その1
わさびときゃっきゃうふふする物語
短編でも投稿したけど、三万文字程度を一つのブラウザで読むのはかったるいんで、連載として分割して再投稿。
高校を卒業して特に進路も決まらないまま、浪人という名目で親から支援を受けつつ、環境の良いマンションの一階で一人暮らしをしている育郎の趣味は、読書やネットサーフィンといった、直接的に人と関わらないものが多かった。恋愛も二次元相手にしかしたことがない。
植物栽培も彼の趣味の一つであったが、育郎はたった一鉢の植物しか育てていなかった。
仕送りだけで生計を立てる浪人生の彼にはあまりお金もないし、予備校にも通っているから時間もない。
彼が育てているのは、植物栽培と聞いて連想される種とは程遠いものであった。
ワサビである。
ツンとした辛みのある薬味のイメージが強いワサビであるが、光沢のある丸っこい葉を持ち、白く小さな花を咲かすそれは、観葉として育てても楽しめる植物なのである。
その日も、育郎は予備校から帰ってすぐに水を替えてやろうとベランダにおいてある鉢を見に行った。ワサビは流水を好むため、鉢で育てる際はこまめな水の取替えが必要なのだ。
また、冷涼な環境を好むため、直射日光の当たらない場所で育てなければならない。このマンションのベランダは、ワサビ栽培に適していた。
「……すぅすぅ」
そのワサビの鉢に寄り添うように幼女が、可愛らしい寝息を立てて眠っていた。
緑色の、幼稚園児が着るスモックのような衣服を身につけ、頭に白い、アブラナ科の花を模した様な髪飾りをつけた彼女の寝顔に、しばしの間見惚れてしまう育郎だった。
(……可愛い寝顔だけど、放っておくのもまずいよな。親御さんも心配してるだろうし)
それに、誘拐の濡れ衣を着せられるかもしれないと考えた育郎は、起こすことに後ろめたさを感じながらも、彼女の肩を軽く叩いて、起きて、と優しく声をかけた。
「……ふみゅう」
寝ぼけ眼を擦りながら伸びをして、動物の鳴き声のような音を発しながら幼女は覚醒しつつあった。
「おはよう。もう夕方だけどね」
腰を下ろして目の高さを彼女に合わせ、気の優しいお兄さん然とした口調で育郎が言うと、彼女は目を大きく見開いて日の位置を確認した後、思いっきり慌てだした。
「あうあうあうあうあう、ご、ごめんなさいです!」
「あ、いや、僕も怒ってるわけじゃないよ」
その慌てように、育郎も釣られて動揺してしまう。だが、自分が慌てているようでは、この子を落ち着かせることはできない。何とか宥めて、おうちに帰らせないと、面倒なことになりそうだ。
「で、君のおうちはどこ? 暗くなりそうだから、お兄ちゃんが送っていくよ」
一階のベランダの柵は、手すりと合わせると育郎の胸ぐらいまであったが、ちっちゃい子でも、足場を駆使すれば何とか外から侵入できる高さであった。この子も何か道具を使って入ってきたのだろうと、育郎は考えていた。
「おうちはここです」
涙目になりながら彼女は答えた。もちろん、育郎は彼女と暮らしている訳ではない。とすると、自分の部屋のベランダと間違えて外から侵入を試みたは良いものの、鍵が閉まってて中に入れず、ベランダから入れたけど出ることはできず、途方に暮れて寝ちゃって、それで記憶がごっちゃになってて、自分の家から閉め出された、と勘違いしてる、ということだろうか?
