【第一章】聞こえた嗚咽
――残念だけれど、拓也君の左腕は。
拓也はベッドに潜り布団を被っていた。シーツが視界を埋める。
――日常生活は普通に送れる。でも野球は。野球は諦めて欲しい。
(く、そお!)
反復して考える程、涙は止まらず悔しくて悲しいのだ。
告げられた時は泣き叫び、病室のシーツを引き裂き点滴の機械類を倒して血を点滴のチューブに流してしまうような暴れ方をした。
今も思い出してしまった拓也はシーツを握り怒りを押さえている。
「拓也」
ぼそっと聞こえるか聞こえないか、それくらいのか細い声が拓也が入院する個室に入る。女性のものだ。
拓也は今の声は聞こえていたのだろう。布団を剥ぎ、体を起こす。
周りを少し見渡す。落ちないように半分しか開かない窓。鍵が付けられている。そこから首を回し右方を。
「来てたんだ、夕乃」
ベッドの右側にパイプ椅子をぴったりと付け、心配そうに拓也の顔を覗き込むのは、藤田夕乃。拓也より一つ年上である。長い黒髪を流し、学校帰りなのか制服だった。
うん、と夕乃は頷き拓也の手を握る。
彼女は彼がもう野球が出来なくなったことを聞いていた。
ベッドの正面には棚があり、その棚が傷付いていたり近くの壁が少し凹んでいたりする為に夕乃にも拓也が暴れたことが良く分かる。
拓也の右手の甲は青く腫れていた。凹ませたのはこの右手のようだ。
「ダメだよ、拓也。自分は大切にしなきゃ」
無意識に握る手に力を込める。
拓也はベッドにまた頭を戻した。起きている意味がないと思ったのか。
「夕乃。俺はどうしたら良いと思う? もう生きる意味がないんだよ、俺」
そう言う拓也はただ天井を見上げ、白の壁紙に均等に並ぶ蛍光灯を見つめる。
彼は今、絶望の淵にいるのだろう。夕乃は拓也が最近頻繁に屋上に行くことも知っている。だから命の心配も同時にしていた。
そんな時にこの質問が来た。答え方を間違えれば彼は、拓也は何をするか分からない。
「拓也。人はツライことが楽しい、嬉しいことより上回ったら死んじゃうんだって」
気休めのようだが夕乃は拓也を励ますように続けた。
「だから、拓也は楽しいことを想像して。嬉しいことを見つけて? 拓也が今ツライと思っている思いは、きっと誰かがまたする」
言葉を切る夕乃。ためらっているのか。
「だから拓也は、拓也には誰かを助けてあげられる力があるよ。あの事故で怪我をした人は心も——」
「綺麗ごとだろ!!」
拓也は夕乃の手を振り払い、眉間にしわを寄せた。その剣幕で本気で怒っていることが伺える。
「俺だってツライのに。何で……何で見ず知らずの連中を励まさなきゃならねえ!? 励まして欲しいのは俺だわ!! 夕乃。悪いけどもう帰ってくれないか。俺、最近怒りやすいんだよ。お前に手あげちまうかもしれないし」
彼は顔を背け。引き戸とは逆の窓に目をやった。積乱雲が大きく見える。後で大雨かもしれない、と拓也は考える。
夕乃は目をぱちくりと動かし動揺していた。拓也に怒鳴られたからか、自身がツライ拓也をいたわらずに無茶を言ったからか。
夕乃は下唇を噛みしめ引きちぎらんばかりに我慢して、
「ごめんね。無神経だったね」
と泣かぬように我慢し、彼の背中に告げ、彼女はスクールバックを背負い直してから引き戸を開けて院内の廊下に出た。
後ろ手で引き戸を閉めた彼女は目から滴が流れたことに気がつき慌てて拭った。
言い過ぎた、と拓也は枕を抱いて寝返りを打ちながら思う。
別に夕乃は励ませ、だなんてことは言っていない。彼が解釈したことだ。
だから言い過ぎたと、思うのだろう。
もう消灯の時間で病院の電気は消され、テレビも付けられない。しかし拓也は目が冴えてしまって眠ることが出来ずに寝返りを繰り返す。
携帯は院内では使える場所が限られている為使用は出来ない。もう、大人しく寝る以外に選択はない。
拓也は野球が出来なくなった、と言うことを真剣に考え始めた。拓也が今通う高校にしたのも野球の設備が良くチームも良かったから。甲子園を目指す気で本気で勉強して入った学校だ。
