その9
だが、それは手に入らないまま、数日が過ぎてしまい、葵の容態は日に日に悪化していった。
葵の本体は、全身灰褐色に染まっている。
「……イクロー、さん」
頭の花も枯れ果てた葵は、身体を引きずりながら、育郎の正面で居住まいを正した。
「……今まで、ありがとうございました」
ありがとうございました。
感謝の言葉は、過去形であった。
そして、彼女は掻き消えた。
「……葵ちゃん、死んじゃったのかな?」
本体の治療を優先するより、一緒にいることを望む決断をした育郎は後悔した。それが結局、死という形での別れになってしまったのだから。
「まだ、諦めちゃダメだよ。……今からでも間に合うかもしれない」
「……そうだね」
育郎は、ワサビの鉢を抱え、カズと共に、バスに乗り山に向かった。
流れる川の傍の日陰に、葵の仲間たちがいた。
青々とした葉、鮮やかな花。
それらは健康を体現していた。
「……人間の環境だと、二日世話しなかっただけで、病気になっちゃったのに」
自然の偉大さを、まざまざと見せつけられるような思いであった。
育郎は、葵の根を掘り返し、自然の土壌に移し替えた。
――ねえ、皆。
カズはワサビたちに話しかける。カズの鉢は家に置いて来てあるから、本体との距離は全く関係ないようであった。育郎は改めて、自分の判断を悔いた。
――この子、元気になるかな?
――わからないよ。こんな病気、知らないし。
それらは葵を歓迎していないようであった。病人を押し付けられた形になるのだから無理はない。
――そっか。ごめんね。
――でも、出来る限りのことはするよ。
――ありがとうね。
――この子のためじゃなくて、自分たちのためだよ。同じ病気にかかるのはイヤだからね。
葵ちゃんと違って、ここのワサビは性格がツンデレだな、なんて思って、カズは渇いた笑いをあげた。完全に、思考がオタクな人間になってるなあ、あたし。
「じゃあ、みんな、よろしくね。ほら、イクローも」
「……葵ちゃんをよろしくお願いします」
二人は、ワサビたちに深々と頭を下げるのであった。
マンションから最寄のバス停から降りて、二人が自宅に向かって歩いていると、藍原に出会った。
「山さん……非病原性エルビニア・カルトボーラ、手に入れられなくて、すみませんでした」
開口一番、彼女は謝罪した。
「あのワサビちゃん、どうしたんですか?」
「……今、自然の中で療養している」
既に死んでいるかもしれなかったが、そう口に出すのは憚られた。
「……ええ、自然は偉大です。人間に出来ない奇跡を起こせます。きっと、ワサビちゃんも治りますよ」
彼女はワサビに『ちゃん』と付けていた。
これは、葵がワサビであることを知っている、ということだろうか、と疑問に思った育郎は、それとなく探りを入れてみたが、当てが外れていたようである。
「……そう言えば、先日は話途中で切っちゃってごめんなさい」
「仕方ないよ。気づかれちゃいけない電話だったし……でも、藍原さんの夢、気になってる」
「夢……そんなところで切れましたよね」
彼女は一呼吸置いてから、その夢を、口に出した。
「私、樹木医になりたいんです」
「植物の医者?」
「ええ。ガーデニングクラブで働いているのもそのためです」
「じゃあ、葵ちゃんのために奔走してくれたのも……」
「あのワサビちゃん、葵ちゃんって言うんですか?」
つい名前で呼んでしまった育郎であった。
「植物に名前を付けてあげるなんて、素敵ですね」
だが、藍原は奇異に思う様子はなく、むしろそれを褒めた。
「育てている植物が病気になって、あんなに困っている様子の人を始めて見ました。……だから、業務より生命を優先した、というわけです」
彼女の精神は、既に医者であった。
「……山さんの夢はなんですか?」
「僕の夢、……まだ、決まってないなあ」
「きっと、山さんも、植物医に向いてると思います。私と同じような授業に参加してるようですし、理系なんでしょう?」
「……僕が?」
「植物のこと、好きなんでしょう? あ、同じ志の人が周囲にいないから、無理に勧めているわけじゃありませんよ」
後半部分は、嘘であると、すぐにわかる嘘であった。
「じゃあ、私はこれで失礼します」
交差点で、一礼して去っていく藍原であった。
「やっぱり、僕も植物医になろう」
パソコンをいじりながら、育郎はそう宣言した。
「単純だね、イクロー」
カズが茶々を入れる。
「難しく考えちゃダメだったんだよ。やりたいことをやる。素直に生きないと」
「よし! じゃ、あたしも一緒に勉強してあげるよ」
「植物なのに樹木医になるの?」
「人間の医者は人間なんだから、植物の医者が植物でも問題ない」
カズも負けず劣らず単純である。
「それに、知識だけじゃどうにもならないことがあるってわかったからね」
カズにはもちろん、戸籍がないんだから、実際に樹木医の資格を手に入れることは不可能だろう。
無粋を承知で、そう告げてみたところ、次のような答えが返ってきた。
「じゃあ、偽造するかな」
「……それはさすがにヤバイでしょう」
「そだね。でも、何らかの形でそれに携わることは出来るよ。山先生の助手とか」
「山先生って、僕のこと?」
「うん。医者になるんだから、今から先生って呼んだほうが良いじゃん」
「気が早いんじゃないかな?」
「夢は叶う! 多少早くても問題ない!」
単純にして、力強い言葉であった。
こんな彼女に、樹木医を名乗るまでに業務経験が七年は必要だということを伝えても、似たような返事しかしないだろうな、と、育郎は思うのであった。
カズの存在と、夢を手に入れたことが、育郎をプラス思考にさせた。葵ちゃんは自然に任せて、今は自分が出来ることをしよう。
――どう? 体調は?
――ええ、良くなってきました。皆さん、ありがとうございます。
――病気、うつされたらイヤだからね。それに自分たちが治したんじゃない。自然が治してくれたんだよ。
――でも、皆さん、わたしに気を使ってくれたじゃないですか。『ツンデレ』ですか?
――『ツンデレ』? なにそれ?
――えーと、……詳しく説明するのは難しいですね。
――人間に教えてもらった言葉?
――そうです!
――……やっぱり、人間のところに、戻りたい?
――はい。……でも、わたしが入っていた鉢、イクローさんが持って帰っちゃったから、まだ帰れないです。
――あのウツボカズラみたいに人間になれるんでしょ? 一旦人間になって、回復したことを伝えに行って、それから戻って取りに来れば良いんじゃない? しばらく本体とは別々に動いても、本体ここにあれば安心でしょ?
――帰り方がわからないです。
数ヵ月後。
育郎は予備校で、ある噂を小耳に挟んだ。
山の沢に、妖精がでる、と。
子供っぽい話ではあるが、予備校に通っているのは十代後半の、まだ夢見る時期を過ぎていない年齢の人間がほとんどであることを考えれば、あながち妙なことでもない。
それに、戦争にも例えられる受験期の中、身近なちょっとしたファンタジーに夢を馳せてみたいと思うこともあるのだろう。
その正体に心当たりがある育郎は、カズと共に、山に向かった。
バスを降りて獣道をかきわけ、辿りついた先。
「……葵ちゃん」
葵は、いた。
沢のほとりに座り、植物を眺めている様子は、確かに妖精のようであった。
「……イクローさん。カズさん」
二人を認めると、葵は駆け向かっていった。
「イクローさん! わたし、元気になれました! ご心配掛けて、すいませんでした!」
葵に抱きつかれた育郎は、目に涙を浮かべていた。
それは、ワサビ特有の、ツンツンとした辛みのせいではなかった。