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邂逅~動き出す世界~

 それから、シープルとの奇妙な共同生活が始まった。俺のガレージは、廃棄された貯水タンクを改装したもので、決して快適な場所ではない。染みついたオイルの匂い。積み上げられた鉄屑。冬は寒く、夏は蒸し風呂になる。だが、シープルは文句ひとつ言わず、むしろ初めて見る「世界」に目を輝かせていた。彼女は驚くほど無知で、そして不思議だった。


 翌日の朝。俺がハンモックで目を覚ますと、シープルは既に起きていた。ガレージの隅、薄汚れた作業台の上で体育座りをして、何かをじっと見つめている。


「……おはよう、シープル。何してるんだ?」


俺が寝ぼけ眼で声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせて振り返った。泥を落とした彼女の顔は、改めて見ると息を呑むほど整っていた。朝日を浴びた銀髪が、薄暗いガレージの中でそこだけ発光しているようだ。


「おはよう、ライル。……この機械、寂しそう」


「寂しそう?」


俺は眉をひそめて近づいた。彼女が見ていたのは、俺が修理を諦めて放置していた旧式の真空管ラジオだった。


「ああ、そいつは壊れてるんだ。中の回路が焼き切れてて、もう直せない。部品も製造中止だしな」


「直せないの? ……かわいそう」


 彼女は悲しげに眉を寄せると、ラジオにそっと手をかざした。その指先は白く、ピアニストのように繊細だった。


「……ねえ、起きて。まだ歌えるでしょう?」


彼女がそう囁いた、次の瞬間だった。


 ブォン……。


 低い振動音が響き、ラジオの部品がカタカタと震えた。

俺は目を疑った。

彼女の手のひらの周りの空気が、陽炎のように揺らいでいる。


『――ザザッ……本日ノ天気ハ、晴レ。午後カラ強イ風ガ吹クデショウ……』


 クリアな音声が流れ出した。ノイズすらない、完璧な受信状態。俺は慌ててラジオの裏蓋を開けた。そして、言葉を失った。


 焼き切れていたはずの配線が、繋がっている。いや、「繋がった」なんて生易しいもんじゃない。溶接の痕も、半田付けの痕もない。まるで、切れていた金属が一度溶けて、また一つの線に戻ったかのように滑らかだった。こんな直し方、俺は見たことがない。どんな熟練の職人だって、こんな芸当は不可能だ。


「はあ!?」


俺はラジオと彼女の顔を交互に見た。


「お前、今何をしたんだ? 魔法か?」


俺が問い詰めると、シープルはキョトンとして首を傾げた。


「魔法? わかんない。……ただ、ここが離れてて寂しそうだったから、『くっついて』ってお願いしたの。そうしたら、直った」


「お願いしただけで直るわけあるかよ!」


俺は叫んだが、現実にラジオは鳴っている。どういう理屈だ? 超能力か何かか? 人間離れした頑丈さといい、この不可解な力といい。こいつは一体、何者なんだ?


