第弐話 欲望を受け入れることは、弱さか?自由か?
弥生の家が学校から五分の場所にある、という話は嘘っぱちだった。
少なくとも、彼女のマンションまで十五分はかかったのだ。
俺は荒く息を吐きながら、三階にある彼女の玄関まで歩いた。
「どこが学校の近くなんだ。結構あるじゃねえか」
すると弥生はコロコロと笑った。
「嫌だった?」
そう言われて、俺は黙ってしまった。
正直に言うと、嫌ではなかった。
彼女を背負って歩いた十五分の間、弥生の鼻息が首筋に当たるたびに、俺は妙な感覚を覚えていたのだ。背中で潰れる胸の柔らかさも、まだどこかに余韻が残っている。
「部屋の中まで運んでくれないの?」
俺は思わずエッと声を上げた。
「駄目なの?」
「……駄目じゃねえけど」
女の子の部屋に上がることへの抵抗はあった。
でも弥生は怪我をしているのだから仕方がない。
俺は自分にそう言い聞かせながら、靴を脱いで家へ上がり込んだ。
弥生の部屋は薄暗いワンルームだった。
遮光カーテンを閉めると、部屋の中は真っ暗になりそうだ。
ベッドの脇に、赤い花が飾ってあった。少し萎れていた。
部屋の中は、彼女の甘い匂いで満ちていた。俺は気づかないうちに、大きく息を吸っていた。
弥生をベッドへ下ろすと、彼女は俺に向かって足を突き出してきた。彼女は靴を履いたままだった。
「脱がせて」
俺は片膝をついて靴を脱がせた。すると彼女の小ぶりな足先が現れる。ふくらはぎから指先まで、流れるようなカーブが美しい。
「靴下も脱がせてよ」
俺は熱病にうなされたような顔を上げて、弥生を見た。彼女は強い目力で俺を見ていた。その姿に、俺はある種の威厳を感じた。
俺は顔に熱を感じながら、丁寧に靴下を脱がせた。
するとその瞬間、弥生が声を上げた。
「痛いっ……!」
「ええっ?」
飛び上がってベッドへ倒れ込んだ弥生に、俺は慌てて近寄った。
「ご、ごめん!」
すると弥生は枕の隙間から、悪戯っぽく笑っていた。
「からかっているのか?」
すると弥生は微笑んだ。
「あなた、モテるでしょ」
唐突に弥生が言った。俺は横を向いて口を尖らせた。
「……そんなことねえよ」
弥生は上体を起こして俺を見た。
「私があなたに教科書を見せてもらっている間、周りの殺気がハンパなかったわ。気づいてないの?」
俺は何も言えなかった。
弥生はゆっくり姿勢を変えて、俺の方へ体を寄せた。
「あなた、退屈なんでしょ」
「別に」
「そういう顔してる」
「してねえよ」
弥生が顔を寄せてくる。胸の鼓動が止まらない。
「じゃあ、ゲームしない?」
「何のゲームだ?」
「あなたの秘密を当てるゲーム」
「俺に秘密なんかねえよ」
すると弥生はははと笑った。
「あるくせに」
弥生は続けた。
「あなたはね、モテるのに女の子が嫌い」
俺は言葉を失った。
「退屈なのよ」
「どうしてそんなことが言えるんだ」
弥生はニコリと微笑んだ。
「あなたは可愛いとか、尽くされるとかに慣れてて、なんとも思ってないの」
「そんなことはない……有難いとは思ってるさ」
「有難いと思ってる、っていう言い方が、有難いと思っていない証拠ね」
俺はまた、言葉を失った。
「じゃあ、俺は何を望んでいるって言うんだ」
すると弥生は微笑んだ。
「それを、あなたの口から言って欲しいの」
「そんなこと言って、俺に何のメリットがあるんだ」
すると弥生は立ち上がって、ブラウスのボタンを二つ外した。
それを見た俺は、思わず視線を逸らした。
「もしあなたが、何をして欲しいか打ち明けてくれたら、その願いを私が叶えてあげるわ」
弥生は俺をじっと見つめた。
「それも今すぐよ。たとえそれが、どんな望みでもね」
「俺が……お前に死ねと言ってもか」
すると弥生は強い目線で俺を見た。
「もちろんよ……私に死んで欲しいの?」
「違うけど……」
俺がそう言うと、弥生は肩をすくめて笑った。
俺は少し動揺しながら弥生を見た。
「……死ねとか言ってゴメン。……そんなことは願ってない」
すると弥生は微笑んだ。
「わかってるわ。気にしないで。その代わり、あなたの欲望をちゃんと口にして」
その一言に、俺は逃げ場がなくなった気がした。
何を言えばいいのか。
俺は何を望んでいる?
