第伍話 支配と服従はどちらが強いのか
次の日の夕方。
俺が帰宅すると、家の前で真央が立っていた。今日の真央は、いつもと違って疲れたように見えた。
「湊……」
真央の顔は険しかった。真央は俺の目を見ながら、歯切れの良い口調で言った。
「話があるの」
「……なんだよ、改まって……」
真央にいつもの笑顔はない。
「湊さぁ、最近おかしいわよ……あの転校生が来てからずっと変」
「俺とあいつは何も関係ねえ」
「関係あるわよ。私、湊のことが心配だから来たんだよ」
真央の声は真剣だった。俺はそれがわかっていた。わかっていたから、余計に聞かれたくなかった。
「ねえ、湊……あの女から離れて……。距離を取って欲しいの。そりゃ、同じクラスだから完全に無視とか難しいかもしれないけど……とにかく心配なのよ」
真央は話を続けた。
「あの子は危険だわ……きっと良くないことが起きる」
真央は泣きそうな顔をしながら訴えた。もしビジネスの場で、今の真央みたいな顔で説得されたら、どんな不利な契約書にだってサインするに違いない。
だが、今日の俺は首を振った。
「駄目だ真央。それは出来ねえ」
「どうしてなの? あんな女のどこがいいの!」
「真央、落ち着け」
「落ち着けない! 湊のことが、私は——」
真央の声が震えた。
その時、突然、真央が俺の胸に飛び込んで来た。そして、胸に顔を埋めながら、大声で言った。
「好きなのよ、湊! ずっと前から!」
「真央……お前!」
俺は真央を見た。涙で目が赤くなっている。
二人の間に沈黙が落ちた。
俺は何を言えばいいかわからなかった。
真央の言っていることは、いつも正しかった。いつも俺のためを考えてくれていることも知っている。
だが、俺はもう、弥生のことが気になって仕方がなかった。俺はおかしくなってしまったんだ。
「送っていくよ」
俺がそう言って、真央の体を引き離すと、真央は雷にでも撃たれたような顔をして後退りした。
「そんなにあの女が好きなの? 湊、あの女と何があったの? あの女と会ってから、湊は変わってしまった!」
真央はそう言うと、背中を向けて走り出してしまった。
「おい、真央!待てよ!」
俺は真央を追いかけた。だが、真央は向こう見ずに走り出している。
「どうしたんだ、真央。お前こそ、いつものお前じゃない。いつものお前は、にこやかで落ち着いていて……いつも正しかった。だが今日のお前はどうかしてるぞ!」
俺は真央の姿から、狂気のようなものを感じた。それは嫉妬と執着に狂った女の姿だった。
俺は真央を追って、夕暮れの路地を走り抜けた。
そして、俺たちが大きなマンションの前の、大きな通りに出た瞬間。
後ろから、急に大きなエンジン音が聞こえた。振り返ると、眩しいヘッドライトが、こちらに向かって真っ直ぐ突っ込んでくるのだ!
俺は一瞬で状況を理解した。
あいつは俺たちを轢き殺そうとしている!
「真央っ!」
俺は真央の体へ抱きつくように突き飛ばした。
「ああっ!」
直後、車が俺の脇を風のように通り抜けた。
二人の体が路地の奥へ転がる。
「ひいっ!」
真央が呻き声を上げた。
二人とも、あちこちを地面で打ちつけながら転がった。
俺が顔を上げると、その車は止まることなく逃げ去っていた。
だが、最初に振り返った一瞬。
フロントガラス越しだが……運転手の顔を、俺は見逃さなかった。
「影山……!」
真央が地面にうつ伏せに倒れたまま号泣していた。
俺は立ち上がった。膝を強打したのか、ガクガクと震えている。
それは怒りからくるものなのか、それとも恐怖なのか。俺にはわからなかった。
「真央……大丈夫か」
俺は真央に声をかけたが、真央からの返事がない。俺は影山のことを考えた。
「あいつ一体何のためにこんなことを……」
俺は歯噛みした。
だがその時、ふと嫌なことが心をよぎった。
あの車が走り去った方向は、弥生の住むマンションの方角だったのだ。
俺の胸に、えもいわれぬ不安が巻き起こった。
「真央……俺、行かなきゃ」
俺は立ち上がった。
「ま、待って!」
足元から、真央の声が聞こえる。
「弥生が危ないんだ!」
「駄目、行かないで、湊!」
真央が俺の足元にすがりついてくる。
「離してくれ、真央!」
「ああっ、湊!」
真央は恐ろしい力で、俺の足を掴んでくる。
俺は力を入れて少々乱暴に真央の腕を引きはがした。そして、真央をジッと見下ろす。
「ごめん、真央……」
俺は真央の泣き叫ぶ声を背中で聞きながら、弥生の家へ向かって走りだしたのだった。
◆
俺は弥生のマンションまで、全力で走った。
息が切れていた。膝の痛みはまだあったが、関係なかった。
彼女の部屋がある三階まで階段を駆け上がった。そして弥生の部屋の前に立つ。
俺が扉に手をかけると——なんと開いていた。
嫌な予感が的中していたのだ。
「弥生!」
俺は扉を蹴り開けた。
薄暗い部屋の中、ベッドの上で弥生が押し倒されていた。馬乗りになった男が、両手で弥生の首を締めている。