 だが、シープルは俺の驚愕を別の意味に取ったらしい。彼女は不安そうに俺の服の袖を掴んだ。


「……ダメだった? 勝手なことして、ごめんなさい」


その瞳は、叱られるのを待つ子供のように揺れている。


 俺はため息をつき、頭を掻いた。わけがわからない。だが、彼女が悪気を持ってやったんじゃないことだけは確かだ。


「……いや、ダメじゃない。すげえよ、お前。俺にはどうしても直せなかったんだ」


俺がポンと彼女の頭に手を置くと、彼女はビクリとしたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。


「よかった……。ライルが喜んでくれて、よかった」


 その無邪気な笑顔を見ていると、俺の中に渦巻いていた疑問や警戒心が、どうでもよくなっていく気がした。ラジオが直った。彼女が笑った。今のところは、それだけで十分だ。


「……腹、減ってないか?」  


俺は気を取り直して言った。


「お腹? ……うん。ここがキュルキュルする」

彼女は自分の腹をさすった。どうやら空腹という感覚すら新鮮らしい。


「よし、じゃあ朝飯だ」


俺は棚の奥から、布に包んで隠しておいた「とっておき」を取り出した。

昨日、雑貨屋のバアさんから買った本物のリンゴだ。 本当は俺の誕生日のために買ったものだが、まあいい。不思議な力のお礼だ。


「食ってみろ。」


俺が手渡すと、彼女は赤い果実を不思議そうに見つめた。


「赤い丸……ボール?」


「食べ物だ。リンゴっていうんだよ。こうやって、ガブっといくんだ」


俺が食べる真似をしてみせると、彼女は恐る恐るリンゴを口元に運んだ。小さな口を開けて、白い歯を立てる。


 シャクッ。


 瑞々しい音がガレージに響く。その瞬間、彼女の動きが止まった。碧色の瞳が、限界まで見開かれる。


「……!!」


 彼女は口元を押さえ、身震いした。


「なにこれ……! 舌が、ビリビリする!」


「ビリビリ?」


「うん! なんか、じゅわってなって、甘くて、酸っぱくて……!」


彼女の目じりに、涙が浮かんでいた。


「痛くないけど、ビックリする。……これ、なに? ライル、すごいよ!」


 彼女は興奮して、拙い言葉を並べ立てた。俺たちが普段食べている味のないブロック食とは違う、強烈な刺激。それをどう表現していいか分からず、彼女の体全体が喜びで震えている。


「美味いか?」


「うん! おいしい! すごく、おいしい!」


彼女はリスのように頬を膨らませて、夢中で食べた。 果汁で口元を汚しながら、幸せそうに咀嚼する。その姿は、まるで世界で初めて「色」を見た人のように、鮮烈な感動に包まれていた。


その姿を見ていると、俺の胸の奥が温かくなった。  この子は、何も知らないんだ。リンゴの味も、空腹の感覚も。彼女は危険な存在じゃない。ただ、真っ白な状態で世界に放り出された、迷子の女の子だ。


「……よかったな」

俺は彼女の汚れを拭ってやりながら、自然と笑っていた。


 それから数日間、俺は仕事を休み、彼女に「人間としての生活」を教えることに没頭した。彼女は驚くほど無知で、そして貪欲だった。


 シャワーの使い方を教えれば、「水が温かい! 雨とは違うの?」と感動して一時間も出てこなかった。  固いベッドの代わりにハンモックを譲ると、「浮いてるみたい!」と喜んで、一日中ゆらゆら揺れていた。


 ある日、俺がガラクタで作ったオルゴールを見つけた彼女は、それを宝物のように抱きしめた。ぜんまいを巻くと、錆びついた金属片が触れ合い、拙いメロディを奏でる。


「音が綺麗。……キラキラしてる」

彼女はずっとそのメロディを口ずさんでいた。彼女の声はオルゴールよりも透き通っていて、ガレージの重苦しい空気を浄化していくようだった。


 彼女は、俺が当たり前だと思って見過ごしていたこの錆びついた世界の「美しさ」を、一つ一つ拾い上げては見せてくれた。廃油の虹色、鉄錆の赤茶色、蒸気の白さ。彼女と過ごす時間は、灰色の日常に色をつけていくようだった。


 ある夜。俺たちはガレージの屋根に上り、夜空を見上げていた。相変わらず汚いスモッグ越しの空だが、ここからなら上層の遮蔽板の隙間から、少しだけ星が見える。俺はずっと聞きたかったことを、彼女に尋ねた。


「ねえ、シープル。……お前、空の向こうから来たんだよな?」


「うん」


彼女は膝を抱えて頷いた。俺の心臓が早鐘を打つ。親父が夢見た「外の世界」。彼女はその目撃者なのだ。


「どんな場所だった? 星は? 宇宙は見えたのか?」

俺は身を乗り出して聞いた。  

親父が言っていた宝石のような星空。無限の世界。  だが、シープルは困ったように首を傾げた。


「星? ううん、見えなかった」


「え……?」


「だって、私がいた場所は、真っ白だったから」


「真っ白?」


「うん。白くて、広くて、静かな場所。……上も下もなくて、光だけで満たされてるの。だから、星なんてなかった」


俺は言葉を失った。白い虚無。それが彼女の故郷だと言うのか。親父が言っていた「星空」は、そこにはなかったのか?


