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私の隣の部屋の住人が失踪する件

作者: 池田瑛

 土曜日の朝、ゴミ出しをしていたら私の住んでいるアパートの大家さんと出くわした。大家さんは困った顔をしてた。

 大家さんはアパートの隣の一軒家に住んでいる。昔は酒蔵をやっていたのだけど、高度経済成長期に酒蔵を廃業したということらしい。そして、土地の一部を売り、自宅と、そして賃貸用のアパートを建てて暮らしている。旦那さんが亡くなって、この前7回忌が終わったところだ。大家さんの子どもは、長男が建設会社で、次男は自衛官らしい。

 

 どうして私がそんな大家さんのプライベートなことを知っているのかというと、家賃が現金払いなのだ。今時珍しいのだけど、大家さんが隣に住んでいるし、わざわざ振込の手数料を払うこともないでしょ? ということで、現金払いにしているようだ。大家さんとしても、通帳の記帳をして、毎月家賃が振り込まれているかを確認しなくてすむし、楽だそうだ。

 そして、家賃を払いに行くたびに私は大家さんの話相手にさせられてしまう。正直、振込手数料を払った方が楽だ。だから私は、2ヶ月分をまとめて払うことにしている。

 さり気なく振込をしたいと申し出たのだが、「だって京子ちゃん、家賃の催促の電話をして、振り込みましたよ、なんてことになったら悪いじゃない」ということらしい。小まめに通帳を記帳しに行くのが面倒なのだろう。


 家賃を支払いに行く時に、話相手にさせられる以外、特に私には不満はなかった。築40年が経っているアパートで、家賃が安い。それがなによりだ。キッチンは狭いけれど、二人分の料理を作るスペースとして十分だ。

 2階建てで、階段は学校の非常階段のようで登る度に金属が軋み、誰かが登っているということが直ぐに分かる。新聞の配達の人が朝、階段を登ってくる音が今では私の目覚まし代わりだ。それに、2LDKという広さには満足している。一人で住むには十分な広さだ。それに、駐車場代も安い。2階建で、1階は駐車スペースになっている。私のように車が欠かせない人間には、最適なアパートだと思っている。


 アパートは人通りの少ない、駅からの道には電灯もあまりな場所にある、さびれたアパートで、女一人で住むには安全上どうなのか、といわれると首を傾げなくてはならない。だけど、山がとても近いし、私は気に入っている。


「おはようございます」と私はゴミ袋を置いて、直ぐに部屋に戻ろうとした。大家さんの長話に付き合わされるような予感がしたからだ。


「おはよう。ねぇ、京子ちゃん……」


 どうやら私にも用事があったらしい。


「京子ちゃん、最近、203号室の人と連絡がつかないのよ。家賃も滞納しているのよ。何かが気づいたことはなかった?」


 私は202号室に住んでいる。ちなみに、201号室は現在のところ空室だ。


「言われて見ると、最近、物音がしていないように思えます」


「いつぐらいからかしら?」


「先月くらいからでしょうか? 新聞とか取っている人なら、どれくらい溜まっているかでわかるんですけどね……。そういえば、しばらく姿を見ていません」


「困ったわ。また夜逃げかしら」


「小林さんからもまだ連絡はないのですか?」


 小林さんというのは、半年前まで201号室に住んでいた男の人だ。30代後半で日雇い労働者だった。日焼けをしていて、胸板の厚い人だった。離婚をしたが、小学生の娘がいるらしい。一度、写真を見せてくれたことがある。真新しいランドセルを背負った、入学式の写真だ。

 小林さんは、胸毛も濃く、胸からおへその上まで、まるで熊かと思ってしまうくらいまで毛があった。私が酎ハイを一本飲む間に、カップ焼酎を二本開けてしまうような豪快な人だった。荒々しく私を抱くのも好みだった。ただ、まとまったお金があるとき、駅前の繁華街で女を買っているという欠点のある人だった。財布に「また来てね。今日は楽しかった」と下手な字で書かれた名刺が入っていた。ジュリアっていう阿呆みたいな名前だった。


