第十九話 「希望」
時間はルナフィリアが都市開発に取り掛かかる前日に戻る。
ルナフィリアの指導のもとに近衛騎士隊などを中心として廃棄された村のようなであった此処も僅かながらに街へと発展する兆しを見始めた頃。
場所は街外れの一角。ようやく衛生を保てるようになり始めたこの場所で、なれども未だ打ち捨てららかのようにボロボロの建物が一つ。
そこにルナフィリアはアナヒタのみを連れて訪れていた。
「それで……。王様はこんな場所に何しに来たのかしら?」
「……ふむ。とりあえず入ってみれば分かるさ」
ルナフィリアは言葉少なくそれだけを伝えると、一切の戸惑いなくその扉を開いた。
アナヒタもそれに続き、そしてそんな二人の前に広がっていた光景とは――。
「………そう。此処はそういう場所だったのね」
そこに居たのは――襤褸雑巾のように横たえられたいた幾多もの病人達であった。
一応は死んでいないのだけれど、しかし此処に居るもの全てがもはやどうしようもないと一目で分かるよう酷い有様であった。
ある者は肌が赤く爛れ、掻きむしった結果皮膚が捲れあがれ肉すら見えているもの。
起き上がる事すら出来ずに汚物を垂れ流しているもの。
右肩から先が融解してしまっているかのように肉が露わになっているもの。
此処にはどうしようもないほどに死臭が漂っていた。
既にこれは病気の治療場所では無く、死体安置所寸前と言ったところであった。
そのような場所に唐突に、此処に住まう全ての住人達とって敬愛して止まない憧憬の対象たるルナフィリイアが現れたことで、幾人かの健全な体を持つ獣人たちが驚愕する。
彼らは病人の治療――というよりも最低限の汚物処理だけをしている者たちであったが、彼らからすれ雲のような存在であるルナフィリアの登場に慌てふためく。
「っ! シ……シルエスト様!? な……何故このような場所に!!」
そのように慌てる彼らに、けれどルナフィリアは落ち着いた表情を向ける。
「そんな事は決まっておろう。此処に我の民がおり、我の力が必要であるからよ」
それこそが自明の理であるかのように答える。
ルナフィリアは彼らを見捨てるつもりなど無かった。
そもそも彼女はもっと早くからこの場所に一度訪れていた。
夜中に皆が眠っている時間に訪れ――そして、その此処に集う者たちの治療が自身の力のみでは果たせないことを悟ったのだ。
銀詠師には治療術もある。ルナフィリアもそれを知っているからこそ、治療にあたろうと思っていたのだが此処に居る者たちは余りにこの魔の森に漂っていた瘴気を吸いすぎていた。
そこから様々から病原に感染しているのだろうが、その原因そのものは穢れた空気を吸ったが故にその身体の根源から穢れてしまったところにあった。
つまりこの森に巣くっている魔獣と同じこと。此処に居る者たちもこのままいけば、何れ魔獣、魔物といった者たちに成り果てる者も居るだろう。
だからこそ、彼らをこのような場所に押し込め、そしてどうしようもなければ最後は身体が残らぬように焼き捨ててきたのだった。
ならば魔獣の肉体を浄化したようにすれば良かったのだけれど、しかしそれをするにはルナフィリアの力は獣人達の肉体を浄化するには大きすぎた。
もしもルナフィリアがそれを成そうとすれば、浄化すると同時に肉体の方が耐えきれず崩壊するだろう。
そもそもルナフィリアがそうした方面において細かな力の調整が未だ得意とはしていなかったのも、その理由に拍車をかけた。
故に一度は彼らの治療を諦めていたのだった。
なれども、此処に浄化に関して文字通りにこの世界で右に出るもの居ないだろうと言える者が背後に居るのだ。
ならばもう一度この場所を訪れるのは当然のことであった。
「我は決して汝らを見捨てぬ。民は王のモノである。ならばそれを守護する事こそが王たる我の務めであろう」
薄汚れた場所。汚物や肉の腐ったような匂いが充満する場所で、けれど威風堂々。
そうした穢れを全て祓うかのような姿でルナフィリアは躊躇する事なく、室内の一番奥に向かう。
それを、彼女の出迎えた獣人たちはただ呆然と見送り、床に横たわる病人達も意識あるものは目に焼き付けるように見つめていた。
そんな彼らの視線を受けながらルナフィリアは室内の一番奥に辿り着く。
そこには頬がこけ、髪もほとんどが抜け落ち、骨と皮しか残っていない兎族と呼ばれる女性が横になっている。
長い耳も赤く爛れ、嘗ては綺麗な姿を見せていただろうその姿は、今は死体寸前といったところであった。
彼らを世話していた獣人経ち曰く彼女はもって数日。それこそ今夜にも亡くなるだろうと思われていた。
その女性の傍にルナフィリアは躊躇なく膝をつく。
床には未だ片付け切れていない汚物の残滓があったが、そのような事など気にもせずルナフィリアはただ横たわる女性だけを見つめる。
「――アナヒタよ。此処にお主の水を入れてくれぬか。浄化の水。あらゆる穢れを取り除く清浄な水を」
そう伝えながらルナフィリアはアナヒタへ予め用意しておいた吸いのみを手渡す。
それを受け取ったアナヒタは――暫くの間、何かを考えような表情でルナフィリアとその女性を見つめたいが、結局は何も言わずにルナフィリイアが求めているだろう浄化の水を吸い飲みに溢れるほどに入れる。
あらゆる穢れすらも洗い流す清浄な水。ルナフィリアのように銀水晶の力で強引な浄化では無く、生物が本来あるべき流れに正す事のできる水である。
それを受け取ったルナフィリアは、それを飲ませる為に女性の頭を僅かに上げる。
