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「レイ、前!」
思いがけないローユンの声に、月葉が足を止め、ハッと振り向く。
千代紙作りの箱が目の前に迫っていた。
金銀を使った華麗で手の込んだ細工の箱だったが、そんなことを、目で見て理解している間などなかった。
わけがわからないまま、月葉はなにかとぶつかった。
「わっ!」
「ウキャッ!」
同時に二つの叫びがあがる。
ぶつかってきたのはレイだった。
両手で箱をつかんで飛んできたのだが、なにしろ腕が短い。
箱で前方が全然見えていなかった。
千代紙細工の箱は眞鳥からの戦利品である。
ローユンにくっついて眞鳥の部屋に行き、めざとく見付けた和菓子の箱を、いちゃもんをつけてぶんどってきたのだ。
階段の手摺りのおかげで、月葉は転倒を免れた。
跳ね返されたレイは、宙で二回転ひっくり返る。
その拍子に箱から手を放してしまう。
箱が放り上げられ、フタが外れる。
凝った包装の一口羊羹が宙に散り、バラバラと床へ落ちた。
ひそかに眞鳥が買い置いた、これも老舗の逸品である。
「あっ、ボクの羊羹」
体勢を立て直したレイが床へ飛び下り、慌てて羊羹を拾い集めにかかる。
それを見て、ようやく月葉はことの顛末を理解した。
「ぼやぼやしてないで、おまえも手伝え」
「はい、はい」
貴奈津なら怒鳴りつけるだろうが、月葉は素直に従う。
しゃがみ込み、床の羊羹へ手を伸ばす。
その手の先に、ローユンは膝を付いた。
月葉が顔を上げて見てみると、ローユンも手伝っていたらしい、羊羹を二、三個手にしている。
「ケガはなかったか、月葉?」
とは言うが、心配しているわけではない。
ローユンは笑っていた。
「見ればわかるだろう」
可愛げのない月葉の返事に、ローユンの笑みが微苦笑に変わる。
それでもの表情だけは暖かい。
「こいつは、なんで怒らないんだ?」
そんな疑問が、月葉の心に湧き上がる。
いくら嫌みな言いかたをしようと、非難がましい視線を向けようと、ローユンは月葉に対して、一度も不快感を表したことがない。
いつも無言で微笑むだけだ。
そして、今も。
だから月葉は目をそらした。
このときが、おそらく月葉の感情の限界だったのだ。
「これで全部だな、もう落ちていないな」
床を見回し、レイが点検する。
「じゃあ、ここに入れてくれ」
レイが箱を差し出す。
立ちあがって月葉とローユンが、拾い集めた羊羹を入れてやる。
一口羊羹は、全部で二十個くらいあった。
「よし、早く行こう。
もう貴奈津がお茶をいれてる頃だ。
お茶だお茶だー、羊羹だあっ」
「レイ、お茶菓子って、まさか羊羮だけじゃないよね?」
「知らない。
だけど羊羮だけじゃ困るのか?.」
「ちょっと」
「貴奈津はクッキーも用意していたようだが」
親切心で口をはさんだのはローユンだ。
それへ、即座に月葉が反応してしまう。
「あなたに聞いていないよ」
よほど月葉の目つきが悪かったのか、あるいは、ここまでの露骨な反撥は予想していなかったのか、さすがにローユンの微笑が消えた。
軽い驚きを浮かべて月葉を見返す。
「……月葉、最近のきみはおかしいな」
「なんだって」
「なにか、とても危うい感じがするのだが」
からかっているのでも、咎めているのでもなかった。
真剣だけれど、声音と目差しは、やはり優しい。
「……」
ローユンはいつもそうなのだ。
素晴らしく強靱な精神を持ちながら、いや、強い心を持つからこそ、彼はあくまで優しいのだろう。
ぼくとは器が違うかな。
思いたくはないが、そう月葉は思ってしまう。
自尊心の強い月葉としては、ありがたくない認識だ。
「どうしたんだ、おまえたち」
レイが狼狽え気味に、二人を見る。
ローユンと月葉が睨み合っているように、レイには思えた。
少なくともローユンのほうは違うのだが、無言で真っ直ぐに視線を合わせていたのだから、そう見えても不思議はない。
「レイ、先に行ってくれ。
わたしもすぐに行くから」
「そ、そうか?」
ローユンの言葉に、レイが飛びつく。
険悪とまではいかないが、こういう雰囲気がレイは苦手だ。
そろりそろりと宙を後退る。
「じゃあな、早く来いよ」
言うと同時に反転して、すごい速度で飛び去っていく。
チラリとレイを見送って、ローユンがまた月葉に視線を戻す。
「月葉、わたしたちにはもう時間がない」
この機会に、少しでも月葉と話しあっておこうと、ローユンは決めた。
月葉の感情はいずれ時間が解決するものと信じて疑わず、鷹揚に構えていたのだが、ここへ来ては、そうも言っていられない。
「きみはわたしを、快く思っていないようだが」
「……どうかな」
「わたしを好きになれとは言わない。
しかし、せめてわたしを嫌うな、月葉。
わたしは心配なんだ」
「なにが」
「戦闘時にチームワークを欠くと、命にかかわる」
自分のことではない、ローユンは月葉の身を案じているのだ。
月葉にはそれが、直感的に理解できる。
だからこそ月葉は腹立たしい。
こいつは、どうしていつもこうなんだ。
いつも人の心配ばかりして、という、かなり理不尽な怒りだ。
「あなたは誤解しているみたいだから、はっきり言っておくけど、ぼくは異世界宮殿戦には協力する。
現に今までも、一緒にやってきただろう?」
「感謝している」
「お礼なんかいらない。
別にあなたのためじゃないからね」
「そのとおりだが、しかし」
「うるさい!