「音もなくて、色もなくて。自分が起きているのか眠っているのかもわからなくて」


シープルは遠い目をした。


「寒くはなかったけど、すごく寂しかった。誰かいないかなって思ってたけど、誰も来なかった。……私、ずっと一人だった」


 俺は愕然とした。彼女がいたのは「外の世界」なんかじゃない。隔離された、閉鎖空間だったんだ。彼女は空の向こうにいたんじゃない。

空の向こうにある「牢獄」にいたんだ。親父の夢見た場所が、彼女にとっては孤独な白い地獄だったなんて。


「でもね、急に目の前が真っ白になって……気づいたら、ここにいたの。ライルが拾ってくれた」


 彼女は俺の方を向き、月明かりの下で微笑んだ。  その笑顔は、どんな星空よりも輝いて見えた。


「ここは眩しくて、音がたくさんあって、リンゴはおいしい。……私、ここに来れてよかった。ライルに会えて、よかった」


 その言葉があまりに切なくて、俺は胸が締め付けられた。俺が憧れていた世界を、彼女は「寂しかった」と言い、俺が憎んでいたこの薄汚れた世界を「よかった」と言う。なんて皮肉だ。そして、なんて愛おしいんだろう。


 俺は無言で、彼女の小さな手を握った。彼女の手は少し冷たかったが、握り返してくる力は強かった。


「……ここにいればいい。そんな何もない場所には、戻らなくていいから」


「いいの? 私、役立たずだよ? 何もわからないし、変な力使っちゃうし」


「ラジオ直してくれただろ。それに、お前がいると……なんか、調子がいいんだよ」


俺がぶっきらぼうに言うと、彼女は嬉しそうに笑い、俺の肩に頭を預けてきた。


俺はこの数日間で、彼女の笑顔を一つずつ増やしていくことに、奇妙な充足感を感じ始めていた。守りたい、と思った。親父がいなくなってから、俺はずっと空っぽだった。ただ惰性で生きて、機械をいじって時間を潰していた。

だが今は違う。この生活が、ずっと続けばいい。この狭いガレージで、彼女にいろんなことを教えて、笑い合って生きていけたら、それはそれで悪くない人生かもしれない。


 俺は彼女の肩を抱き寄せ、二人で静かに空を見上げた。この穏やかな時間が、嵐の前の静けさだとも知らずに。


 シープルが空から堕ちてきて、三日が過ぎた。錆びついたガレージでの奇妙な共同生活は、俺にとって予想外に心地よいものになっていた。


 夕暮れ時。俺はガレージの作業台で、親父の形見である巨大なモンキーレンチの手入れをしていた。シープルは、俺の隣で壊れた目覚まし時計と格闘している。俺が教えた通り、小さなハンマーで慎重に歪みを直そうとしている姿は、真剣そのものだ。


「……ねえ、ライル」


不意に、彼女が手を止めた。


「ん? どうした」


「私、少しだけわかった気がする」


「何が?」


「『直す』っていうこと。……壊れたものを元に戻すんじゃなくて、また動けるように新しい息を吹き込むことなんだね」


 彼女は時計の針を愛おしそうに撫でた。その横顔は、出会った時の人形のような無機質さとは違い、確かな体温を感じさせた。彼女は学んでいる。俺なんかが教えるよりもずっと早く、深く、この世界の「営み」を吸収している。


「……上出来だ。お前、いいエンジニアになれるぞ」  俺が笑いかけると、彼女ははにかんで俯いた。


 その時だった。


 ――ズゥゥゥゥン。


 空気が、重く震えた。地震じゃない。もっと質の悪い、内臓を直接圧迫されるような振動。ガレージの外から、軍靴の足音が響いてくる。一つや二つじゃない。完全に包囲されている。シープルの顔から、血の気が引いていく。


「……来た」


彼女が震える声で呟く。


「あの、白い人たちが……」


 俺はレンチを握りしめ、立ち上がった。嗅ぎつけやがったか。予想よりも早い。 「シープル、俺の後ろに隠れてろ」


 次の瞬間。


 ドゴォォン!!


