偽りの青空
その日も、空は反吐が出るほど青かった。
浮遊大陸アルカディア、第七居住区画最下層。
通称『竜骨街』と呼ばれるこの街は、世界を支える巨大な背骨の裏側、もっとも光の届かない場所にある。頭上を覆うのは、上層階級たちが住む煌びやかな都市区画を支える、厚さ十メートルものチタン合金製遮蔽板だ。その隙間から漏れ出す太陽の光は、何層ものフィルターと排気スモッグに濾過され、ここではいつも病的な黄色をして降り注いでいる。だから、この街の住人の顔色は、皆一様に悪い。まるで、カビの生えたパンのような顔をして、死なないためだけに呼吸をしている。
カン、カン、カン……。
乾いた金属音が、終わることのないリズムとなって錆びついた路地に響く。
俺――ライルは、地上数千メートルの虚空に突き出した足場の上で、巨大な排気ダクトのボルトと格闘していた。
「……クソッ。舐めてやがるな、このナット」
俺は悪態をつきながら、滑り止めが擦り切れたグローブでレンチを握り直した。指先の感覚は、とうにオイルと鉄粉にまみれて麻痺していた。爪の間に入り込んだ黒い油汚れは、どれだけブラシで擦っても落ちやしない。それは俺たち下層民に刻まれた、消えない刺青のようなものだ。
今、俺がしがみついているのは、第七区画の浮力を維持する補助機関『サブ・フロート』の第三排熱管だ。直径だけで五メートルはある鋼鉄のチューブが、まるで巨人の血管のように無数に絡み合い、島の底面を這っている。この血管の中を流れているのは、血液ではなく高圧縮されたエーテル蒸気だ。一度噴き出せば、人間なんて瞬きする間に蒸し焼きになる。
足場と言っても、腐りかけた鉄網が一枚あるだけ。 手摺りはない。命綱は、腰に巻いた古びたワイヤー一本。足元を見下ろせば、そこには何もない。ただ、白濁した雲海がゆっくりと、不気味に渦巻いているだけだ。ここから足を滑らせれば、数秒後には雲の中へ消える。その先にあるとされる『奈落』の底まで、およそ三千メートル。誰かが言っていた。落ちている最中に気圧差で鼓膜が破れ、心臓が止まるから、地面に激突する痛みは感じないのだと。それが本当かどうか確かめた奴は、誰一人として戻ってこない。
吹き上げてくる風は氷のように冷たいが、背中の配管からは火傷しそうな熱気が伝わってくる。体の前と後ろで季節が違うような劣悪な環境。作業着の中は、冷や汗と脂汗でぐっしょりと濡れていた。
「おい、ライル! まだ終わらねえのか! 日が暮れちまうぞ!」
頭上の通路から、しゃがれた怒鳴り声が降ってきた。現場監督のガントだ。でっぷりと肥った腹を揺らし、安全な手摺りの内側から葉巻をふかしている。あの葉巻一本で、俺たちの一週間分の給料が飛ぶ。俺は顔にかかる油混じりの汗を拭い、上を見上げた。
「急かすなよ、ガントさん。ここのバルブ、軸が歪んでるんだ。無理に締めれば圧力が逃げて、また爆発騒ぎになるぞ」
「へっ、偉そうな口を叩きやがって。いいから締めろ! 数値さえ正常ならそれでいいんだよ。どうせ次の定期点検まで持ちゃあいいんだ」
「……その点検をサボってるから、こうなってるんだろうが」
俺は小声で毒づき、再びレンチに体重をかけた。 ガントのような連中は、機械をただの「数字が出る箱」だと思っている。だが、俺は違う。靴底を通して伝わってくる、微細な振動。配管の奥から響く、不規則な唸り声。俺には、この巨大な機械が「苦しい、助けてくれ」と悲鳴を上げているのが聞こえる気がした。
「(……ピッチがズレてる。第三燃焼室の燃料混合比がおかしいな)」
エンジニアとしての耳が、違和感を捉えていた。 この世界『アルカディア』は、教会が説くような「神の奇跡」や「祈りの力」で浮いているわけじゃない。 実態はもっと物理的で、泥臭く、そして今にも壊れそうな代物だ。古代の遺物である重力制御機関『フロート・ドライブ』。地上の星から吸い上げたエネルギーを重力波に変換し、無理やりこの巨大な岩塊を空中に固定している。俺たち下層民は、その悲鳴を上げ続ける老朽化したエンジンの、煤払いをさせられている「人足」に過ぎない。
ギギギ、と嫌な音がして、ようやく錆びついたナットが回った。俺は素早くバイパス管を接続し、圧力計を確認する。針が危険域の赤から、正常値の緑へと戻っていく。配管の振動が、少しだけ穏やかになった気がした。
「よし、いい子だ」