もう、ほっといてくれ!」
ついに月葉が大声を出す。
その声にかぶって、疾走する足音が階下から聞こえた。
月葉とローユンが同時に振り向く。
「やめて、二人ともやめるのよ!」
パタパタと階段をかけ登り、貴奈津が二人の前に飛び込んできた。
そのあまりの勢いに、ローユンと月葉が唖然となる。
貴奈津はいきなり月葉に飛びついた。
「だめよ月葉、ケンカしちゃだめ!」
背後から月葉の両腕を力任せに抑え込む。
「なにするんだ、貴奈津。
痛いだろ、放してよ」
「だめっ!
放したらまたローユンとケンカするでしょ!」
「なにもしてない、なにも」
「うそ!」
「痛っ!
ほんとに痛いぞ、貴奈津。
やめろって」
その気になれば、貴奈津はかなりの腕力を発揮することができる。
それは月葉も同様だが、危ないので抵抗しないだけだ。
「貴奈津、月葉を放してやってくれ。
きみは勘違いをしていると思う。
わたしと月葉は、別にけんかをしていたわけではない」
「え?」
ローユンの言葉に、貴奈津がやや冷静さを取りもどす。
「あれっ?」
言われて見てみれば、ローユンも月葉もなんともなっていないではないか。
二人が本気でケンカなどしたら、お互い無事にはすまないはずだ。
そう思ったから、あわてて飛んできたのに。
「でも、二人が大ゲンカしてるって、レイが知らせて……だから、わたし」
階段の手すりの陰から、レイが顔を覗かせる。
貴奈津の後を付いてきたのだ。
側まで来る根性はないらしく、階段の下方から恐る恐る見上げている。
「違ったのか?」
「全然違うじゃないの。
あんたはまた、いいかげんなことを」
貴奈津が抑えていた月葉を放してやる。
月葉が大きく息をつく。
じっさい、かなり痛かったのだ。
「真に受ける貴奈津も貴奈津だよ」
「ごめん。
よく考えてみれば、そうよね。
ローユンがケンカなんかするわけないもんね。
アハハ……」
腕をさすっていた月葉が、ピクリと顔をあげる。
「ローユンが、っていうのは、なんなんだよ」
「え?
いやー、そのぅ。
だって月葉はケンカッ早いから」
「ふーん、そう。
要するに、ぼくを信用していないんだな。
そういえば、いきなりぼくを抑え付けたりして」
「それは……手を出すのは、月葉のほうだと思ったから」
「ローユンの心配はしても、ぼくの心配はしないわけ?」
「月葉、ケンカ強いじゃない」
「相手が並の人間ならね。
だけど、こいつは」
視線は貴奈津に向けたまま、手をあげてローユンを指差す。
「とてもじゃないけど、並じゃないんだ。
ぼくがやられてたかもしれないじゃないか。
なのに、ぼくを庇ってあげようとか、そういうことは考えないんだ」
「こいつ、って言いかたはよくないわよ、月葉。
それに、ローユンはむやみに暴力ふるったりしないわ。
知ってるでしょ、月葉だって」
「どうせぼくは暴力的だよ」
貴奈津が軽く眉をよせる。
「なに、つっかかってるの。ちょっとおかしいわよ、月葉。なにかあったの?」
「よけいなお世話だ。
ぼくのことなんか、気にしないでくれ!」
語気の鋭さに、貴奈津が驚く。
貴奈津に対して、月葉がここまで反抗的なのは、滅多にあることではない。
「わたし、なんか気にさわること言ったかな?」
「別に」
月葉はわりあい、このように投げやりな言いかたをするのだが、今回のは特にひどかった。
声に余裕がまるでない。
相手を怒らせようという意図なら、その効果は抜群だ。
貴奈津がきっちり影響される。
「なによ、その態度!」
「文句ある?」
「大ありよっ!」
貴奈津の怒鳴り声に、手すりに隠れてレイが首を竦める。
その後ろで、いつのまに来たのか、イーライが壁にもたれていた。
普段なら仲裁に入るイーライは、なぜか黙って見物している。
いつもの口げんかとは、様子が違う。
貴奈津と月葉のすぐ前にいて、ローユンもそれは感じた。
しかし、割って入ることには躊躇する。
貴奈津にはまだしも、月葉には逆効果になりかねないからだ。
先程までの月葉とのやりとりは、決して友好的とは言いがたかった。
ローユンが持て余し、イーライが傍観しているために、貴奈津と月葉の間が緊張してしまう。
レイはもとから役に立たない。
「人が心配してあげてるのに、別に、ってなによ。
そんな答えで、わたしが納得するとでも思ってるの」
「貴奈津なんかに納得してもらわなくていい。
どうせ貴奈津には、なんにもわかっちゃいないんだ」
「月葉!
いいかげんにしないと怒るわよ」
この科白は少しおかしい。
貴奈津はとっくに怒っていたから。
続く……




