プロローグ
毒親。そう言ってしまうと、本当に毒親に悩まされている世の中の息子・娘たちに、「その程度では毒親とは呼べない」と指摘をされるかもしれない。しかし、当時の父親の暴力も母親の怒鳴り声や舌打ちも、当時の私からすれば、十分衝動に駆られる理由となった。
私の父は、大学を出ていなかった。よく話として聞いていたのは、小学校か中学校の頃の卒業文集に書いた「将来の夢」が、その時点で既にプログラマーだったというものだった。つまり、1970年代の生まれの少年が、当時では物珍しい「プログラミング」という分野へ一足先に根を張っていたということになる。いわゆる先見の明だ。
その後、偏差値60ある公立高校に入学した。プログラミングの諸々を習得したのだろう。進路選択の段階で、先生に「君は頭が良いし、評定もよく取れているから、大学に行った方が良い」と言われたそうだ。
しかし、父にはプログラマーという揺るがぬ夢があり、中学生の頃から、目標地点までに最低限必要なことしかしてこなかった。そんな父は、プログラミングの専門学校への進学を志した。「プログラマーになりたいんだから、わざわざ大学に行って、必要のないことを学ぶ必要はない」という考えのもと、専門学校への進学を果たした。
専門学校では、父は凄かったらしい。講師の先生に「君はどこへ行ってもやっていけるよ」と言われたそうだ。父としては、「ああ、やっと自分のやりたいことができる」と開放感を感じたらしい。
父は、専門学校を首席で卒業した。卒業式が日本武道館で行われたそうで、卒業生代表の言葉を担当したらしい。目の前には大量の生徒がいるので、凄く緊張したとも言っていた。
そうして、父の先見の明は、次々と実を結んだ。専門学校卒では珍しい、大企業子会社への就職を果たし、遅咲きながらも出世をしていった。車と一軒家を購入し、三人の子供をもうけた。勝ち組側の人生だろう。
しかし、あの一軒家の扉や窓を全開にし、家庭内環境を公に晒したとき、お世辞にも勝ち組側とは言えない状況が繰り広げられていた。
私は長男だった。嫌な話として記憶に残っているのは、お腹の中にいる赤子が男の子であると分かったとき、祖母が「跡継ぎができたね」と言い放ったことだ。私が生まれたとき、「元気な男の子ですよ!」ではなくて、「跡継ぎの男の子ですよ!」と医者が言うのだろうか。
物心がついたとき、良い立地に建てられた積水ハウスの注文住宅は、広々としており、高級感と清潔感があった。そして何より、床が見えていて、綺麗だった。当時の私たちは、この家がどうなっていくのかを知らなかった。
周辺の土地は、元々大地主が所有していたのだが、分譲地として、何件分か売られていた。区画の半分が大和ハウス、もう半分が積水ハウスで、両親は、そのうち積水ハウスの区画を選んだらしかった。
家庭の濁りを自覚し始めたのは、小学校に入ったぐらいだったと思う。長女が生まれ、次女が生まれて、三人兄妹が揃ったぐらいの頃だった。
父は暴力による躾を良しとする人間だった。母は、何かの病気を疑ってしまうほどに怒鳴り散らし、舌打ちを漏らし、良くため息をつく人間だった。そして、二人とも「なぜ結婚なんかしたんだ」と問い詰めたくなるほどに、相性が悪かった。
私は男だったので、「男はしっかりしろ」「男が泣くな」という価値観と、少しばかりの暴力と共に育てられた。児童虐待とは違った。あくまで、躾の範囲内。私が、ダメなことをしたとき、親の教育に反することをしたとき、言葉で言って分からなかったときにそれは起きた。
行われた暴力の種類としては、手で叩く・物を利用して叩く。この二種類だった。グーで殴られることは無かったと記憶しているが、あってもおかしくなかった。
叩くだけとは言っても、痛くないということは無い。瞬間的な激痛は、子供の抑止力としては、十分すぎるほどだった。頭を叩かれたときは、広範囲にじんとする痛みが押し寄せた。物で叩かれたときは、差し込むようにちくちくと押し寄せる痛みが、数分間引かなかった。
