雲海の底
世界は白一色だった。
俺――ライルは、強烈な耳鳴りと共に意識を取り戻した。 全身の筋肉が悲鳴を上げている。特に左肩が焼けるように痛い。 重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、乳白色の霧と、歪に捻じ曲がった金属のフレームだった。
「……く、ぅ……」
肺に詰まった湿った空気を吐き出し、俺は身を起こそうとした。 だが、身体が鉛のように重い。 俺はコクピットの中で、逆さまになっていた。 シートベルトが腹に食い込んでいる。愛機だったグライダー『ウィング・ゼロ』は、見るも無残な鉄屑となって、巨大な樹木の枝に引っかかっていたのだ。
「……おい、シープル! 無事か!?」
俺は痛みを無視して叫んだ。 前の座席にいたはずの彼女の姿が見えない。キャノピーは割れ、座席は空だ。 血の気が引く。まさか、墜落の衝撃で投げ出されたのか?
俺はナイフでベルトを切り、地面へと転がり落ちた。 湿った土の感触。腐葉土と、錆びた鉄の匂いが鼻をつく。 霧が立ち込める森の中、俺は足を引きずりながら彼女を探した。
「シープル! 返事をしろ!」
声が霧に吸い込まれていく。 最悪の想像が脳裏をよぎる。彼女は人間離れして頑丈だが、それでも限度がある。あれほどの高度から落ちて、無事なはずがない。
その時、霧の向こうで微かな光が揺れた。
「……ライル?」
鈴を転がすような声。 俺は声のする方へ走った。 巨大なシダ植物のような葉を掻き分けた先に、彼女はいた。
シープルは、苔むしたコンクリートの塊の上に座り込んでいた。 銀色の髪は湿気を含んでぺたりと頬に張り付き、白い服は泥だらけだ。 だが、その身体には、やはり擦り傷ひとつなかった。
「シープル!」
俺は彼女に駆け寄り、肩を掴んだ。
「無事か!? どっか痛いところは!?」
「……痛くない。ステータス、正常」
彼女はキョトンとして俺を見上げた。
「ライルこそ、赤い液体が出てる。……痛そう」
彼女が指さしたのは、俺の額だった。拭ってみると、ぬるりとした血が付着する。 どうやらキャノピーの破片で切ったらしい。
「こんなのかすり傷だ。……よかった、生きててくれて」
俺は全身の力が抜け、その場に座り込んだ。 彼女が生きていた。それだけで、今の俺には十分すぎる奇跡だった。
呼吸を整え、俺は改めて周囲を見渡した。 ここがどこなのか。そして、俺たちがどこへ来てしまったのかを理解するために。
教会の教義では、雲海の下には「灼熱の業火」と「猛毒の瘴気」が渦巻く地獄『奈落』が広がっているはずだった。人間が踏み入れれば、瞬時に魂ごと焼かれる場所だと。
だが、目の前にある光景は、地獄というよりは――巨大な墓場だった。
霧の中に聳え立つのは、木々ではない。 天を衝くような高さを持つ、巨大な「鉄の塔」たちだ。 いや、あれは塔じゃない。ガラスが割れ落ち、鉄骨が剥き出しになった、旧時代の「超高層ビル群」だ。 かつて人間が住んでいたであろうその遺構は、赤錆に覆われ、毒々しい色の蔦植物に侵食されていた。 コンクリートの地面はひび割れ、そこから未知の植生が爆発的に繁殖している。
「……これが、地獄の正体かよ」
熱くもない。毒ガスもない。 ただ、圧倒的な「死」と「時間」が堆積した場所。 空気が重い。湿気を含んだ風からは、濃厚な植物の匂いと、どこか甘ったるい腐敗臭が混じっていた。アルカディアの無機質な空気とは違う、あまりに生々しい「世界」の匂いだ。
「すごい……」
シープルが立ち上がり、廃ビルを見上げて呟いた。
「ここ、空の上よりずっと『情報』が多い。……ライル、あれは何?」
彼女が指さしたのは、半分土に埋もれた錆びた看板だ。 俺は近づいて、蔦を払いのけた。
『 TOKYO METRO ... GINZA LINE 』
「……トウキョウ? ギンザ? なんだそれ」
