ふたり目
ふたり目の犠牲者、松小信輝は絶体絶命の窮地に追いやられながらも、かならずこの危機を切り抜けられると信じていた。
自分の心の中で、地獄の業火のように燃え続けている炎を抑えるには暴力しかなかった。心の底にずっとこびりついている怒り。殴り殴られ張り倒し、骨の砕ける音をつまさきで、こぶしで感じたとき、やっと炎は眼を閉じる。しかしその冷却期間は、すぐに凍解した。
道行く人々はすべてケンカの対象でしかなかった。自分からそういう状況に導いた。何度も危険な眼にあった。それでも収まらないこの渇望。信輝は不審に思ったこともある。これはなにかの病気じゃないだろうか。病院に行けば穏やかな性格を手に入れることが出来るんじゃないか。
しかしそれは、望んではいないこと。
自ら求めているのだ、この消火活動を……。
救いの手を求めていない。救いの手を求めさせることに至福を感じるのだ。
ああ病気さ、病気でなにが悪い、文句があるならかかってこい。今回も信輝は、そう言いたかった。啖呵を切りたかった。
ところが相手がいない。小細工を施している。姿を現さないまま襲ってきた。理科室にもぐりこんだ瞬間、何者かに襲撃されたのだ。
ゴオオオオゴオオゴトゴコンゴオオオオ……部屋の中に命の炎が宿るような音がこだました。ドアを開けて出ようとしたが、すでに施錠されている。あきらめた信輝は振り返り臨戦態勢を取った。
「てめえ、隠れてないで出てこい!」
その刹那、人体模型が動き出した。コマ送りのようにかくかくと、肘と膝をあまり曲げずぎこちなく、人体模型が前進してきたのだ。それだけじゃない。身体からしゅうしゅうと煙を上げている。鼻をつく異臭が室内に充満する。
どろり、と模型の顎が垂れさがる。むき出しの筋肉がプリンに変わったようにとろけ出す。ぐじゅぐじゅの心臓が顔を出す。
人体模型でもなんでもいい。ぶっ倒せばそれですべて決着。信輝が模型に襲いかかろうとした瞬間、雨が降った。
ここは室内だ。あり得ないだろ。なんだよこれ。しかもいたるところから煙が上がっている!
信輝が顔を上げたとき、すべてが、燃えた。三角フラスコが溶け、遠心分離機、ビーカー、アルコールランプ、ろうと台となにもかもが溶け出し、それから燃えた。
怒りの炎が怒りを露にした。
それはまるで、信輝の心の中から抜け出して負けてしまう宿主に制裁を加えるべく、すべてを呑み込んで行く勢いだった。お前ではオレを満足させることはできない、そう言っているようだった。
自らの炎に裏切られて、信輝は生まれて初めて、絶叫した。
天井から垂れ落ちてきた液体が腕に当たる。液体が肉を食いやぶる。そのまま骨に達する。達した瞬間、燃える。炎を上げる。
ぎゃああああ!
ぐずぐずの人体模型が肩に触れた。触れられた肩がずるりと溶ける。激痛とともに身体のあちこちが崩れて行く。
オレにさわるな! オレから離れろ!
それでも液体と人体模型は容赦なく触れてくる。
視界が怒りに染まったとき、信輝は間違いなく見た。
人体模型の背中が割れ、中から、小柄な人間が這い出てくるのを……。
☆
妙な笑い方だった。その表情は蒼ざめている。普通は眼を細めるはずなのに、大きく見開かれている。その状態で、イヨは笑っていた。異常な事態にパニックを起こしているのだろう。落ちつくまでそっとしておいたほうがいい。
「ちょっと、その薄気味悪い笑い方やめなさいよ!」
うわあああん! 小学生も大声を出した。
「ちょっと、そこのガキも黙らせてよ!」
ご注文の多いことで。でも、落ちつけ、というのが無理な話だ。不可解な状況に置かれ、さらには死体まで登場。ボクだって今すぐ逃げ出したい。
「これは……」
スーツ男はかなり落ちついた様子だ。死体をくまなく観察している。
「鋭利なもので首を切断されたようだ。これほど美しい切り傷……そうそうお目にかかれない」
えっと……犯人はあなたですか? 鋭利なもので切られたって……その刀、あやしいんですけど。とはもちろん言えない。言った瞬間、バレたのなら仕方ない、と刀を振り回されかねないからだ。
「ははは。心配するな。私は犯人ではない」言葉をなくしているボクたちを安心させようとするスーツ男。「もしも犯人なら、とっくに殺しているよ。なぜなら、教室で眼を覚ましたのは私が最初だ。寝ている君たちを殺すことは簡単なことだった」
「実はあなたがこのひとを殺していて、その記憶を失っているとしたら?」
ボクの問いに、スーツ男は笑顔を見せた。
「面白いことを言うな少年。記憶……か。う~ん、どうやらすべて覚えているようだ。道場、塾に通っていたこと。友や仲間の死。失われた記憶は、ここへやってくるまでの短い間だけだ」
やっぱりこのひとは裏社会かどこかの出だ。友や仲間の死って……。
「とにかく、何者か邪悪なやからが潜んでいるのは間違いない。慎重に進むことにしよう」
気づくと、イヨはもう笑ってはいなかった。代わりに、床に手のひらを這わせている。なにをしているのだろう。まあいいや。さあ行こう、と奇行をやめさせてボクたちは出発した。
校舎を出るまで、異変に出くわさなかった。正面に鉄で出来た大きな正門がそびえ立っている。格子ではない。鉄板。両脇に伸びる煉瓦の壁とサザンカの花々。このような要塞じみた学校、あったかしら?
「巨大な施設だな」
「ええ。こんな広いの、見たことありません」
そう答えたとき、スーツ男はすでに門の前に移動していた。
「ダメだ……」
びくともしないようだ。脚立かなにか持ってこないとてっぺんまで届きそうにない。6メートルくらいはある、のぺ~っとした扉と壁。ならば、カギを見つけなければならない。
「もう少しで出られるのよ。なんとかしなさいよ」
怒りとも焦りとも焦燥とも取れる赤い髪の女性が叫んだときだった――校舎から絶叫が響き渡ったのは。
振り返ると、2階の端の窓が、真っ赤に染まっている。
位置を確認してボクたちは駈け出した。
「ちょっと、かまっている余裕なんてないでしょ。ほっといて出口を探しましょう」
その言葉を無視して校舎へ戻り、階段を駆け上がり、目的の部屋へ。そこは理科室、と標識がかけられていた。
すぐにドアを開けようとしたボクを、スーツ男がとめる。
「やめたほうがいい。もう少し、待とう」
冷静になることで、危なかった、とボクは気づき蒼白となった。バックドラフトの危険があったからだ。密閉された室内に空気が流入したときに起こる爆発炎上。あやうく吹き飛ばされるところだった。
しばらくしてドアを開けると、ここが元理科室だとはとても信じられない光景が広がっていた。椅子やテーブル、実験道具などすべてがぐずぐずに溶け、そして真っ黒に焦げていたのだ。床の一部に穴が開き、1階部分がつつぬけになっている。室内の中央あたりに、黒い物体がふたつ転がっていた。その形状から、かつては人間だったと連想される。倒れている状態から、どうやら死ぬ寸前まで争っていたようだ。
「この指輪、見覚えがあるのではないか?」
スーツ男に促されるまま覗きこむと、あっ、と思い出した。
すべての指にはめられた指輪。
「そう、金色の髪の男だ」
冷静になることで、ボクに状況を把握する能力が授けられた。
「ところで、あのうるさい女のひとがいないんですけど……」
つづく