俺は熱い配管をポンと叩いた。
「おい若造、油売ってんじゃねえぞ」
横合いから声をかけられ、俺は振り返った。隣のエリアで作業していたベテラン工員のバッツ爺さんだ。顔中の皺に油が染み込み、まるで古木のような顔をしている。この道四十年、竜骨街の生き字引みたいな人だ。
「終わりましたよ、バッツさん。そっちは?」
「ああ、なんとかな。……だが、見てみな」
バッツ爺さんは、顎で配管の接合部をしゃくった。そこからは、微かだが青白い蒸気が漏れ続けている。
「パッキンがもう限界だ。交換パーツを申請したが、上からは『在庫なし』の一点張りだ。応急処置でふさいだが、いつまで持つやら」
「またですか……。上の連中、予算を全部『聖誕祭』の飾りにでも使ってるんじゃないですか?」
「滅多なことを言うもんじゃねえよ、ライル」
爺さんは声を潜め、濁った目で俺を見た。
「今日はお偉い『聖騎士様』の巡回日だ。余計な口を叩けば、親父さんみたいに連れていかれるぞ」
親父。その言葉が出た瞬間、俺の胸の奥がチクリと痛んだ。 俺は無言で頷き、道具をまとめた。
正午を告げる鐘が鳴った。上層の聖堂から響く、美しくも無機質な音色。それが唯一、この世界で平等に与えられる時報だった。作業員たちが一斉に工具を置き、休憩場所へと向かう。俺も足場をよじ登り、少しだけ視界が開けた搬入デッキへと移動した。
そこは作業員たちの溜まり場になっていた。ドラム缶をテーブル代わりにして、男たちが賭けカードをしたり、安酒を回し飲みしたりしている。空気は紫煙と汗の匂いで淀んでいるが、ここが唯一、監視の目が届かない安息の地だ。 俺はデッキの端、誰もいない場所に腰を下ろし、配給された真空パックの昼食を開けた。 中身は、灰色のブロック状の固形物。パッケージには『完全栄養食・バニラ風味』と書かれているが、実際の味は「湿気たチョーク」か「消しゴム」に近い。
「……味気ねえな、今日も」
俺はそれをペットボトルのぬるい水で流し込みながら、溜息をついた。この世界には「本物」がない。 食い物はすべてプラントで培養された合成品。肉も野菜も、形を模しただけのタンパク質の塊だ。果物なんて、上層の貴族様しか口にできない高級品だ。本物の牛や豚なんて、図鑑の中でしか見たことがない。娯楽は教会が検閲した聖典劇のみ。誰もが、死なないためだけに生きている。管理された安全、去勢された平和。
俺はふと、胸ポケットから一枚の写真を取り出した。ラミネート加工された、角が擦り切れて色褪せた写真。写っているのは、巨大な歯車の前で、幼い俺を肩車している背の高い男――親父だ。油汚れのついた作業着で、白い歯を見せて笑っている。俺がエンジニアとして働いているのは、この親父の影響だ。機械油の匂いと、鉄の手触り。それが俺の子守唄だった。
『ライル、よく見ろ。あの空は偽物だ』
親父の声が、脳裏に蘇る。あれは俺が十歳の誕生日だったか。親父は俺を連れて、立ち入り禁止の上層区画の展望台へ忍び込んだ。そこで見た景色を、俺は一生忘れないだろう。見渡す限りの青空。雲一つない、完璧な蒼穹。当時の俺は感動して声を上げたが、親父はそれを冷めた目で見つめ、指さした。
『あそこには、本当の星があるんだ。宝石なんかよりずっと綺麗で、無限に広がる宇宙がある。……教会はそれを隠すために、空に蓋をしたんだよ』
『俺たちの世界は、鳥籠なんだ』
親父は天才的なエンジニアだった。だが、その才能ゆえに、世界の「構造上の欠陥」に気づいてしまった。五年前、親父は忽然と姿を消した。聖騎士団は「事故」だと言ったが、誰も死体を見ていない。遺品として渡されたのは、この写真と、錆びついた巨大なモンキーレンチだけ。街の噂では、親父は「見てはいけないもの」を見たせいで消されたのだと言われている。異端者の息子。それが、俺につけられたレッテルだった。
「よう、ライル。また親父さんの写真か?」
声をかけられ、俺は慌てて写真を隠した。同僚のジャンだ。歳は俺と同じくらいだが、既に前歯が二本ない。ギャンブル狂で、いつも借金取りに追われている。
「お前も飽きないねえ。死んだ人間のことより、今夜の飯のことでも考えろよ。……そうだ、今夜『赤猫亭』で新しい密造酒が入るらしいぜ。一杯どうだ?」
「やめとくよ。金がない」
「つれないねえ。またあのガラクタいじりか?『空飛ぶ機械』だっけ? 本気で飛べると思ってんのかよ」
