3人目
3人目の犠牲者、平城金子の脳裏には焼け焦げた生々しい死体の映像が、神経の隅までびっしりとこびりついていた。
理科室を覗いた瞬間、耐えられなくなり、トイレへ駆け込んだ。
とまらない嘔吐。それは呼吸のたび、断続的に繰り返されているように、金子には感じられた。その苦しみと同時に、怒りも込み上げてくる。
ファック! どいつもこいつもクソよ! みんな自分が一番偉いと思っている。自分の意見が正論だと思っている。自分の考えが世間的に正しいと思っている。自分の行いが未来を築くと勘違いしている。どいつもこいつもファックファックファック。
少なくともあたしは違う、と金子は考えていた。自分の言葉に意見に考えに責任なんてない。発した言葉が言霊となって相手に届くだろうことを意識していても直そうともしない。感じたことは素直にはき出す。そうしないと誰も自分の愚かさに気づかないのよ、ファック!
罵倒し、罵倒し、罵倒して相手が悔い改めても罵倒した。いつしかそれが日常となった。
自分へ対しての恨みつらみは数知れないだろう。それでも金子はやめない。誰かがノーと言わなければ変わらないのよだからあたしはやめないしこれからも続けるし後悔もしない、なぜなら世の中クソの肥だめ状態だけど中には本当に優しくて正しくて清涼な人間がいて、そのひとには絶対に文句とかそれに近い発言とかしないしむしろ応援する。そのひとを全力で擁護する。
そうじゃない連中が多いだけ。そんな日本、きらい。
おえええべべえええガフ! 嘔吐はとまらない。
胃液が少量しか排出されなくなってから、ようやく立ち上がることが出来た。
金子は震える脚に意識を集中させ、なんとか倒れまいと踏ん張った。
倒れないのが金子。くじけないのがあたし。汚物まみれのこんなところで倒れてはいけない。その瞬間、自分の中の何かが壊れてしまいそうな気がした。
踏ん張るが、すぐに膝を折って、おえええべえるべるぶええええ!
何回目のジャーッだろうか……。しかし今度は、そのジャーッがとまらない。
ジャ――――――…………
便器からゲロだらけの水があふれ出す。とまらない。とまらない。ずっと出続ける。
金子はバタ足を踏んでいたがそれをあきらめ、個室から出ようと試みた。ところがどうだ。ドアは微動だにしない。ロックははずした。扉は手前に引くタイプ。動かない。ぴくりともしない。
ファック! どこのクソ野郎があたしをクソまみれにしているのよ。絶対にゆるさない。
ドアをよじのぼり、上にある隙間から逃げ出す。ばちゃんっと降り立ち、急いで廊下へとつながる扉へ向かう。ファックファックファック! ここも施錠されている。完全に閉じ込められた。
さてどうしようかしら、と考えを巡らせているとき、背後で新しいジャ――…………
金子は確信した。
あたしの他に誰かいる。
湧き水あふれる道を進み、個室を調べることに。全部で4つ。自分がいたのは一番手前。急いで飛び込んだから当たり前。すぐ左のドアを押す。ガンと壁にあたってゆっくりと閉じる。誰もいない。つづいて3番目。誰もいない。いよいよ最後だ。ここで金子は思い出す。なんか、あった。トイレの怪談。そうだ、こっくりさん……いや違う。座敷わらし……これも違う。ああそうだ――
トイレの花子さん!
なんだっけ……確か……赤いちゃんちゃこ着せましょか~だっけ、それとも、ねえ遊ぼ、だっけ、思い出せない。それらに対し、肯定の言葉を発すると引きずりこまれる、だっけ?
あたしの答えはファック!