弥生は黙って俺を見ていた。心臓の音が、耳の奥で鳴り響いている。
「……言えないの?」
弥生が小さく笑う。
「人に言えない望みなのね?」
俺の喉が乾いた。俺は小さく息を吸った。
「……お前の匂いを」
弥生の瞳が細くなる。
「嗅がせてくれ」
声に出して、初めて気づいた。俺はずっと、それを望んでいたのだと。
「やっぱり。あなたには、あの匂いがわかるのね?」
弥生は静かに言うと、遮光カーテンをサッと閉めてから電気を消した。
窓辺から入る光はほとんど遮断され、カーテンからじんわりと入る光から、弥生のシルエットが浮かびあがった。
「なぜ、電気を消すんだ」
「匂いを味わうためには、視覚を封じなければならないわ」
すると、真っ暗な中、薄っすらとしたシルエットが動く。
その動作から、彼女が服を脱いでいると俺は確信した。
俺は生唾を飲み込んだ。荒くなった鼻息を悟られないよう、ゆっくり呼吸したが、それはとても苦しかった。
服を脱ぎ終わると、彼女は真っ直ぐに立って、薄明かりの中で両手を広げた。
熟した桃のような甘い香りが、鼻の奥まで入ってくる。
俺は息を吸った。深く、ゆっくりと。
「あなたは勉強も出来て、スポーツも万能。まるで満月みたいに完璧に見えるのに、たった一つだけ欠けているのよ」
「欠けている?」
弥生は頷いた。
「あなたはチヤホヤされたいわけじゃなかった。むしろその逆」
俺は唾を飲み込んだ。
「図星でしょ?」
「ああ、そうだ。おかしいだろう。……俺はずっと前から、それを自覚していたんだ」
「おかしくなんかないわ。ただその本当の気持ちに蓋をしていたら、自由になんかなれない」
弥生は続けた。
「それがある限り、あなたは普通の生活では満たされないのよ」
弥生の影が、近づいてくる。
「……俺はどうすればいいんだ」
「わかってるでしょ?」
弥生は微笑む。
「あなたは私の言うとおりにすればいいの」
薄明かりの中で、弥生の鋭い視線が俺を捉えていた。
「なんて女だ。お前は本当に高校生なのか」
弥生はしばらく黙っていた。
「さあ。あなたにとっては、悪魔かもしれないわね」
俺はその言葉を笑い飛ばせなかった。弥生は、力強く言った。
「欲望を受け入れることを、人は弱さだと言う」
弥生が静かに歩み寄ってくる。
「でも本当にそうかしら。欲望を受け入れることは、本当に弱さなのかしら?」
弥生は続けた。
「だって。あなたは色々なものに縛られているんだもの。そこから解放されて自由になる。それがどうして悪いことなの」
「欲望に忠実になることで、自由になれるのか」
すると弥生がすぐ目の前に立つ。
「自分がやりたいことに、真に向き合うということよ」
暗闇の中で、彼女の息づかいや心臓の鼓動を感じていた。
そして、俺は彼女の匂いに惑わされ、思考停止に陥っていた。




