その8
そのまた翌日、目を覚ました育郎は、自分の身体が完治したことに気が付いた。
「ありがとうね、葵ちゃん、カズ」
「ま、育ててくれるお礼だよ」
「そうです。当然のことをしたまでです!」
そう言うと、葵は何度かくしゃみをした。
「あれ、葵ちゃんにうつっちゃったかな?」
そうは言ってみたが、彼女は植物の精神である。人間の風邪がうつるはずはない、と育郎は考えた後、一つ気がかりなことが脳裏を掠めた。風邪をひいていた二日間、自分は二人の本体の世話をしていなかったのだ。
「葵ちゃん、カズ、自分の本体の世話はした?」
「あたしの身体のほうには、餌のほうが勝手に飛び込んできてくれるから大丈夫」
「わ、忘れてましたです……ごめんなさいです……イクローさんのことばっかり考えていてつい……」
育郎は葵の本体の鉢を見に行き、淀んだ水を新しいものに代え、液体肥料を与えた。
「これで大丈夫でしょ」
「はい、ありがとうございます」
そして、育郎は時間を確認する。
「じゃあ、バイトに行ってくる。急にシフト変えてもらって迷惑かけた分、頑張ってくるよ」
「行ってらっしゃいですー」
「お土産よろしくー」
育郎も葵もカズも、葉に浮かんだ、小さな病斑にはまだ、気付いていなかった。
「……はぁ、はぁ」
バイトから帰ってきてそのまま眠ってしまった育郎は、苦しそうな葵の声で目を覚ました。
「どうしたの? 葵ちゃん?」
「……少し、息が苦しくて」
育郎が葵の本体を細かく調べてみると、昨日は見落としていた淡褐色の水浸状の病斑の存在に気付いた。
カズは既に、パソコンを立ち上げ、園芸関連のサイトを巡っていた。育郎はモニターを覗き込む。
「……夏に多い植物の病気の症例と、葵の本体の状況を照らし合わせてみたら、すぐにわかったよ」
だが、カズの口調は重々しかった。
「……軟腐病。高温の汚れた水に繁殖した菌に侵食されることによって発症するものであり、急速に各器官へ伝播する。……膏肓に入った状態でなければ、非病原性エルビニア・カルトボーラというものによって治る可能性があるらしいけど、病気の進行具合の判断も、それの手に入れ方もわからなかったよ」
淡々と説明するカズ。
「……やっぱり、ネットって便利だけど、一つ一つの事例を細かくは説明してくれないんだよね……ネットだけでどんな病気でも治るんだったら、医者は要らないよね」
そのとき時刻はまだ五時。
生物を管理する商売だから、誰か既に来ているかもしれないと考えた育郎は、鉢を抱えて、ガーデンクラブへ向かった。
「あ、山さん。どうしたんですか?」
既に店には藍原がいた。
「……この子なんだけど」
育郎は抱えていた鉢を彼女の前に突き出した。
「……軟腐病、ですね」
「まだ、大丈夫かな?」
「治らないことはない、と思いますが、収穫は難しいかと」
「……収穫じゃなくて、ただ、この子を治してあげたいんだ……非病原性エルビニア・カルトボーラっていうものを使えば治る、って、ネットで調べたんだけど……」
「……それはうちでも農家からの注文があった場合にしか店においてないんです」
「……もし、今僕が注文したら、届くまでどれくらいかかる?」
「一週間ほど。恐らく、その子はそれまでに……」
末期ガンを患者に宣告する医者のような表情で、藍原は言った。
「……わかった。それじゃあね」
それだけ言って、育郎は次の店に向かった。
しかし、非病原性エルビニア・カルトボーラを常備している店は存在しなかった。
失意のまま、自宅に戻ると、一本の電話があった。
「……もしもし。山です」
――藍原です。
「……あれ、何で電話番号、知ってるの?」
――店頭でアンケートに協力してもらったことがありましたよね? それに、電話番号も書いてありましたから。業務以外でお掛けしてごめんなさい。
確かに、集めた個人情報を商売上の目的以外に利用することは問題であったのだが、藁にもすがりたい思いの育郎にとっては、彼女からの電話で、事態が好転することを期待していた。
――あのあと、農家の方に連絡して、非病原性エルビニア・カルトボーラを譲っていただけないかと打診してみたんですけど、ちょうど散布時期なので、どこも余っていないみたいなんです。引き続き、当たってみようとは思いますが。
「……ありがとう。でも、どうして?」
予備校と店で少し話したことがあるだけの客の一人である自分のために、大変な作業と、法に抵触する可能性のある行為までしてくれるのだろう?
――私には、夢があるんです。
「夢?」
――それは……
電話は途絶えてしまった。他人に気付かれてはまずい通話であったのだから、仕方のないことである。
「……ねえ、イクロー、何とかっていう薬以外に、治す方法、見つかったよ」
パソコンの前のカズが、育郎に話しかけた。
「ワサビにとって、最良の環境にすること。そうすれば、一ヶ月から半年くらいで治るって」
「つまり、それって……」
「……沢ワサビが自生するような環境で、葵ちゃんの本体を山で療養させるってこと」
今、育郎が住んでいるのは都会であるが、そのような環境はないこともない。
だが、かなり距離がある。自分から離れた葵はどうなるのだろう。もしかすると、植物の精神を人間にする力が失効してしまうかもしれない。
「……ガーデンクラブの店員、藍原さんが、非病原性エルビニア・カルトボーラを探してくれてる。それを待とう」