あたしは激動の時代を生き抜いてきた。こんなことではへこたれない。
その勢いで最後のドアを開けた。無人。
拍子ぬけしたが、金子はある重大なことに気づいた。くるぶしを超えているびちゃびちゃを感じて気づいた。そう、水は流れ出さないでどんどんたまって行く。ファック。くさい。びちゃびちゃ。そうだ、小窓。届かない。ファック。足場になるもの。くそ! くそ! くそ! 鏡をはずして投げつけよう。はずれない。ファック! どぼんどぼん。ファック。くさい。どぼんどぼん。なによこの塊。クソ! スーツ男、高校生、あたしを助けやがれ! くちから鼻からずるるるるる、これをとめてちょうだい。そうだ、天井にある換気口、今なら届くはず。子窓も届くはず。まずは子窓から、ファック。あきらめて換気口、くそ!
ぼごおおうううううごごごごごぼごんぼこん。ぼごぼごぼご。
苦しくはなかった。酸素を求めることだけに脳は働き、それが無理だと悟ると、意外と楽だった。吸い込むのは水だけ。鼻からくちから、入ってくるのは水だけ。
酸素が欲しいのよ!
苦しくない訳ないじゃない! 肺が求めているのは空気。酸素! 水じゃない! ひと呼吸でいい、酸素をちょうだい! 酸素酸素酸素酸素!
だんだん……楽になってきた。思考が衰えてきた。モウだめダ……でモ、平気。
あたしだけじゃない。もうひとり、この水の中に閉じ込められているひとがいるのだから。同じ女なので少しだけほっとした。こんな姿見られても傷つかないから……。
孤独に死ぬんじゃなくて、よかった……。
☆
「こうやって、ひとりひとり殺されて行くんだ」
うずくまっていたイヨを立ち上がらせ、理科室を出たちょうどその瞬間、前を行くボクたちに少年はそう呟いた。
ボクたちは足をとめて振り返った。少年の次の言葉を待つ。
「おそらくもう、あのお姉ちゃん……殺されている」
それはボクも懸念していた。その心配があった。不安を容赦なく突いてきた少年の言葉に、ボクは自分が焦っていることに気づくことが出来た。早く赤髪の女性を見つけ出し、無事を確認し、不安を払拭したい。すなわち、恐れを取り除こうと急いでいたのだ。
「ここは冷静になって行動したほうがいいと思うんです」そう言って少年は腕時計を操作した。するとどうだろう。驚くべき現象が起きた。何もない空間に浮かぶ緑色のキーボード。しかしそれは見知った横長のキーボードではなくて縦に伸びていた。肘を曲げた左手はそのままに、少年は右手だけを動かして縦長のキーボードを打ち始めた。すぐ隣の空間に別の枠が出現し、文字の羅列が打ち出される。すぐに反対側の空間に地図のような図形が現れた。ある一点で、ぴこんぴこんと光が点滅している。
「1階の、トイレにいるね」
なんだそれは? ものすごい装置だ。腕時計型の3Dコンピューター? ちょっとさわらせてほしい。ねえ、それ貸してくれるかな、そうお願いしようとしたときだった。
「このあやかしめ!」
走る閃光。ぼとん、と落ちる肉の塊。悲鳴。泣き声。笑い声。
「お前が犯人だな。名刀タカシゲのさびにしてくれる」
スーツ男が狂った。いや、誤解しているだけなのか? 違う、誤解しただけでは、男の子の腕を切り落とすなんて出来やしない。間違いない。発狂したのだ。
逃げるぞ! 少年の残された右腕をつかんでボクは走った。
「待って、あの腕、どうするの?」とイヨが落ちている付け根から血を流す腕を見つめながら言う。
「あとで拾いにくればいい。今はあいつから距離を取るんだ」
うわああああんいたいいいいいいたいいたいああああんえっぐえええん。
さて、遠く離れてもこの子が泣きつづければ居場所がばれる。だけどその前にやることがある。
「村名さん、この学校の生徒?」「違うわ」「そうか、なら、時間がかかるね」「どこへ行くつもりなの?」「保健室、すぐに止血しないと」「それなら、なんとかなるかも」
そう言って彼女は腕時計を操作し始めた。
村名イヨも、最先端の時計を持っていた……。
つづく