俺には読めない文字だ。旧時代の言語だろうか。 だが、シープルはそれを食い入るように見つめていた。
「……トウキョウ。極東エリア、旧首都。……データベースに該当あり」
「わかるのか?」
「うん。文字情報として認識できる。……ここは、かつてたくさんの人が住んでいた場所みたい」
彼女は看板を愛おしそうに撫でた。なぜ彼女が旧時代の文字を読めるのか。彼女は、この地上と何らかの関わりがあるのかもしれない。
「人が住んでいた……か」
俺は周囲の静寂に耳を澄ませた。 人の気配はない。聞こえるのは、風が廃墟を吹き抜ける音と、遠くで鳴く正体不明の鳥の声だけ。 ここは死の世界だ。文明の死骸が、森に飲み込まれようとしている最中だ。
「ライル、お腹すいた」
シープルの声で、俺は現実に引き戻された。 そうだ、感傷に浸っている場合じゃない。俺たちは遭難したんだ。 水も食料もない。グライダーは全損。無線機も壊れている。 ここから生きて帰る方法を探さなければならない。
「……探そう。水と、食えるものを」
俺は立ち上がり、シープルの手を引いた。
彼女の手は温かい。この死の世界で、唯一の確かな生の実感だった。
廃墟の森を歩くこと二時間。俺たちは、かつて大通りだったと思われる広い場所に出た。アスファルトはひび割れ、車と思われる鉄塊が列をなして錆びついている。
「ライル、あれ!」
シープルが声を上げた。彼女が指さす先、崩れかけたビルの軒下に、赤い果実をつけた木が生えている。 見た目は木苺に似ているが、一つ一つの実が拳大ほどもある。
「食えるか……?」
俺は慎重に近づき、ナイフで実を割ってみた。甘酸っぱい香りが広がる。シープルが鼻をひくつかせた。
「……有機化合物反応。毒性なし。糖度、高め」
「お前の鼻は高性能だな」
「ふふん。私、すごい?」
「ああ、すごいよ。お手柄だ」
俺たちは貪るように実を食べた。瑞々しい果汁が乾いた喉を潤す。 アルカディアの合成食料とは比べ物にならない、強烈な生命の味がした。
「おいしい! これ、リンゴの次に好き!」
シープルが口の周りを赤く染めて笑う。 その笑顔に癒やされつつも、俺の警戒心は消えていなかった。 こんなに豊かな実りがあるのに、鳥や動物が食べていない。それはつまり、ここが「何かの縄張り」である可能性が高いということだ。
その予感は、すぐに的中した。
ズズズッ……。
重低音が響いた。 地面が微かに震える。地震じゃない。何かが、歩いてくる。 俺はシープルの口を塞ぎ、物陰に引きずり込んだ。
「しっ……! 声を出すな」
霧の奥から、巨大な影が現れた。 それは、生物ではなかった。 錆びついた鉄の塊だ。 四本の多脚で動く、トラックほどの大きさの重機。かつては建設用ロボットだったのだろうか。ショベルのようなアームと、削岩機のようなドリルを備えている。 だが、その姿はあまりに異様だった。 装甲の隙間から、太いケーブルや植物の根が垂れ下がり、まるで内臓のように脈打っている。そして頭部にある単眼カメラが、不気味な赤色に明滅していた。
『ギ……ガガ……侵入者……ハッケン……』
壊れたスピーカーから、ノイズ混じりの合成音声が漏れる。 亡霊のような声。 こいつは「生きている」。数百年の時を経て、野生化した機械獣だ。
「……動くなよ」
俺はシープルに囁き、足元の小石を拾った。 奴の注意を逸らして、その隙に逃げる。 俺が石を投げようとした、その時。
シープルが、俺の手を振りほどいて飛び出した。
「シープル!?」
俺の制止も聞かず、彼女は重機の目の前に立ちはだかった。 彼女は怯える様子もなく、ただ不思議そうに、その暴走する鉄塊を見上げていた。
「……あなた、泣いてるの?」
彼女の声が、静寂な廃墟に響いた。 重機の動きが止まる。赤い単眼が、シープルを捉える。
『……排除……対象……排除……』
重機が咆哮を上げ、油圧シリンダーを唸らせてアームを振り上げた。 質量数トンの鉄塊が、彼女の頭上から迫る。 間に合わない――!