影山だ。
「てめえ……!」
俺は叫びながら、透の横面を思い切り殴った。
透は吹き飛んでベッドから転がり落ちた。だが、すぐに立ち上がって俺を睨みつける。目が血走っていて、もう普通じゃなかった。
「お前は十六夜!なんでここに!」
「お前、正気か!」
透は立ち上がると、俺に向かって殴り返してきた。俺の頬に拳が入る。俺は歯を食いしばって、逆に殴り返した。
「うっ! うおっ!」
俺のパンチが、影山の腹に突き刺さる。どうやら喧嘩なら、俺の方が一枚上手みたいだ。俺は透の胸倉を掴んで壁に叩きつけた。ガラガラッ!と物が壊れる音がする。壁掛け時計が落ちて来て、影山と一緒に床へ倒れた。
「うおおお、十六夜っ!」
影山が鞄へ手を伸ばして、中から何やら長い物を取り出してきた。俺は一瞬、それが棒か何かだと思ったが違った。
奴が取り出したのは日本刀……影山はギラリと長い刃を抜き出したのだ。
「お前! マジで洒落になんねえぞ!」
「十六夜……お前もいずれ、俺みたいになるんだ」
影山は荒く息を吐きながら刀を構えた。そしてゆっくりと俺に向かって来る。目が血走っていて、眉は吊り上がっている。
「この女と関わった以上、お前も俺と同じなんだ! わかるか? 俺の姿はな、お前の未来の姿なんだ!」
「一緒にするんじゃねえ!」
「じゃあ、お前、止めてみろよ!」
影山が刀を振ってきた。
俺は後ろへ飛んだが、後ろに棚があった。俺は棚と共に床へ倒れて、皿やカップと一緒に床へ叩きつけられた。ガシャン、バリン!と皿が割れる。
刃が俺の頭の上を通過して、部屋の壁へ突き刺さった。俺はその隙に玄関の方へと逃げる。
影山が壁から刀を抜くと、キョロキョロと俺を探して、それから俺を見つけた。俺と影山の目が合う。
「お前、逃げんな!」
「いい加減にしろ! お前!」
罵る言葉もわけがわからなくなっていた。
影山が刀を振りかぶった時、俺は奴の体めがけて体当たりした。そして、そのまま二人で床にぶっ倒れる。
体の横に、刃が青白く輝く。
良く斬れなかったものだ。
俺は青くなりながら、影山の両手首を押さえつける。
そして、影山に馬乗りになりながら、顔面に頭突きしていた。
「ぐあっ……!」
二、三発、頭突きを叩き込むと、影山の鼻がグニャリと曲がって血を吹いた。
その瞬間、影山が刀を持つ手が緩んだので、俺はそれを強く引いて奪い取り、風呂場の方へ投げ捨てた。
「はあ、はあ、はあ!」
俺は荒く息を吐きながら、影山を押さえつけた。奴は涙を流しながら泣いていた。
「影山、お前……」
影山は脱力して一人泣き始めた。抵抗を止めたと思った俺は、立ち上がって影山の上から離れた。
あちこちが怪我をしていた。殴られて口の中を切っていたし、割れた皿で足の裏から血が出ていた。俺は弥生のベッドへ腰を下ろした。
影山はおいおいと泣いて、床に座り込んだ。そしてボソリと「失敗した」と言った。
俺は荒く息を吐きながら影山を見ていると、奴は俺の方を見ながら悲し気な目で俺を見つめた。
「十六夜……俺は彼女の抹殺に失敗した」
「なに、物騒なこと言ってんだよ!」
俺は身構えた。
「とうとう、この悪魔を祓うことが出来なかったんだ」
「何が悪魔だ、こんな時代に」
「彼女と共にいる限り……いずれお前も痛感するはずだ。その時後悔しても……お、そ、い……」
影山はそういうと、目をギラリと光らせた。俺は体を硬直させたが、奴は俺ではなく玄関へと走り出したのだ。
「あ、てめえ、逃げんな!」
だが、影山の動きは素早かった。俺が立ち上がる頃には玄関を駆け抜けている。
「おい、影山、おい!」
だが影山は、次の瞬間、通路の手すりを飛び越えて、そのまま飛び降りてしまったのだ。
「あーーーっ!待てえ!」
影山は——落ちた。
俺は玄関から飛び出して地面を見下ろした。すると地面には奴が倒れていた。幸いなことに、下にあった生垣へ転落していたので、おそらく彼は生きているだろう。
俺はホッと胸をなで降ろした。
俺は疲れていた。
フラフラと、部屋へ戻ろうとすると、 遠くでサイレンが聞こえ始めた。
俺が部屋に入ると、弥生はベッドの上に座ったまま、何も変わらない顔をしていた。
俺と弥生は、静かに目を合わせた。俺は、弥生のそばへ腰を下ろした。
「弥生……大丈夫か」
弥生はしばらく黙っていたが、静かに口を開いた。
「遅かったじゃない」
「はぁ?」
「もう少しで私……殺される所だったじゃないの」
「弥生……お前それ言う?」
俺が呆れてそう言うと、弥生はサッと俺のそばへ寄って、頭の後ろに腕を伸ばした。そして、グッと自分の方へ引き寄せると、そのまま俺の唇を奪ったのだ。
「あっ」
だが弥生の舌が俺の唇に入り込んで来る。
俺は完全に油断していた。
頭の後ろは、ガッチリと弥生の手の平で押さえつけられている。
抵抗しようと思えば、逃れることも出来たかもしれない。
だが、結局俺は、その快楽に屈服した。
彼女とのキスの味は、血の味がした。