しかし、この有り様である。拓也は泣くしかなく笑うしかなかった。
そして夕乃も拓也の夢を甲子園を応援してくれる優しい人だ。
なのに酷いことを言った。拓也にはまた後悔がループするように頭を旋回している。
拓也は右利きだが、左が動かなくてはグラブが握れない。バッドは片手で振ったところで飛ばないのだろう。ボールの方が重く片腕ではカバー出来ない。
目を瞑れば野球のことばかり。
(あの試合は良かった。相手チームのフェンスギリギリの打ち上げフライから取ったボールを二塁に投げて点を防げたんだから。ラッキーだな)
※
「拓也に嫌われちゃったらどうしよう。私、無神経のおせっかいだったのかな」
病院の帰り、夕乃は独り言を呟いている。本人は口に出しているとは思っていない。
夕日が背にあたり、夕乃の影が身長よりも高く移る。アスファルトのグレーに塗られた影は不自然なほど歪んでいた。
ああ、まただ。と夕乃は思った。
夕乃の心身が疲れている時、影は歪んで見える。それは彼女が幼い時から見えているものだった。
道路の両壁には住宅が一定感覚で並び、夕焼けは住宅も電柱も自分も赤く染めていた。
「ただいまー」
マンションのポスト付き扉を開けて夕乃は玄関へ入る。夕乃の自宅はマンションなのだ。
「ああ夕乃、拓也君どうだった?」
リビングの扉を開けてから、こたつ用の机の上に食事を並べながら夕乃の母は娘に聞いた。
首を振った夕乃はうなだれたように肩を落とす。
「拓也君だって、分かってるわよ。夕乃は深く考えないようにね」
ぽん、と肩を叩かれて気が付く。今日はカレーだ、と。
夕乃はリビングの隣の部屋が自分の部屋で、引き戸式。中に入ってからはベッドにボスンと体を投げ、うつ伏せに。
バスの事故。それが起こったのは七月の頭だった。
バスには野球部が乗っており、汗臭さと男臭さが漂っていた。練習試合が終わったばかりだったのだ。
このとき乗っていたバスは一般のバスであった。
だから、野球部以外も乗っていたのだ。そんな中、事故が起きる。
事故原因は運転手の不注意で、急にハンドルを捻り横転した。と夕乃は聞いていた。
(後、三日で夏休みになっちゃうよ……。これじゃ拓也来れないんだろうなあ)
そう考えて夕乃は仰向けに直り、腕を額に当て目を瞑る。
野球部のメンバーは何かしらの怪我を負っているようで拓也と同じ病院に入院、或いは通院しているものがほとんど。
でも拓也は彼らに会いに行こうとはしないらしい。
みんな心身に傷を負ってるんだろうし、と夕乃は思う。
母から夕食が出来たと呼ばれたが、ベッドから彼女はなかなか動こうとしない。
「ちょっと、夕乃? 聞こえてるなら返事しなさい」
夕乃の母が引き戸を開けてベッドに目を凝らす。
「寝てるの?」
スースーと小さな息で夕乃は眠っていた。
いつもこの時間に寝ることはない。疲れているのか。
「起きたらご飯食べにおいで。ラップしておくから」
夕乃の母はそっと扉を戻し、柔らかい笑みを浮かべた。
※
拓也はベッドの上で布団を頭まで被り、猫のように丸まっていた。別に寒いわけではない。
彼は、眠れないだけだ。
明日どんな風に夕乃に謝ろうかと試行錯誤し、言葉を選んでいた。
何かと素直に謝る機会はない。だからどんな言葉が良いのか、拓也にはわからない。
自分は不器用だ、と拓也もわかっているけれど。その対処法はわからなくて。迷って、不安定になって。壊れて。
人間関係、人付き合いは苦手だ、と拓也は口だけ動かして声は出さなかった。
もう消灯の時間になっていた為に声を出すことは好ましくないと考えたのだろうか。
明日、夕乃は来てくれるだろうか。単純なことが頭に浮かび、不安になる。
もしも、来てくれなかったら、と思う拓也は来ないことも案に含めて考え始め、コンコンと小さく響いたノックの音に肩を揺らして驚いた。
「拓也君、ちゃんと眠れているかい?」
低めの声で柔らかさがあり、優しそうな声が拓也に向けられる。拓也は声と消灯後の時間でノックをした男性が誰か分かった。
「いや、起きてるよ。小岩井さん」