「ダメッ!!」
俺は飛び出し、シープルを突き飛ばした。 直後、轟音と共に地面が爆ぜた。 衝撃波で俺の体は吹き飛ばされ、瓦礫の山に叩きつけられる。
「が、はッ……!」
背骨が軋み、視界が揺れる。 モンキーレンチを抜こうとするが、指に力が入らない。 重機がゆっくりと、俺の方へ向き直る。 その巨大なドリルが回転を始め、嫌な高音を奏でる。
『……ターゲット……破壊……』
死ぬ。 そう思った瞬間。
「……やめて」
シープルの声が、変わった。 いつもの甘く無邪気な声ではない。 騎士団を吹き飛ばした時と同じ、冷徹で、絶対的な命令者の響き。
彼女が右手を掲げた。 その碧眼に、幾何学模様の光が走る。
「その人は、私の大切な人。……壊すなら、私があなたを壊す」
ブォン!!
大気が歪んだ。 重機のドリルが、見えない壁に阻まれたように火花を散らして停止する。 それだけじゃない。 巨大な機体全体が、ミシミシと音を立てて「浮き上がった」のだ。
『ガ……ガガ……エラー……重力……制御不能……』
数十トンの鉄塊が、まるで風船のように宙に浮く。 シープルは無表情のまま、掌を握り込んだ。
「……潰れろ」
グシャアッ!!
内側からブラックホールが発生したかのように、重機の装甲が一瞬で内向きにひしゃげた。 オイルと火花を撒き散らし、かつて建設機械だったものは、ただのスクラップの塊へと圧縮された。
ドサッ。 鉄屑が地面に落ちる。 シープルは肩で息をしながら、その場にへたり込んだ。
「……はぁ、はぁ……」
彼女の瞳から光が消え、元の色に戻る。 彼女は震える手で自分の顔を覆った。
「……ごめんなさい。私、また……壊しちゃった……」
「シープル……」
俺は痛む体を引きずり、彼女に近づいた。 彼女の力は異常だ。この地上でも、それは変わらない。 だが、彼女がその力を使ったのは、いつだって俺を守るためだった。
「いいんだ。助かったよ」
俺は彼女の頭を撫でた。
「お前がいなきゃ、俺はミンチになってた。……ありがとうな」
彼女は涙目で俺を見上げ、それから俺のシャツにしがみついた。 その小さな背中をさすりながら、俺は確信した。 この過酷な地上で生きていくには、彼女の力が必要だ。 だが同時に、その力はあまりに危うい。 俺が彼女の「ブレーキ」にならなければ、彼女はいつか、世界そのものを壊してしまうかもしれない。
その時。 廃ビルの陰から、複数の視線を感じた。 重機でも、獣でもない。 もっと狡猾で、組織だった気配。
「……動くな、空の民」
乾いた音と共に、物陰から数人の男たちが現れた。 ボロボロの布を纏い、ガスマスクのようなものをつけた人間たち。 彼らの手には、パイプを改造した粗末な銃や、錆びたマチェットが握られている。
人間だ。 この死の世界に、まだ生きている人間がいたのだ。




