その4
家に帰るなり、カズはお菓子の袋を開けてそれを食べだした。
「あたし食虫植物だけど、虫以外も食べてみたいと思ってたんだ。葵ちゃんも食べる?」
「わ、わたしはいいです」
「美味しいのになあ。食虫植物じゃないのはハングリー精神が足りないよ。大地から栄養分を汲み取って、光合成で変換するだけなんてさ」
お菓子を頬張る様子は、葵の頭部に咲く花ような本体の植物が持つ特徴をその身に備えてもいないこともあって、人間と遜色ないものであった。
「カズって、ぱっと見ウツボカズラっぽくないよね」
「ウツボカズラっぽいところもあるよ。服の下に」
カズが下ネタで返すと、葵があわあわ言いながらツンツンを発しだした。
「えっちい発言は禁止! 葵ちゃん、感情が昂ると辛み成分を放出しちゃうから!」
「……ごめんなさいです。つい」
「ウブなのね葵ちゃん。そうだ、あたしと一緒にえっちいお勉強して、慣れれば大丈夫なんじゃないかな?」
その発言によって、空気に含まれるツンツンはさらに濃厚になってしまった。
「食虫植物のテクはダテじゃないのよん」
「テク……はぅぅぅぅ……」
言葉だけで失神してしまう葵であった。瞬間的に目を開けてられないぐらいツンとした刺激が、育郎を襲ったが、時間と共にそれは薄れていった。
「えっちい発言は禁止! 大切なことだから二回言うよ!」
「良い案だと思うんだけどなあ」
「全然良くない!」
「イクローはえっちいのは好きじゃないのかな?」
「そりゃ……まあ……嫌いじゃないけど」
「じゃ、あたしが相手してあげようか?」
カズはきゅっと育郎の手を握った。その仕草でどきっとしてしまう育郎であった。
「け、結構です!」
だが相手は食虫植物。ここで誘いにのったら蜜の匂いに釣られる虫のようになってしまうかもしれないと考えた育郎は声を裏返して断る。
「つまんないなー。人間も食べてみたかったのになー」
そう言って、カズは再びお菓子を食べ始めるのであった。
体質ツンツン性格デレデレワサビ娘と、エロエロ食虫植物娘との共同生活。
「……こんな環境で、勉強に打ち込めるのかな」
「人のせいにだけはしないでね。まだ五月だけど早めに言っておくわよ。あたしたち人じゃないけど」
頷いた後、時計を見遣る育郎。そろそろスーパーのタイムサービス特価の時間であった。
「じゃあ、ちょっと晩御飯買い行ってくるよ」
「あたしもいきたーい。食べるもの見たーい」
「……人間の食べ物、食べるの?」
「もちろん。せっかく人間になれたんだから、いろんなもの食べたいからね」
人間を食べたいとか言ってるこの娘、外に出して大丈夫だろうか? カズを買う羽目になったのも、葵を連れて行ったのが原因だし。ここは断るべきだろう。
「いや。カズは葵と一緒に留守番してて」
断られたカズは、育郎の瞳をじっとみた。
「あたしも行きたい」
そして、もう一度言った。
「……いいよ」
食虫植物には、虫を酩酊させる成分を持った種類が存在する。
カズはそれを応用して、育郎に催眠術をかけたのである。
「じゃあ、早く行こう」
……あれ、何で今いいって言っちゃったんだろう? まあ、僕がちゃんと監督してれば大丈夫かな。
「これおいしー」
試食のハムステーキを、育郎は一切れで止めておいたのだが、カズのほうは既に五皿目であった。そろそろ店員の笑顔が引きつってきたが、カズはそんなこと気にしていないようである。
育郎はさらにおかわりをしそうになったカズの手を掴んで、商品を買い物籠に入れ、彼女を引きずってそそくさとその場を立ち去っていった。
「もっと食べたかったのに……」
名残惜しそうに試食コーナーを振り向くカズ。
「買ってあげたから!」
それでも満足しないカズは、こっそり目に付いた食べ物を買い物籠に入れた。レジに辿りつくまでに、それは何度か行われた。
もちろん、会計は育郎が計算していた金額よりも、およそ千円ばかり高かった。
財布の中に十分なお金があったので、育郎はそれらを全て購入した。
「……カズ、買うもの増やしてたでしょ?」
買ったものを袋に移しながら、育郎は問うた。
一人暮らしを始めて一ヶ月ばかりの育郎には、暗算能力が身に付いていたため、カズの悪戯を確信していた。
「うん!」
悪びれずに答えるカズ。見た目は大人っぽいのに、やることは子供っぽい。
「まあ、良いけどさ。僕も食べるし」
そう言ってみた育郎だったが、自分は食べないであろうものを幾つも見つけてしまった。
「……カズ、これって」
「イナゴだよ。人間に料理された虫がどんな味か、気になったから買っちゃった」
「……これは?」
「ハチ。好物なんだ。今も本体のほうで絶賛消化中」
「……誰が絶賛したの」
「生命の神秘だって、イクローが」
そう言えば、捕食シーンをそんな風に表現したなあ。
他にもザザムシとか、孫太郎虫とか、虫ばっかりであった。
日本でも文化として食用が成り立っているものだが、自分は口にする気はおきない。
それにしても、このスーパー、品揃えが良いことがウリらしいけど、こんなものまで置いてあるとは、侮れない。育郎は感心する。
(でも、これをみて食欲なくす人もいるんじゃないかな?)
それらは、食べ物というより、釣り餌に近い形状であった。食卓に並べられるより、針の先に付いているイメージが強い。
そして、最後に残っていた食品は、割と一般的なものであった。
だが、育郎はそれをレジまで持っていって、返品をお願いした。
それは、ワサビ漬けであった。
ペットとして飼っている動物と同じ種類の肉は食べられないという思考と同様に、観葉として育てている植物と同じものは食べられない、という考えを育郎は持っていたため、葵を育て始めてから彼は食べ物としてはあまり好きでもなかったワサビを口にしていなかった。
「食べてみたかったのにー、イクローひどーい」
非難の言葉をぶつけるカズ。
「さすがにワサビを食べるなんて葵ちゃんにばれたらまずいでしょ」
「じゃあ葵ちゃんを性的に食べちゃおうかなー」
袋に買ったものを全て入れた育郎はそれをスルーして店を出て、家に着くと食事の準備を始めた。
虫たちは、カズの手によって食卓に並べられた。
「……美味しいの? それ?」
対面に掛け、ばくばくとそれらを食べるカズに、げんなりとして問う育郎。
「美味しいよ。どう?」
「……遠慮します」
「美味しいのになあ」
残念そうな顔を浮かべ、カズはそれを掻っ込むように食べ続けた。
食欲のなくなった育郎は、ご飯を残したまま、予備校に向かった。
積分法。
……わからない。
微分法。
……今の僕には理解できない。
極限。
……こっちの眠気が極限です。
眠りの魔法のような用語の嵐の中で、育郎は睡魔に身を委ねた。
「今日はここまで」
チャイムと同時の教師の宣言で目を覚ました育郎は、家に帰ってすぐに、今度はちゃんと蒲団で寝た。
(朝が早かったから仕方がない)
それは、誰に聞かせるでもない言い訳であった。