ジャンは呆れたように肩をすくめた。
「悪いな。趣味なんだよ」
「趣味ねえ。……ま、バレないようにしろよ。最近、騎士団の連中がピリピリしてるからな」
ジャンはそう言って、仲間の方へ戻っていった。 俺は残りの固形食を口に放り込み、立ち上がった。 ジャンたちの生き方が悪いわけじゃない。
ここでは「何も考えず、その日暮らしをする」のが一番賢い生き方なのだ。夢なんてものは、この街では重荷にしかならない。だけど、俺は捨てられなかった。親父が遺した設計図と、「本当の空」への渇望だけは。
午後の作業が始まった。俺は再び命綱をつけ、虚空へと身を乗り出す。
その時、上空から轟音が響いた。俺たちは一斉に手を止め、空を見上げた。雲海を切り裂いて、純白の船体が現れる。聖騎士団の巡回艇だ。流線型の美しいフォルムは、この薄汚れた竜骨街には似つかわしくない。船体の側面には、剣と盾を模した教会の紋章が輝いている。
「チッ、お出ましかよ」
バッツ爺さんが足元に唾を吐いた。
巡回艇は、俺たちの頭上を威圧するように低空飛行で通り過ぎていく。デッキに立つ騎士たちの姿が見えた。彼らは地上を見下ろしていたが、その視線は俺たちを見ていない。まるで、道端の石ころを見るような、無関心な目だ。
俺はその白い船体を睨みつけた。あの中に、親父を連れ去った奴らがいるかもしれない。俺の握るレンチが、ギリリと音を立てた。無力感。それが俺の日常だ。だが、今に見ていろ。俺は必ず作り上げる。奴らの船よりも高く、速く飛ぶ翼を。
夕刻。終業のベルが鳴り、俺は作業着のまま街へと繰り出した。竜骨街の夜は早い。路地裏には屋台が並び、怪しげなネオンサインが灯り始める。蒸気パイプから漏れる白煙の中を、労働者たちが肩を怒らせて歩いていく。どこかから、安い酒の匂いと、嬌声、そして怒鳴り声が聞こえてくる。
「おい若いの、いいジャンクが入ったぞ!」
「新鮮なネズミの串焼きだよ! 精がつくぞ!」
客引きの声を無視して、俺はいつものルートを歩く。 目指すのは、居住区ではなく、廃棄区画の奥にある俺のガレージだ。だがその前に、寄らなければならない場所があった。
街外れの薄暗い路地裏。
看板もない、小さな雑貨屋。
店主は片目の老婆で、この街の「裏の流通」を取り仕切っている顔役の一人だ。
「バアさん、例のブツ、入ってるか?」
俺がカウンターにコインを置くと、老婆はニヤリと笑い、カウンターの下から小さな木箱を取り出した。 蓋を開けると、そこには赤い果実が一つ、鎮座していた。
リンゴだ。それも、合成品じゃない。本物の、土で育ったリンゴ。表面には小さな傷があり、形も不揃いだ。だが、そこからは強烈な生命の香りが漂っていた。
「上層の厨房から横流しされたもんだ。傷モノだがね、味は保証するよ」
「……助かるよ。これがないと、誕生日が始まらない」
俺は震える手でリンゴを受け取った。
この一個で、俺の給料の半分が消えた。馬鹿げた散財だ。ジャンが見たら腹を抱えて笑うだろう。
だが、これは俺にとっての「抵抗」だった。
偽物だらけの世界で、本物を手に入れること。それが、俺がまだ死んでいないという証明だった。
リンゴを大事にポケットにしまい、俺は店を出た。 外気は冷たくなっていた。俺は足早に、廃棄区画へと向かった。錆びついた鉄扉の向こう、俺の城へ。そこで待っているのは、未完成の翼と、孤独な夜だ。そう思っていた。あの時までは。
ガレージに近づいた時、俺は異変に気付いた。いつもなら聞こえるはずの、空調ファンの音が止まっている。そして、空気が震えていた。耳鳴りではない。大気そのものが悲鳴を上げているような、不快な高周波のノイズ。
「……なんだ?」
俺は空を見上げた。
竜骨街の隙間から見える、わずかな夕暮れの空。そこが、バグっていた。美しい茜色が、テレビの砂嵐のように激しく明滅し、黒い格子状の線が剥き出しになっている。
「嘘だろ……」
そして次の瞬間。世界が割れる音がした。
俺の日常が終わりを告げ、運命の歯車が狂った音を立てて回り始めた瞬間だった。空の裂け目から、一人の少女が堕ちてくる。機械仕掛けのこの世界に、心を持った天使が舞い降りたのだ。
俺は整備中だったバイクにまたがり、スロットルを回した。エンジンが咆哮を上げ、排気管から青い炎が噴き出す。理屈なんて後回しだ。誰かが空から堕ちてくる。それだけで、俺が走る理由は十分だった。廃棄区画のフェンスを蹴破り、俺は落下地点である第七区画外縁の人工林へと突っ込んだ。