「そうなのよ。あ、そうそう。201号室、明後日から新しい人が入るからよろしくね。それはそうと、山城さん、どうしたのかしら。学校に連絡してみようかしら」


「たしか、画家を目指しているのでしたね」と私は言った。


 山城さんは、自分のアトリエが欲しくてこのアパートを選んだそうだ。2LDKで、一つの部屋を自分のアトリエにしていた。彼の描く私の姿も好きだった。ただ裸で椅子に座り、キャンパスに向かう彼を見ている時間は至福だった。性器を露わにして彼のデッサンが終わるのを待つ私は、まるでお預けをくらった子犬のようだった。お預けを食らった子犬は、唾液が自然と出るものだ。彼の若さ、というのも得がたいものだった。

 だけど、その若さが彼の欠点でもあった。顔立ちが綺麗だったのも美しき欠点であったかも知れない。同じ美術専門学校に通っている女の子だった。アパートの壁は薄く、丸聞こえだった。


「来週まで待って、連絡がなかったら、契約に則って部屋を片付けようと思うの。また手伝ってもらってよい?」


「もちろんですよ」


「助かるわ。そのまま業者さんに任せると、赤字になってしまうのよ。本当に、京子ちゃんみたいな人がすんでくれていて良かったわ。ベッドとかも、直ぐにネジを外して分解してくれるもの」


 どうもこのアパートは夜逃げが多く、毎回業者に片付けを頼むと赤字になるようで、部屋の家具の片付けなどは私が手伝っている。本棚やベッドなどは分解し、ばらして一階へと下ろし、粗大ゴミのシールを貼る。私は体は丈夫な方で、眠っている男くらいなら背負って階段を降りるくらいのことはできるから、ベッドの部品などは難なく片付けることができる。


「お安いご用です」と私は答えた。


 ・


 ・


 大家さんの言うとおり、201号室に新しい人が引っ越してきた。小林さんとの思い出が塗り替えられるのは寂しいが、仕方が無いというものだ。


「こんにちは。202号室に住んでいるものです」


 私は、さっそく挨拶に出かけた。近所付き合いは大事にすべきことだと私は思っている。


「あっ、こんにちは。初めまして。岩城といいます。よろしくお願いします」


「はじめまして。あの……引っ越してきた早々恐縮なんですが、実は夕ご飯作り過ぎちゃって……もしご迷惑でなかったら……」


「あ? え? 良いんですか? 美味しそうな肉じゃがですね」


 どうしてなのか、肉じゃがが男はみんな好きらしい。


 ・


 ・


 ・


 201号室の浴室からシャワーの音がする。ということは、もうすぐ岩城さんが私の部屋にやってくる。

 

「今晩は」


「あ、いらっしゃい。すみません、夕食、もう少しで出来ます。先にビールでも飲んでいてください」


「恐縮です。うわぁ、美味しそうな匂い。今晩の夕食はなんですか?」


 岩城さんが夕食を私の部屋でとることが日課となった。夕食を食べたあと、シャワーを浴びる私を、煙草を吸いながら、テレビを見ながら待っている岩城さんの姿は好きだ。

 ただ、彼の一線なのだろうか。泊まらずに帰る。隣の部屋なのだし、帰る意味もないのだろうと思うのだけれど、彼にとっては違うのだろう。彼は夜の11時に、必ず電話を架ける。離れた所に恋人がいるらしい。隣同士に住む私よりも離れた場所にいる女がどうも気になるらしい。引っ越してきて1週間で私を抱いた軽薄さが嘘みたいな律儀な人。

 だけど彼は今日、私の部屋でぐっすりと眠る。




「京子ちゃん、引っ越してきた翌月から滞納するなんてどう思う?」


 私はアパートの一階で車を洗っていた。タイヤが泥まみれだったのが気になって、洗っていたところに大家さんがやって来た。


「忘れているだけじゃないですか? 引っ越してきたばかりで慣れていないのかも」


「携帯の電源も切れているし、わざとなんじゃないかしら。最初が肝心なのよ、最初が」


 大家さんは家賃の回収を張り切っている。


「また、夜逃げじゃなければ良いんだけどね」と大家さんはため息を吐いている。


「そんな人のようには見えませんでしたけど……」と私はホースの口をぎゅっと指で摘まんで、フロントガラスに水を撒く。


「人は見かけによらないものよ。京子ちゃんも騙されないように気を付けなさいね」


「気を付けます」と私は答えた。


 タイヤに付着していた泥は、排水の中へと全て流れていた。

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