ならば、隣のお子さんである可能性が高いな。と彼は思った。が、彼女の口から出た言葉は、育郎の予想からは大きく外れたものだった。
「わたし、ワサビです。ご主人様のお世話にばっかなってるのも悪いと思ってたら、精神を部分的に人間の形にさせることができたんですけど、日陰が涼しくて気持ちいいから本体と一緒にそのままお昼寝しちゃったんです……」
捲くし立てるように言ってから、ワサビは立ち上がって大きく頭を下げた。
「せめて、ご主人様が帰ってくるまでに水くらいは自分で替えておこうと思ってたんですけど、それもできてませんです! ごめんなさいです!」
彼女は、聞いている側が心苦しくなるぐらい、何度も何度も謝罪の言葉を発し続けた。ぽろぽろと涙の雫を瞳から落としている。
「じゃあ、一緒に水を替えようよ」
正体を確かめるより、この子を泣き止ませることが優先だと考えた育郎は、穏やかな口調でそう提案し、じょうろを差し出した。
「これで、水を汲んできて」
涙を拭きながら、彼女はコクリと頷いてそれを受け取り、傍らにある蛇口を捻った。そのうちに、育郎はプランターの底の栓を抜き、古い水を捨てる。
「汲んできました!」
じょうろには、零れそうなほどになみなみと、表面張力が働くぐらいに水が注がれていた。
そんなには必要なかったが、ここで指摘するとまた彼女が落ち込んじゃいそうだと考えた育郎は、慎重にじょうろを傾け、少しずつ水を鉢に注いでいく。
「こんなものかな。ありがとうね。手伝ってくれて」
「いえ! こちらこそ、毎日水を替えてくれて、ありがとうです!」
泣き止んだ彼女は大きな笑顔を作り、大きくお辞儀した。おかっぱ頭のてっぺんには、四枚の花弁を十字状にした、アブラナ科特有の白い花が咲いていて、それは小さく揺れた。
その花が気になった育郎は、軽く引っ張ってみた。それは彼女の頭に深く根を張っているようで、強い手ごたえがあった。
「痛いです! ご主人様酷いです!」
頭を抑えた彼女は、抗議の目線を育郎に向けた。笑顔が再び、泣き顔に変わりつつあった。
「ごめん。……その花って、君の頭に咲いてるの?」
「そうです!」
「やっぱり、本当に君はこのわさびなの?」
「ご主人様に嘘なんて吐きません!」
「……奇妙なこともあるもんだ」
育郎がそう呟くと、今度は彼女は不思議そうな表情になった。
「え? わたしみたいなのって、奇妙な存在なんですか?」
「そうだよ」
答えると、彼女は申し訳なさそうな顔になる。表情がころころ変わって、見ていて飽きないなあ、と育郎は思う。
「驚かせてごめんなさいです! ご主人様が見ている漫画とかサイトとかで、わたしみたいな子が沢山いるから、植物の精神が人の形を成すのは自然なことだと思ってました!」
「……え、なんでそんなこと知ってるの?」
実は、育郎は植物娘萌えであった。
「一緒に見てたからです」
ワサビの鉢を室内に入れるときは、育郎はネットサーフィンや読書をその近くで行う習慣があった。
「でも、ご主人様が奇妙だって言うなら、戻りますです」
そう宣言して本体に触れる彼女であったが、しばらく経っても掻き消えることはなかった。再び彼女の目はうるうるとしだす。
「……戻り方がわからないです」
「……じゃあどうやって人間の姿になれたの?」
「それもわからないです。ご主人様の役に立ちたいって思ってたら、こうなりました」
「まあ、それならそのままでもいいよ」
「でも、わたしは奇妙な存在なんでしょう?」
「形はどうあろうと、君は君だから。それに、その姿も可愛いし」
そう言われたワサビは、うるうるした瞳はそのままに、その顔に喜びという花を咲かせた。
「ありがとうございます! これからもよろしくお願いしますね! ご主人様!」
ワサビは小さい身体を、育郎に抱きつかせた。
萌え属性の植物娘に抱きつかれた育郎も、目に涙を浮かべた。
「ぐわぁ! 目があっ! 鼻がああアアアっ!」
しかし、それは喜びのためではなく、練りワサビを口いっぱいに頬張ったような、激しい痛みを感じていたためであった。
(この刺激……やっぱりこの子はワサビなのか……)
性格は凄くデレデレなのに、ツンツンとした刺激を催させるなんて、新しいタイプのツンデレだな……と、薄れゆく意識の中で育郎は思った。
わさびたべたい