拓也は頭まで被った布団を剥いで、寝ながら言った。
ドア越しでは、ふーっとため息の音がした後に、小岩井誠治看護師が病室に入ってきた。
消灯でも全体で一度電気が切れるだけで、通わないわけではない為、小岩井は薄暗い明かりをつけ目に気を使ったようだ。
「こんばんは、拓也君」
パイプ椅子をずるずると引きずり、拓也のベッドの柵近くに持ってきてから椅子を開き座る。
拓也は小岩井に背を向けて猫背で丸まり、横になっていた。
「また俺の寝かしつけですか」
嫌みを言うように拓也はボソボソと喋る。
小岩井は苦笑して、短い短髪を掻く。まいったな、と付け足してから、
「バレたか」
と苦笑から笑みに変わった。
バレますよ。と拓也はベッドのシーツを握りしめる。
「君の友人が、会いたがってることは知ってる?」
口調はあくまでも柔らかく、白い制服に会わないガッチリした体の成人男性は語りかける。
拓也もそのことは夕乃から聞いていたが、会いに行く気なんてまったくなかった。
「もうそろそろ直る怪我だ。どうだい? 会わないかい?」
「会いません」
拓也は即答した。
そして、体を小岩井の方に向けてから小岩井の姿を捕らえる。
小岩井は、まさかこちらを向くとは思ってもみなかったと言った表情を取るがすぐに笑みを戻す。
「俺、野球出来ないし。他の奴らだってそうなんでしょ? そんなの傷をなめ合うだけだ」
みっともない。と言いたげな顔をつくり、拓也は眉を寄せた。
小岩井はこの言葉には、返す言葉に気を着けなければならない。と感じていた。
こういった怪我の場合はブルーな気持ちになりがちであるからだ。
カウンセラーでも同じような処置だろう。
小岩井は拓也を真っ直ぐに澄んだ目で見つめ、
「君は自分だけが酷い目にあったと思ってないかい?」
この言葉には刺がある。それを承知で小岩井は拓也にそれを伝えたのだ。
バッと体を起こし、拓也は小岩井を睨みつける。
「どう意味ですか、小岩井さん。俺のこれからの野球人生なんて価値ないって言うんですか。俺が普通の怪我だって言うんですか」
「ああ言う。普通の怪我だよ。君の怪我は少し運の悪い只の怪我だ」
拓也は身を乗り出して小岩井に掴み掛かろうとしたが、小岩井が左腕を前に突き出して拓也を止めた。
「君の友人はもっと酷い子もいた。君はそれを知っているのか?」
知っているわけがなかった。それ以上を追求する気がなかったから。
「一人は片目の視力を完全に失い、一人は頭を打ちつけた衝撃で脳の一部から出血があった。一人は潰れたバスの機材に挟まれて手の切断をされたり。……ほら。君はまだ運の良い方じゃないか。まだ聞くかい?」
表情を変えずに小岩井は喋り終わった。
拓也は言葉が口から出ていかなかった。ぱくぱくと口を開け閉めするが声帯が震えない。
「知ら、なかった……」
絞り出すように出した声は震えていて。
拓也は、無知が、どれくらい怖いことか知った。情けないと思って、恥ずかしいと思った。
小岩井は拓也の頭をぐりぐりと撫で、
「拓也君が辛いんだろうことは分かってる。僕がこうやって毎晩君の話を聞いているのは辛いことを理解しているからなんだ」
拓也は頭に手を乗せられた為、ベッドのしわしか見えないが小岩井が笑っていることは良く分かった。小岩井も拓也の話を聞くため入院してから、消灯後に話を聞き続けていた優しい人だ。その優しさが今の拓也には痛かった。その優しさが建て前や仕事だけではないことは伝わるが、信じることは簡単に出来なかった。
「今日はもっと話を聞きたかったのに僕が一方的に話をしてしまったな。そろそろ僕も戻るよ。おやすみ、拓也君」
去るときはあっと言う間で、簡単に頭から手が離された。
頭を撫でられていて良かったと思う。と拓也はしばらく体を起こしたまま考える。
事故の話を聞いて、そして自分よりも酷い怪我をした人を知って。それが、ぐちゃぐちゃと混ざって自然と涙がこぼれていた。
電気が明るかったら気づかれていただろう。
明日、夕乃に謝ることと、友人に会いに行こうかと拓也は考え始めていた。