第壱話 甘い罠には引力があった
「おはよう、湊」
振り返ると、ストレートの黒髪を長く伸ばした女の子が立っていた。身長は俺より20センチは低い。
朝倉真央。幼馴染だ。
小学校からずっと一緒で、高校生になった今も同じクラスにいる。
真央は上目遣いで覗き込むように俺を見ている。俺は微笑みながら真央を見つめた。
「朝、起こしてくれて、ありがとな」
「どういたしまして。湊の遅刻を阻止するのとは、幼馴染としての責務ですわ」
「夜遅くまで勉強してると、朝が辛いんだよな」
「湊は特待生だから、成績が下がっちゃまずいもんね……」
真央はそう言うと、当たり前のように俺の隣に並んだ。そんな様子を、周りから見ている女子たちが羨ましそうに声を上げる。
「相変わらずモテますな、湊殿」
「モテるのはお前の方だろ。この間も2組の奴に告られたんだろ?」
「へへへ、妬いてんの?」
「そんなんじゃねえけど」
「湊だって、下駄箱がヤバいことになってるじゃん。毎日ラブレター、すごいよね? あれ、全部読んでるの?」
「いや、読んでねえ」
「えーっ、かわいそう」
「相手してたら、寄ってくるから。冷たく突き放すくらいで丁度いいのさ」
「ほえー、言ってみたい。そんなセリフ」
俺が言うのもなんだが、真央はかなりの美少女だと思う。そして性格も良い。真面目で、少し頑固で、相手のことをよく見ている。
おそらく、もらったラブレターにも、いちいちお断りの返事を書いているのだろう。だから、振られても諦めない、ストーカーめいたファンも多いと聞く。
「昨日、また帰り遅かったでしょ」
「補習があった」
「嘘つき。補習なんてないって知ってる」
真央はそういう女だ。全部お見通しで、全部正面から言ってくる。そういう所は古女房って感じで嫌なんだが。
「湊くん、おはよう!」
「ああ、おはよう」
教室に入って席に着くと、いつも通り女子が集まってくる。
声をかけてくる子、隣に座ろうとする子、ノートを見せてほしいという子。
俺は適当に笑って、適当に返す。
全員が同じに見えた。可愛くて、明るくて、みんないい子だ。だけどそれだけだ。
俺は退屈していた。心が揺さぶられるような、そんな気持ちが、最近はなかった。
真央が少し離れたところから、じっと俺を見ていた。他の女の子と話すと、少しだけ不機嫌そうな顔をする。親しいが、彼女というわけではないから、微妙な位置関係だ。真央も俺も、それ以上は踏み込んでいかない。
それは、告白したり、付き合ったりすることで、これまでの関係が崩れるのが怖かったからだと思う。
だけどもし、真央が他の男子と付き合うと言ったら、俺はどうする?
もし、俺に彼女ができそうになったら、真央は怒るだろうか?
いずれにせよ、俺たちはいつか、二人の関係をはっきりさせないといけない気がしていた。
ガラガラっと引き戸が開いて、担任の先生が入って来た。そして、すぐ後ろからセーラー服を着た女の子がついて入ってくる。上目がちに教室を見回しながら、教壇の脇へ立った。先生は黒板に名前を書いた。
月城弥生。
俺は彼女な顔を見た。
明るい茶髪に長いまつ毛。
色白で瓜実型の整った顔をしている。ツンとした鼻にぷっくりとした唇をしていて、まるで象牙のような肌だった。
「月城……お前、とりあえず十六夜の隣に座ってくれ」
「十六夜君?」
綺麗なエレクトーンのような声だった。俺は月城を見つめながら手を上げた。
「君の席、ココだよ」
月城と目が合った。彼女はニコリと微笑むと、僕の左の席に座った。
「よろしくね、十六夜君」
刺すような眼力だった。美しい彫刻のような顔は、不思議なオーラが漂っている。そして、何故だか甘い熟した桃のような香りがした。
「教科書見せてね……いい?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ、机を寄せるわよ」
「手伝うよ」
俺が机を寄せて、教科書を真ん中に立てると、反対側の端を月城が持った。思ったより俺の近くに寄ってくる。時折、柔らかな肩が、俺の腕に触れる。
クラスのあちこちでヒソヒソと声が聞こえる。
「なんか変な子だね」
「なんか近くね?」
「湊……見すぎ」
俺は恥ずかしくなって、視線を窓の外に逃がした。
◆
放課後、真央は委員会があると言って、先に教室を出て行った。
俺は自習室で遅くまで一人で勉強していた。そして暗くなる直前……空がオレンジ色から紫に変わる頃……にようやく自習室を出た。
多くの生徒は下校していて、残っているのは体育会系の部員くらいだった。
俺は廊下を歩いていた。
下駄箱へ向かう廊下の曲がり角で、出会い頭に誰かとぶつかる。
「キャア!」
体の大きな俺はなんともなかったが、相手の女の子は派手に突き飛ばされてしまった。
俺は慌てて彼女の元へ駆け寄った。彼女の体から、甘い匂いがした。俺は胸がドキドキした。
「大丈夫か」
駆け寄ってみると、その女の子は月城弥生だった。
彼女はその場にしゃがみこんで、足首を押さえていた。俺は反射的にしゃがんだ。
「どこか痛い?」
すると月城は、眉をハの字にしながら上目遣いで湊を見た。妖艶な、深いブラウンの瞳だった。
「……痛い」
月城は、足首を摩りながら小さな声をだした。
俺は彼女を抱き抱えると、痛そうな顔をしながら、俺に倒れ込んでくる。月城からいい匂いがする。甘くて、重くて、頭の奥がぼうっとした。
「保健室、行くか」
すると月城は首を振った。
「でも、お前……足首が痛いんだろ?」
すると月城は顔を上げた。
「保健室は嫌」
「でも、それじゃ歩けないだろ」
俺がそう言った時、月城は、目力のある瞳でじっと俺を見つめてきた。俺はその瞳をじっと見つめる。
「十六夜君、おぶってくれない?」
「えっ?」
俺は驚いて月城を見た。
「おぶって欲しいって言ったのよ。聞こえたでしょ」
月城はそう言うと、俺をジッと見つめてくる。有無を言わさぬ、甘い罠のような視線だった。
俺は一瞬、固まった。
「でも……」
「家は近くなのよ。5分もかからないわ」
月城の口調は命令っほくはなかったが、俺には命令のように聞こえた。
断る言葉が、出てこなかった。
黙っていると、月城が俺の肩を押した。
「背中を向けて頂戴。おぶされないでしょ」
そう言われて俺は、断るタイミングを失ったことを悟った。仕方なく、俺は月城の方へ背中を向けた。
彼女の体は柔らかかった。大きな胸が背中で潰れる。体重は意外と軽くて、体温は熱く感じた。耳元へ、彼女の息がかかった。
「早く歩いて……道は私が指示するわ」
俺の心臓が激しく波打つ。
俺は立ち上がって、歩き始めた。