手で叩かれるときは、基本的に痛みは変わらない。しかし、物で叩かれたときは、その物の種類によって、痛みの程度が大幅に変わってくる。
私の中で、最も痛みが大きかった物は、母のブランドものの鞄だった。ナスカの地上絵のロゴが貼ってあった。一番柔らかい袋の部分ではない、一番固い、ベルトの金具部分で叩かれた。
今思えば、あれは殴られたのかもしれない。あの「日」という漢字の形を、金属で置き換えたような金具の跡が、私の頭部に刻まれた。高校生になった今でも、この跡の凹凸は、しっかりと確認できる。
暴力は良くない。この考えには賛成だ。しかし、最近になって、暴力による躾は、個人的には必要なのかもしれないと思い始めてきた。暴力による子供への抑止力は凄まじい。「これをしたらまたアレが来る」という単純なイコールの学習が、その後の人生にずっと効いてくるからだ。
小学生の頃、担任の先生が言っていた。
「昔は親に良く殴られたりしたもんだけど、今はそんなことないでしょ?パーでもないもんね?」
私は、金具の跡を触りながら、「全然あるけどな」と頭の中で思っていた。
小学生の頃は無かったが、高校生になった今、「こいつら殴られて育ってこなかったんだろうな」と思ってしまうことが良くある。普通、高校生であればできているはずのことを、まだできていないような少年少女を見ると、そう思ってしまう。
こういうことをする輩、夜中まで平気で遊ぶ輩は、私から見れば「親は何も言ってこないのか」「そんなことしたら殴られるだろう」と、そういう親を優先とした考えが先行する。
やはり、彼ら彼女らは、親が甘くて殴られてこなかったから、このような状態になっているのだと思ってしまう。そういうときに、「躾をされてないんだろうな」と思ってしまう。もちろんこれは、暴力を含んだ躾のことである。
暴力は良くないと完全に納得しているはずなのに、自分の中で暴力による躾の是非が揺らいでしまっている。
そして、このような思考に陥っているという状態そのものが、あの父親から受け継いだ一部がしっかりと体内に流れていて、その環境と教育に従順に受け止めているのだと納得できてしまうのが辛い。
この父親の存在だけでも、私からすれば、勘弁して欲しい物だったが、あの家の脅威は父だけではなかった。
人の怒りは、たいてい六秒間で収まる。小学校か中学校の講演会で聞いたことがあった。しかし、私の母は、その理論からずっと遠いところに存在していた。講演会の開かれている校舎の学区内に住んでいるというのに。
奇声、口喧嘩、怒鳴り声、発狂。この口から発することのできる最悪を全て知る人だった。そして、その最悪を日常的に家庭内に振り撒く人だった。
私の母は、所謂エリート家系の出だった。東京大学の出身で、世界的な研究者である祖父。その妻である祖母との間に生まれたのが、双子の長男と次男、三男、末っ子である私の母だ。
長男は、上智大学を卒業し、大企業に就職し、現在では支社の社長になっているらしい。
次男は、中央大学で法を学び、数年の苦闘を経て、司法書士に。
三男は、東京大学を出て、祖父と同様に世界的な研究者として活動している。
このエリート集団の中で育った母は、「絶対にこんな地元から出て、東京で生活する」という固い意志があった。
そして、見事、東京の大学である東京理科大学に進学した。大学では、優秀な成績を収めた。一番留年数が多いことで有名な東京理科大学を、ストレートで卒業をした。
その後は、国家公務員を志した。しかし、実らず一般企業、つまり父と同じ大企業への就職を果たした。
私は、そんな母の、あの家での生活を見て、「このエリート家系から生まれてきた人間のはずがない」と考えるようになった。