現場まではバイクで十分ほどの距離だったが、到着した時の光景は凄惨だった。鬱蒼と茂っていた金属加工樹の木々が、何本もなぎ倒されている。地面には直径十メートルほどのクレーターが穿たれ、焦げ臭い煙がもうもうと立ち込めていた。
「おい! 生きてるか!?」
俺はバイクのライトをハイビームにし、土手を滑り降りた。クレーターの中心。泥と土埃にまみれたその場所に、彼女はいた。
少女だった。年齢は俺と同じ、十六、七くらいだろうか。胎児のように丸まり、震えている。月光を編んだような銀色の髪が、泥にまみれて散らばっている。身に纏っているのは、白い薄布一枚。まるで病院の検査着のような、飾り気のない衣服だ。その隙間から覗く手足は陶器のように白く、こんな瓦礫と廃油だらけの世界には似つかわしくない、人間離れした美しさを持っていた。
俺は息を呑んで近づいた。死んでいるのか?これほどの高さから落ちて、無事なはずがない。即死どころか、原形を留めていること自体が奇跡だ。俺は震える手で、彼女の肩に触れた。
「……ん……」
微かな吐息。彼女の瞼が震え、ゆっくりと開かれた。ライトの逆光を受けて輝いたのは、ガラス玉のように透き通った、淡い碧色の瞳だった。
彼女はぼんやりとした視線で俺を見上げ、何度か瞬きをした。
「……だれ?」
鈴を転がすような、美しい声。だが、まるで生まれたての赤ん坊のように頼りない。
「俺はライルだ。……あんた、空から落ちてきたんだぞ。立てるか?」
彼女はゆっくりと体を起こし、自分の手を見つめた。俺は目を疑った。彼女の体には、擦り傷ひとつなかったのだ。あの薄い衣服さえも破れていない。数百メートル上空から墜落して、無傷? ありえない。 人間じゃないのか? それとも、地面がクッションになったのか? だが、触れた肩の感触は柔らかく、確かな体温があった。
「……空?」
彼女はキョトンとして、夜空の亀裂を見上げた。黒い空に走る、醜いノイズの傷跡。
「ああ、あそこから落ちたんだ。覚えてないのか?」
「……落ちた?」
彼女は首を傾げた。
「わからない。……私、なにもない場所にいたの。そうしたら急に、目の前が真っ白になって……気づいたら、ここにいた」
記憶喪失か、それともショックで混乱しているのか。彼女は自分の状況すら理解していないようだ。ただ、自分が独りぼっちで、知らない場所に放り出されたという不安だけが、その瞳に滲んでいた。
彼女の首元で、金属製のチョーカーが冷たく光った。そこには『 S-I-P-L-E -00 』という文字が刻まれている。
「シープル……?」
俺が読み上げると、彼女は頷いた。
「うん。それが私の名前。……シープル」
「名前……それだけか? 家は? 家族は?」
彼女は首を振った。銀色の髪がサラサラと揺れる。
「わからない。……私には、何もない」
その言葉があまりに寂しげで、俺はかける言葉を失った。 空から降ってきた、記憶のない少女。普通なら関わるべきじゃない。だが、この危険な最下層に彼女を置き去りにすることなんて、俺にはできなかった。
その時、遠くからサイレンの音が聞こえた。甲高い警告音。聖騎士団の巡回艇だ。空の異変を感知して飛んできたのだろう。ここに見つかれば、「不法投棄物」として処分されるか、もっと酷い目に遭うか。上層の連中は、美しいものをオモチャにするのが好きだからな。
「やつらが来る。俺のガレージへ行くぞ」
「ガレージ?」
「俺の家だ。こんなところにいたら、悪い奴らに捕まる」
俺は着ていた作業用の上着を脱いで彼女に着せた。夜風は冷たい。彼女の華奢な肩が、少しだけ震えていたからだ。ブカブカの上着に包まれた彼女は、さらに小さく見えた。
俺は彼女をバイクの後ろに乗せ、アクセルを回した。
「落ちないように、しっかり掴まってろよ」
「うん」
彼女の細い腕が、ぎこちなく俺の腰に回される。 その背中に感じる体温は、驚くほど温かかった。不思議な頑丈さ。でも、触れた感覚は間違いなく人間だ。鼓動の音が、背中越しに伝わってくる気がした。
俺はこの時、彼女が背負っている運命の重さを、まだ何も知らなかった。ただ、この震える迷子を放っておけないという、お節介な直感だけがあった。