 ガレージの分厚い鉄扉が、爆発音と共に内側へ吹き飛んだ。土煙が舞い上がり、夕日が赤く差し込む入り口に、純白の影がゆらりと現れる。


 流線型の強化外骨格パワードスーツに身を包んだ、聖騎士団の精鋭たち。その背中には姿勢制御用のスラスターが陽炎を噴き、手には大型のスタンロッドや高周波ブレードが握られている。先頭に立つ隊長らしき男が、フルフェイスの兜越しに、無機質な合成音声を発した。


「発見した。コード『SIPLE』。および、逃亡幇助者一名」  


男のバイザーが赤く明滅し、俺たちをスキャンする。


「抵抗は無意味だ。その『所有物』を返却せよ。さもなくば、即時浄化パージする」


「……所有物だと?」


俺の中で、何かが切れる音がした。

恐怖よりも先に、どす黒い怒りが腹の底から湧き上がってくる。こいつらはいつもそうだ。俺たち下層民をゴミのように扱い、目の前の少女をモノとしてしか見ない。彼女がリンゴを食べて笑ったことも、ラジオを直して喜んだことも、こいつらには関係ないのだ。


「こいつの名前はシープルだ。所有物じゃねえ、人間だ!」


 俺は叫び、床を蹴った。相手は最新鋭の強化装甲を持つ騎士。生身の人間が勝てる相手じゃない。それはわかっている。だが、ここで引いたら、俺は一生自分を許せない。


「愚かな」


 隊長が冷笑し、指先を軽く振った。背後に控えていた二機の自律型ドローンが、弾丸のように飛び出してくる。空中で鋭利なカッターを展開し、俺の首を狙って旋回する。


「うおおおおッ!」


 俺は親父譲りの馬鹿力で、巨大なモンキーレンチをフルスイングした。


ガギィィンッ!!


一機のドローンを捉え、壁に叩きつける。火花が散り、ドローンが痙攣して停止する。手ごたえはある。やれるか――?


 甘かった。もう一機のドローンが死角から回り込み、俺の太腿を深々と切り裂いた。


「ぐアッ!?」


 鮮血が噴き出す。熱い。痛い。


激痛に足がもつれ、俺は膝をついた。そこへ、隊長が滑るように間合いを詰めてくる。強化装甲に覆われた脚部が、俺の腹部に深々とめり込んだ。


「が、はッ……!」


 内臓が潰れるような衝撃。俺の体は数メートル吹き飛ばされ、作業台に激突して転がった。修理中だった時計が床に落ち、バラバラに砕け散る。口の中に鉄の味が広がる。肋骨が二、三本はいったかもしれない。息ができない。


「ライル!!」


 シープルの悲鳴が聞こえた。彼女が俺に駆け寄ろうとするが、騎士たちが無機質な壁となって道を塞ぐ。


「下層のネズミごときが、聖域の所有物に触れるなど汚らわしい」  


隊長が俺を見下ろし、スタンロッドを起動させた。青白い放電がバチバチと鳴る。


「教育が必要だな。神への畏怖と、自身の分際というものを」


 ロッドが振り下ろされる。俺は反射的に目を閉じた。だが、痛みは来なかった。


 ドォォン!!


