを手にしたまま、私は気圧される。

「……私だけでなく、他の人も、みんなそれぞれ、別の世界から来ていた……?」

「そうよ。と、言ってもあくまで確率の問題だけれど。長い間会っていなかった友人との間の方が齟齬は大きくなりがちだけれど、昨日会った友人が、今日は近くの世界から来ている別人の場合もよくある。歴史なんかも……」

「歴史! そうだ。歴史は一つじゃないか。おかしいよ! 2011年の大地震や、2020年のウイルスの大流行を、無かったという人はいない」

 私は興奮して少し乱暴に、カップをソーサーに置く。彼女は頬をぷく、と膨らませて腰に手を当てた。

「言ったでしょ、隣り合った世界同士の違いは些細なことなの。だから近い過去の大きな出来事については、ほぼすべての人の経験が一致する。だけど出来事から時間がたてばたつほど、少し離れた世界から流れてきた人の数も増える。確率的にね。大昔の歴史ほどあやふやなものになる。それでも、一つの世界に残されたとある証拠については不動だから、確たる証拠があれば過去を確定することは出来る。問題は確たる証拠がない場合――。人の言葉だけが伝える歴史は、『その世界』で『本当に起きたことではない』場合が混じる」

「ああっ! 実は生きていた偉人たちは……」

「その時点での死を確定する証拠がなかったり、失われたり、見つかっていなかったり。そこへ『別の時点までその人物が生きていた』世界からやってきた人が、真実としてそのことを語って、言い伝えや童歌に」

 私は脱力して背もたれに身を預けた。

 彼女は一息つき、紅茶を口にした。


「もう分かってもらえたかしら。世界から別の世界への移動は、誰にでも日常的に起こっていることなのよ。新たな世界で小さな齟齬に出会っても、脳はそういう些細な変化を『勘違い』『思い違い』『記憶違い』として修正してしまうの。だってそのことにずっとこだわって理由を考えたら、先に進めないでしょ。知ってる? 脳ってすごく怠け者で、すぐに手を抜こうとするのよ」

「そんな……、でも……! 私がここ数日で体験した変化は、勘違いで済まされるレベルではなかった!」

「そうね。だからわたしがここに来たんだわ」

 彼女は素直に認めた。


「たまにいるのよ。隣り合う線――世界ではなく、突然、離れた世界に飛んでしまう人間が。どこに飛ぶかは確率の問題だから、ありえないことではなくて。でもここまで離れた世界に飛んでくるのは本当に、稀有」

 彼女は言葉を繰り返した。

「離れた世界に飛んでしまうひとは今までにもいたのよ。あなた、都市伝説については詳しい?」

「……まあ、ネットで有名な辺りなら……」

「誰もいない夕暮れの教室に飛ばされてしまう話とか、住んでいたところとそっくりなのに使われている文字が違う奇妙な街とか、乗っていた電車が停まらなくなり、聞いたことのない駅にたどり着いてしまう話」

 私は頷いた。

「そこで、わたしが出てきて言うの。『こんなところで何をやってるんだ!』って」

「時空のおっさん!?」

「どうして驚くのか分からないけれど、まあそうね」

 いや、だって、驚くだろう。目の前の少女は、どう見てもおっさんではないのだから。

 こほん、と小さく咳払いして、彼女は椅子から立ち上がった。胸に手を当てて微笑む。

「わたしは『確率を収束させるモノ』の元型なのよ。それがどう見えるかは、観測者に依存する。あまりにも端に来てしまったあなたの確率を収束させられるけれど、この確率変動を生かせるかはあなたに掛かってる。さあ、考えてみて? ヒントはあなたの軌跡の中にある」

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