だがその僅かな衝撃が悪かったのか、それまで眠っていた女性が目を開くと共に――咳き込みながら僅かながら吐血したのだった。
「――ぐっ。げほ。がはっ」
それは正面に居たルナフィリアの体に掛かる。白い髪や白い肌に紅い血が飛び散る。
それを見て慌てたのは――先ほどまで此処で世話をしていた獣人たちであった。
突然の事で呆然としていたが、敬愛すべき主君である少女が、唐突に治療にあたっているのだ。
慌てて彼女の傍へより、掛かった血を拭き取ろうとするがそれをルナフィリアは手で制す。
「よい。気にするな。それよりも気が付いたか? 気が付いたのならば――これを飲め」
掛かった血など気にもせずルナフィリアは、兎族の女性の頭を持ちながら吸いのみを口へと挟む。
女性の方は未だ朦朧とした感じであったが、言われるがままに口に流された水を嚥下していった。
ゆっくりと水を飲ませ続け――吸い飲みの四分の一ほど与えたところで、ルナフィリアは吸い飲みを離した。
その時になって、ようやく女性の方も少しだが意識を取り戻していた。
そして――女性は目の前に女神が居るかと思った。
今まで見てきたものよりも、何よりも美しかったから。
だから、これは遂に死んだ自分に天使が迎えにきたのだと思ったのだった。
「……あたい……死んだ……の?」
だからこそ、白く儚い女神にそう呟いたのだけれど。
けれど目の前の存在はそのような儚さなど吹き飛ばすような力強い笑みを浮かべたのだった。
「いや貴様は死なぬ。このような場所は貴様の死に場所ではない。だからこそ貴様は我が民であるが故に王たる我が命じよう。此処で死ぬことなど許さん」
その言葉は死にかけであったはずの女性の体に炎のように流れ込んできた。
目の前の存在は儚い天使などとんでもない。
それはまさに燃え上がる太陽の如く熱をもっているのだから。
「……あは。うん……分かった」
それだけを伝え女性は再び目を閉じ、意識を失った。
けれど、それは先ほどまでの死臭に溢れた姿ではなく、しっかり規則正しく呼吸をした生命の鼓動が確かに感じる姿であった。
その女性の姿にルナフィリアは優し気に笑いながら、ゆっくりと頭を降ろした。
そして一度だけ優しく頭を撫でてた後に――ルナフィリアは立ち上がり背後に控える者たちへ振り返る。
その姿を見て、背後に控える獣人も床に横になっていた病人も皆が息を止める。
ルナフィリアは女性が吐いた血で、その白い髪や肌を紅く汚していた。
けれど、それでもなおその姿は美しかった。
その血よりもなお紅い瞳を光らせながら立ちゆく姿は、慈愛に溢れる聖母のようであり、あるいは全てを蹂躙する覇王のようでもあった。
故に彼らはただただその姿に見惚れていたのだけれど、そんな彼らに向けてルナフィリアが口を開く。
「分かったであろう。我は此処に居る全ての者を見捨てはせぬと。ならばこれより此処に居るもの全ての治療を行う。――が、此処はいかんせん狭すぎる上に衛生上もよくない。故に既に此処に変わる治療院を造らせておるからな。これより動ける者から順次其処に移していくぞ」
そうして、未だ呆然とする獣人たちに指示を出そうとしたのだけれど。
その前に、先ほど治療した女性のすぐ傍で座りこんでいた一人の年老いた獣人が言葉を発した。
それは枯れ果てた声であったが、しかし此処に居るもの全てに届いた。
「なぜ……。なぜ貴方様は……儂らにそこまでの慈悲を与えてくださるのでしょうか。貴方様からすれば……儂らなど塵同然でありましょうに……」
その年老いた獣人もなぜこのような事を問うたのか自身でもよく分かっていなかった。
あるいは、それは既にとうの昔に死を覚悟していたところにまさに綺羅星の如く現れた生の希望に対する戸惑いから生まれた言葉であったのかもしれない。
けれど、それはこの場に居る者全ての者たちの思いでもあった。
だからこそ、その言葉を受けたルナフィリアをみなが見つめるが――。
「――たわけ! 我が民の価値は我が決める。それを塵だぞ? 馬鹿を言うな。汝らはこれより千年国家を造る礎となるべき者たちであるぞ! ならばその王たる我からすれば汝らはこの世界で最も必要な者たちにほかならん! なればこそこのような場所で汝らが死ぬことも、自らの塵と卑下する事もこの我が許さん!」
「――は、……は」
そう言葉を発するルナフィリアは存分に覇気をまき散らしていたからこそ、言葉を受けた者たちはただただ圧倒されるように頷くだけであった。
けれど確かにその言葉は受けた者たちは、気が付けば絶望に薄汚れ瞳もその覇気と共に洗われたかのように、その覇気を発するルナフィリアをただただ見つめていたのだった。
「故にこれは慈悲などではないわ。王を名乗る我がすべき当然の責務よ。そして汝らは早々にその病を治し、我らが王国の建国に携われ。さすれば我らが王国。その荘厳な姿を必ずみせてやろうぞ。ならばまずは生きることに全力を尽くせ」
それだけを伝えると、ルナフィリアはその問いを発した老いた獣人を含め、片っ端かしら治療にあたる。
そして、治療を終えた者たちから順次新しい場所へと運ぶように指示をだす。
そうで健康であった頃の姿になるまでの適切な治療を行う為に。
そうして、そこで治療を手伝う者もその治療受ける病人も、そこにはルナフィリアに感化されるかのように決して死にゆくことを許容する者は既に無く。
ただただ生きる為に全力を尽くす者たちの姿があったのだった。