 鈍い衝撃音と共に、何かが俺と騎士の間に割り込んでいた。目を開けると、そこには、両手を広げて俺を庇うシープルの背中があった。彼女の華奢な体が、スタンロッドの一撃を受け止めていた――いや、直撃する寸前で、見えない壁に阻まれて止まっていた。


「……ほう?」  


隊長が興味深そうに呟く。


「やめろ……! シープル、逃げろ!」


俺は血を吐きながら叫んだ。


 だが、彼女は動かなかった。彼女の肩が、小刻みに震えている。その視線は、俺の足から流れる血と、床に散らばった時計の部品に釘付けになっていた。


「……壊れてる」


彼女が呟く。その声色は、今まで聞いたことがないほど不安定に揺れていた。


「時計も、ライルも。……ひどい」


「心配すんな……これくらい……」


「嫌だ!」


 彼女が叫んだ。その銀色の髪が、重力を無視してふわりと舞い上がる。ガレージの中の空気が、急激に冷えていく。いや、圧縮されている。彼女の周囲で、鉄屑や工具がカタカタと震え出し、ひとりでに浮き上がり始めた。


「ライルをいじめるな。……私の大切なものを、壊すな!」


 彼女が顔を上げた時。その透き通るような碧眼の奥に、見たこともない幾何学模様の光が宿っていた。


「――離れろッ!!」


 彼女の絶叫が、世界のルールを書き換えた。


 キィィィィィン!!


 ラジオを直した時と同じ、だが比較にならないほど強烈な振動音が響いた。シープルを中心とした空間が「歪んだ」。衝撃波ではない。重力そのものの暴走だ。


「な、なんだこれは!? 機体制御が……!」


 隊長の狼狽する声。数トンはあるはずの強化装甲が、まるで羽毛のように宙に浮いたかと思うと、次の瞬間、凄まじいGで真横に弾き飛ばされた。


 バギィッ!!


 騎士たちが壁に叩きつけられ、装甲が悲鳴を上げる。ガレージ内のあらゆる物体が渦を巻いて舞い上がり、シープルの周囲で暴風を形成していく。


警告アラート! 重力震、規模測定不能! こいつ、リミッターが外れてやがる!」


「撃て! 無力化しろ!」


 騎士たちが一斉にブラスターを構え、発砲する。  紅蓮の光弾がシープルに殺到する。

俺は息を呑んだ。あんなものを食らったらひとたまりもない。


 だが、光弾は彼女に届かなかった。彼女の目前で、見えない手で掴まれたように軌道が捻じ曲がり、天井や床に着弾して爆散したのだ。


「……いらない」


 シープルが右手を握り込んだ。


 グシャアッ!!


 濡れた雑巾を絞るような、湿った音が響いた。先頭にいた騎士の右腕――強化装甲で覆われた腕が、内側から吸引されたように一瞬でひしゃげたのだ。鋼鉄が飴細工のように捻じ曲がる。


「ぎアアアアアッ!?」


騎士の絶叫が響く。


「化け物め……!! これが『SIPLE』の力か……!」


隊長がバックステップで距離を取り、背中のスラスターを全開にする。


「総員撤退! レベル4脅威認定! この区画ごと封鎖して焼き払うぞ!」


騎士たちが傷ついた仲間を引きずり、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。ガレージは半壊し、瓦礫の山と化していた。


静寂が戻る。舞い上がっていた埃が、ゆっくりと沈殿していく。シープルは、その中心で立ち尽くしていた。浮かんでいた鉄屑が、バラバラと床に落ちる。  彼女はその場に崩れ落ちた。


「シープル!」


俺は痛む足を引きずり、彼女を抱き留めた。身体が火のように熱い。高熱を出した子供のようだ。


「……ライル……」


彼女がうわ言のように俺の名を呼ぶ。


「私……また、やっちゃった……。怖かったの……ライルがいなくなると思ったら、頭の中が真っ白になって……」


彼女は俺の服を掴み、ボロボロと涙をこぼした。


「ごめんなさい……私、やっぱり化け物なのかな……」


 俺は言葉を失った。今の力は異常だ。間違いなく、人間業じゃない。彼女は危険だ。関われば、俺の命なんていくつあっても足りないだろう。だけど。俺の腕の中で震えている彼女は、ただ自分の力に怯え、俺の安否を気遣う一人の少女だった。


