その2
その後、育郎がソファーの上で覚醒したのも、ツンとした刺激によってであった。
幼女が、自分の寝顔を覗き込みながら、ポタポタと涙を零している。その一滴が育郎の唇に落ちた。それはやっぱりワサビ味であった。
「ご主人様が起きた!」
そう叫びながらダイブしてきた彼女を、育郎は咄嗟に身を逆転させるようにしてかわした。
「あうあう……そうでした……わたしは辛いんでした……お目覚め早々、申し訳ないです」
「いや。いつも目が覚めてもなかなか動き出せなくて困ってるから、返ってありがたいよ」
ソファーに墜落した彼女の頭を撫でながら慰める育郎。
「それに、ご主人様、なんて呼ばれて起きるのも良い気分だし」
「……わたしがご主人様の名前を知らないだけですから」
「あ、そうなんだ。僕の名前は山 育郎。『育』てるに太郎の『郎』。一人暮らしだと、家で自分の名前を呼ぶようなこともないから、君が知らなかったのも仕方ないよ」
「イクロウさん、ですね。あ、わたしの名前ってないんですか?」
育郎は特に育てているワサビの名前を決めていなかった。話しかけるときは『ワサビちゃん』と呼んでいた。だが、人間の形の彼女をワサビちゃん、というのもなんか変な感じだ。
「……葵、葵ちゃん」
そのため、今即興で決めてしまったのだが、育郎の苗字と合わせると山葵となり、結局ワサビとなってしまう。安直なネーミングだった。
「アオイ、ですか! 名前があったなんて嬉しいです!」
たった今名付けられた葵という名が気に入ったのか、葵はきゃっきゃと喜びだした。
「で、今何時?」
「夜の八時くらいです」
育郎が家に帰ってきたのが夕方ぐらいだから、二、三時間ぐらい寝てた……いや、気絶していたことになるようであった。
時間がわかると、育郎は急に空腹を覚えた。
「じゃ、晩御飯にするかな」
予備校から返ってきて葵本体のワサビの水を替えただけでそのまま気絶してしまったので、食事の準備などは全くしていない。
「葵ちゃんは、食事とかはどうするの?」
「わたしは本体の方で十分栄養をもらってるです。だから食事は要らないし、人間の食べ物を食べたら、本体にどんな影響が出るかわからないので、怖くて食べる気もおきないです」
生活費の方は、今までと変わらないで良さそうだ。小さい女の子とはいえ、一人分の食費が増えるようなことはなくて、安心する育郎であった。
尤も、本体とは別に食事が必要だという答えが返ってきていたとしたら、バイトを始めるなり、自分に掛ける金額を少なくしたりしてでも、彼女を満足させるような食事を用意していたであろうが。
カップ麺だけの夕飯を終えた育郎は、高校時代の教科書をひもといた。
まだ五月に入ったばかりであるが、受験は既に始まっている。浪人生の彼は、高校で習ったことを忘れないように、予備校以外でも毎日勉強する習慣がついていた。
しかし、彼は特に志望する大学も学問領域も決まっているわけではなかった。大学を目指しているのも、浪人ってことにしておかないと親に見限られるだろうな、と思ってのことだった。
「イクローさーん、お勉強ですかあ?」
机に向かう育郎に、ちょっかいをだす葵。
「うん。だから、邪魔しないでね」
「はーい」
育郎に言われて、邪魔をしないように離れる葵であったが、その視線は勉強している育郎の後姿に注がれていた。勉強するイクローさんカッコイイです、と言わんばかりの視線であった。
そんな視線を注がれていることは、育郎自身も気付いていた。背中に痛みと痒みと辛みの混ざったような刺激を感じていたのだ。試したことはないが、皮膚にワサビを塗ったらこんな感じなんだろうな、と彼は思う。
身体がそんな状態では勉強に集中できようもなく、かといって静かにしている彼女に自分を見ないように注意するのも気が引ける。
育郎は教科書を閉じ、どうしようかと思案して、一計を閃かせた。
「葵ちゃんもお勉強する?」
「え、良いんですか!」
「うん、本棚の一番下の段に入ってるから、好きなの取って読んで良いよ」
「でも、それじゃあイクローさんがお勉強できないです……」
「今日使う分は机に持ってきてあるから大丈夫」
「それなら、お言葉に甘えてお借りしますね!」
これで葵から熱い視線を浴びせられることはないだろう、と育郎はまごの手で背中を掻いてから、再び教科書を開いた。
だが、しばらく勉強を続けていると、今度は背中だけではなく、身体全体にヒリヒリとする痛みを感じた。呼吸をしても、目や鼻にツンとくる刺激を感じる。
葵の方を向くと、顔を真っ赤にしながら、何かの教科書を食い入るように読みふけっている様子であった。
「葵ちゃん! 何読んでるの!」
「……はっ! ご、ごめんなさいです!」
大気中に辛みを放出していたことに気付いた葵は読んでいた本を閉じて、表紙が育郎に見えるように掲げた。それは『高校生物』と銘打たれていた。
「おしべとか、花粉とか、そんな言葉ばっかりで変な気分になっちゃいました……」
どうやら、感情が昂ると、ツンツン辛み成分を出してしまう体質のようであった。育郎は葵から生物の教科書を取り上げる。
「これは預かっておくから、他の読んでてね」
「……はいです」
しょぼーんと項垂れる葵だったが、本棚の前に来ると、興味津々といった様子で本を物色し始め、そのうちの一冊を手に取りページを繰り始め、気になった部分を音読し始めた。
「『思春期の心と身体』」
「なんでそういうのばっかり!」
「だって、イクローさん、えっちい植物の女の子が好きみたいですから……」
「葵ちゃんはえっちくなくて良いの!」
育郎は植物娘萌えであるが、リアル植物娘葵に欲情することはなかった。一人暮らしを始めてからおよそ一ヶ月間、手塩に掛けて育ててきたため、彼女を自分の娘のように感じていたのである。
保健体育の教科書は、すぐに育郎に没収されてしまったのは言うまでもない。
ついでに、その後も教科書を音読したり、熱い視線を向けてきたと思いきや、いつの間にか寝息を立てていた葵のせいで、その日の勉強は全くはかどらなかったことも付け加えておこう。
だが、育ててくれる人に対する興味がそうさせるんだな、と、育郎はそんな子供のような葵を、教科書を読む振りして愛でていた。