その3
「イクローさん、朝ですよー」
葵の声で目を覚ました育郎が時計を確認した。針は午前五時ごろを指していた。
いつもはこんなに早く起きることはないのだが、植物の朝は早いようである。これからは葵に合わせて朝方の生活を送るかと、身体を起して伸びをする育郎。
「おはよう葵ちゃん」
「はい! おはようございます!」
育郎は朝起きるとまずワサビの世話をする。今日も葵と一緒に水の取替えを行った。
「今日もありがとうございます」
ぺこっとお辞儀をする葵。彼女は植物でありながら礼儀を弁えていた。
その後、育郎も朝食をとったのだが、早起きの習慣のなかった彼は手持ち無沙汰になってしまう。予備校の授業は夜に一コマだけ。
今までは、暇になったらネットサーフィンをしていたが、人間の姿の葵に見られていると、あまり変な本を読んだりえっちいサイトにいったりするのも決まりが悪い。
尤も、彼女は精神の一部を人間の形にできるようになる以前から育郎の生活を知覚していたようなので、今更自制しても遅いのだが、それは気持ちの問題である。
「……受験生らしく、勉強するか」
「はい! 頑張ってください!」
育郎にエールを送る葵であった。その言葉で、少しツンとした刺激を感じる育郎。
「今日は大人しくしててね、葵ちゃん」
「わかりました! ベランダで本体と一緒に薄日の場所で光合成してきます!」
彼女はベランダに出て、本体に寄り添うように座り、眼を瞑った。
昨晩葵のせいで集中できなかった教科をおさらいして、それでもまだ普段目を覚ます時間よりも早い時刻であったので、他の教科にも目を通す。一通りやったあたりで、正午のチャイムが耳に届いた。
(朝早く起きると、時間が多いなあ)
起こしてくれた葵はベランダで光合成の真っ最中。そんな彼女に、心の中で感謝を述べ、昼食の準備に取り掛かった。
インスタントもので昼食を済ませ、食後にコーヒーを飲んでいると、とんとんと、窓を叩く音が聞こえた。
葵が嬉しそうな顔をして、手招きしている。何の用かなと思って、彼女の誘いに応じベランダに出てみた。
「どうしたの? 葵ちゃん?」
葵が指を指した方向を見ると、猫がいた。どうやら忍び込んできたらしい。首輪もつけていないから、野良猫のようだ。侵入者であるというのに、家の主人が出てきても動じず、しゃあしゃあと片隅に鎮座している。
「イクローさん、猫ちゃんも好きでしたよね?」
彼女の言うとおり、育郎は猫好きでもあった。こちらは純粋に、動物として、である。実家でも、一匹飼っている。
育郎は引越しの際、何故か実家から持ってきてしまっていた猫じゃらしの玩具を取り出してきて、その猫に近づいていった。
しかし、猫のほうは育郎と遊ぶ気はさらさらないらしく、彼の足元を抜けて葵の本体の鉢へ駆け寄っていって、くんくんと鼻を鳴らした。
「わ、わたしの葉っぱ食べちゃダメです!」
猫は葵の言葉を理解した訳ではないだろうが、葉を嗅ぐのを辞めると、柵に飛び移ったかと思うと、そのままの勢いで外に飛び降りて、逃げて行ってしまった。
「……猫ちゃんって可愛いけど、ちょっと怖かったです」
その様を唖然として見守っていた葵は、そんな感想を漏らした。
「わたし猫ちゃんって鍋の中で眠っているのしか見たことなかったんで、動きも速くてびっくりしたです」
育郎がインターネットで見る猫は、ほとんど動かないものばかりであった。
植物娘が自然であると思い込んでいたことといい、どうやら葵の常識は、育郎が見るネットや本からの情報で構築されているものであるようだ。と思いながら、育郎は部屋に戻り、コーヒーの残りを飲もうとした。
「はわわわわわわわわ! 怖いです! 怖いです!」
ベランダから葵の悲鳴が聞こえた。
「今度はどうしたの?」
葵に指を指された本体の周りには、ひらひらと白い蝶が舞っていた。
ワサビにとって、葉を食べるアオムシは天敵である。その親である蝶に恐怖を覚えるのは、本能によるものだろう。
育郎は手でしっしっと、白い蝶を追い払った。
「……今度は凄く怖かったです」
葵がそう呟くと同時に、ぐう、と腹の虫が鳴いたような音がした。
「あうあうあう、恥ずかしいです……」
それは彼女から響いたものであった。
「そうだ。葵にもご飯あげないとね」
ご飯、というのは、液体肥料のことである。大地から栄養素を汲み取ることができない鉢植え栽培では、人為的に与えなければならない。
小瓶から数滴、それを垂らそうとしたが、出がわるい。内蓋を外して、やっと適量といったところであった。
これから予定もないし、今日のうちに買っておくかと、育郎は外出の準備を始めた。
「イクローさん、お出かけするんですか?」
「うん。ガーデニングクラブで葵ちゃんのご飯、買ってくる」
ガーデニングクラブは、育郎がワサビの鉢を買った店である。
「わたしもご一緒して良いですか? お世話になった方に、元気にしてますって報告に行きたいんです!」
「……でも、その姿じゃわからないんじゃないかな?」
「……ダメですか?」
瞳はウルウル。
辛みはツンツン。
「わかったよ。でも、自分の正体について、人に話しちゃダメだよ」
「はい! ありがとうございますです!」
結局、二人で買い物に行くことになった。
ガーデニングクラブに到着した葵は、真っ先に一つの鉢を目指して駆けて行った。
ツルから壺のような、葉を生やしているそれは、口を開き、獲物を待っていた。食虫植物のネペンテスラフレシア、和名ウツボカズラである。
――カズさん。お久しぶりです。
葵は植物にしか聞こえない声で、それに話しかける。
葵とカズさんは、適した栽培環境の違いから離れた場所に置かれていた。
しかし、カズさんら食虫植物がいるお陰で、葵は虫から被害を受けることはあまりなかった。
――ああ、ワサビちゃんか。どうしたのその姿?