「……馬鹿野郎」


俺は彼女を強く抱きしめた。


「謝るな。お前は俺を助けてくれたんだ。……ありがとう、シープル」


 彼女は俺の胸に顔を埋め、小さく震えた。俺は悟った。彼女が何者であろうと関係ない。俺は、この手を離さない。


 遠くから、新たなサイレンの音が聞こえる。今度は巡回艇だけじゃない。本隊が来る。空を埋め尽くすほどの軍勢が。ここにはもういられない。


「……行くぞ、シープル」


「え……どこへ?」


「ここじゃないどこかだ。……空の底へ逃げる」


 俺はシープルを、ガレージの奥に隠しておいた『グライダー』のコクピットに乗せた。一人乗り用の狭い座席だが、二人で体を密着させればなんとか乗れる。俺は座席に乗り込み、計器のスイッチを入れた。


「エンジン、始動イグニッション


 キュルルル……ボォッ!!


くすねてきた高純度エーテル燃料が燃焼し、プロペラが回転を始める。未完成の機体が、ガタガタと不安な振動をあげる。テスト飛行もしていない。正直、飛べる確率は五分五分だ。


「ライル、これ……飛ぶの?」


「飛ばすんだよ。親父の設計図は完璧だ。あとは俺の腕次第だ」


ガレージの残骸から、外の滑走路(ただの鉄骨の梁だが)へと機体を出す。夜風が冷たい。眼下には、見慣れた雲海が広がっている。そのさらに下。アビスの闇が口を開けて待っている。


「止まれ! 止まらなければ撃墜する!」


背後から、聖騎士団の強襲艇がサーチライトを向けてきた。ロックオンのアラートが鳴り響く。もう迷っている時間はない。


「シープル、しっかり掴まってろ!」


「うん!」


 俺はスロットルを全開にした。エンジンが咆哮を上げる。機体が加速し、鉄骨の上を滑走する。迫りくる断崖絶壁。その先にあるのは、死か、自由か。


「いっけえええええッ!!」


 俺は操縦桿を引いた。機体がふわりと浮き上がる――と同時に、足場がなくなり、俺たちは虚空へ放り出された。


 落下。内臓が浮き上がるような浮遊感。アビスの引力が、俺たちを底へと引きずり込もうとする。


「落ちる……っ!?」


シープルが悲鳴を上げる。


「まだだ! 飛べよ、ポンコツッ!!」


 俺は翼のフラップを展開し、気流を捕まえた。風が翼を叩く。機体が軋み、きりもみ回転しかけるが、俺は全身全霊で機体を制御した。


ガクン、と衝撃があり、落下が滑空へと変わる。


 飛んだ。俺たちは今、誰の許可もなく、この偽りの空を飛んでいる。


 頭上では、強襲艇が放った銃弾が虚しく空を切っていた。  俺たちは雲海へと突入する。乳白色の霧が視界を奪い、世界が白一色に染まる。水滴がバイザーを打ち、寒さが肌を刺す。


やがて、雲を抜けた。


「……ライル、見て」


シープルが指さす。雲の切れ間から、今まで見たこともない「下界」の景色が覗いていた。そこにあるのは、教会が言っていたような灼熱の地獄ではなかった。


月明かりに照らされた、広大な大地。錆びついた鉄の塔が墓標のように立ち並び、それを緑の蔦が覆い尽くしている。静かで、寂しくて、けれど圧倒的な質量を持った「本当の世界」。


「あれが……アビス……」


 親父、あんたは正しかったよ。俺たちは「鳥籠」を抜け出した。この先に何が待っているのかは分からない。だが、背中で震える少女の体温だけは、確かな現実としてそこにあった。


 俺たちの旅は、ここから始まる。アビスの底、鉄と錆の森へ向かって。

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