――育ててくれる人に感謝の気持ちを表したいと思ってたら、こうなりました。
――良い人なの? その人?
――はい! 毎日水を替えてくれたり、ご飯をくれたり、葵って名前も付けてくれたりで、凄く良い人です!
話題に上がっていた育郎も葵に追いついて、カズさんを眺めだした。
「食虫植物も良いよね」
「はい! 怖い虫さんを逆に食べちゃうんですから凄いです!」
「捕食する瞬間、見てみたいなあ」
――見たいなら見せてあげるよ。
「カズさん、見せてくれるって言ってます!」
――じゃあ始めるよー。
――はい! よろしくお願いしますです!
カズさんは、己が壺の内側にある蜜腺から獲物を誘い込む香気を発散しだした。
一匹のミツバチが甘い匂いに誘われて、彼女の周囲を飛行しだす。そして、香りの発生源が壺の中であることに気付いた様子で、その縁に降り立つ。
だが、ミツバチは足を滑らせたように体勢を崩し壺の内部へ落下した。
ミツバチは羽を広げようとしたが、粘りのある液体に絡まれて、飛び立つことは出来ず、足を使って出ようにも、底に向かっている返し棘に絡め取られて、逃げ出ることは出来なかった。
――はい、お終い。
カズさんはそういって、蓋のようになっている葉を閉じ、ミツバチを完全に閉じ込めてしまった。
――哀れなミツバチは、これからゆっくりとあたしに消化されるのでした。
――やっぱりカズさんは凄いですね! でも、できるなら怖いちょうちょを食べて欲しかったです。
――あたし、蝶は好きじゃないんだ。それに、人間が栄養管理してくれるから、最近虫とか食べなくてもいいし。捕食シーンを見せてあげたのはサービス。どうだった? ワサビちゃん、いや、葵ちゃんのご主人さん。イクローだっけ?
「感想を求められてますよ。イクローさん」
「……生命の神秘を感じた」
――……変わった人みたいね。
――でも、良い人ですよ。わたしみたいに植物の精神が人間になるのは奇妙らしいですけど、すぐに受け入れてくれましたし。
――ふーん。人間の姿って、楽しい?
――はい! お話しもできますし、お勉強もできます!
「なら、あたしもなってみたいなあ。人間」
そう呟いたときには、彼女の精神は既に人間の形になっていた。豊満な肉体、妖艶な風貌、鮮やかな衣装。魔性の花といった形容が似つかわしい、葵とは対照的な大人びた女性の姿。
「……って、もうなっちゃってます!」
「あれ、ほんとだ」
彼女は自分の手足を確認する。
「……もしかして、僕って人間になりたいって思った植物の精神を人間にしちゃう超能力者かなんかなのか?」
「そうみたいですね」
「へー。あたしに興味持ってくれたんだー。じゃあついていっていいね。本体と一緒に」
「……でも、時間もお金もあまりないし、ワサビとは育て方も違うし」
「責任は取りなさい。戻り方わかんないんだから」
きっと育郎を見据えるカズさん。
「……はい」
このまま放っておくとこの店に迷惑がかかるだろうな、と思った育郎はその言葉に抗わなかった。
「じゃ、これからよろしく。あたしのことはカズでいいよ」
ネペンテスラフレシアの鉢と、液体肥料をレジまで持っていく育郎であった。
ウツボカズラは、もともと熱帯の植物であるため、高温多湿を好む。
だがワサビは、冷涼と流水を好む。
性質の違う植物を同時に育てるには、手間とお金の少なくとも一方はかかりそうだ。
「バイトするか、自分の食費削るか、どっちにしようか」
「頑張ってねイクロー。育ててくれるお礼ってわけじゃないけど害虫食べてあげるから。あまり好きじゃないのでもね」
「それは助かる」
そろそろ蚊が出る季節であった。蚊取り線香とか焚かなくていいのはありがたい。
「育ててくれるんだから、そんくらいはしてあげないとね。ギブアンドテイク。人間と植物の共生実現」
ぺらぺらと喋るカズであった。
「あれ、言葉はどうやって覚えたの?」
「店員さんが話しているのを聞いてたら覚えた」
思っているより、植物の知能指数って高いのかもしれない、と育郎は思うのだった。