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軋みが生じ、大気が鳴った。
音が物理的な衝撃をともなって地表を叩く。
それが最初の天変であった。
東京上空に異界の揺らぎが発生したのだ。
揺らぎは三次元的な厚みを持って、東京都内を包みこむ。
空間が歪んだ。
都民は例外なく激しい異常感覚に襲われた。
視覚が聴覚が、平衡感覚が失調する。
空に閃光が走り、ついで暗転する。
その空が発光した。
太陽はまだ天の東にあったのに、光景は夜の稲妻を思わせる。
まったく別の空間が、東京上空に割り入ったのだ。
間欠的に閃く光の中に、異世界宮殿のシルエットが浮かび上がる。
そしてついに異世界宮殿は、今度こそ実体として東京上空に出現した。
異世界宮殿の実体化とともに、空が発光を収め異界の揺らぎが収束する。
人々がようやく異常感覚から立ち直る。
しかし、そこで空を見上げて愕然とする。
半径四キロメートルほどもある巨大な人工の島が、東京上空に浮かんでいた。
東京近郊から遠望すれば、建ち並ぶ高層ビル群との比較で、その上に浮かぶ人工島が圧倒的な質量を有することがわかる。
その異様さに人々は立ち尽くし絶句した。
為す術もなく呆然と見つめたわけだが、それは遠くから眺めた人々の反応であって、渋谷を中心とした、およそ半径四キロメートル圏内、新宿副都心を含む、杉並、世田谷、四谷、赤坂あたりまでの、異世界宮殿直下になった一帯の都民は、呆然とするより先に恐慌に陥った。
宇宙の円筒型コロニーの中に立って上を見ると、そこに空はなく、逆さになった地表と街並みがある。
異世界宮殿直下から見上げた感覚はそれに似ていた。
だが、ここは宇宙でもなければコロニーの中でもなく、大都市東京なのだ。
異世界宮殿の底部が、地上の超層ビルに接するばかりに見える。
じっさいにはかなりの距離があるのだが、今にも押し潰されそうな、激しい圧迫感がそう思わせる。
これで逃げ出そうとしない人間は、まずいない。
いっせいに異世界宮殿直下から脱出をはかった都民は、そこでようやく、都市機能の要ともいうべき交通機関網が、まったく役に立たないことに気付いた。
動かないのである。
電車も地下鉄も車もバイクも、ありとあらゆる移動手段が、その機能を失っていた。
電気的システムが失調したのだ。
工場から家電まで、いっさいのメカニズムが停止していた。
都民は徒歩で異世界宮殿直下から逃れるしか方法がなかった。
もっとも、かえってそのことが、整然とした、結果として速やかな避難を可能にしたのだった。
わずか五時間という驚異的な早さで、百万人単位の都民は異世界宮殿直下から避難を完了した。
打ち捨てられ、人気のなくなった都心をローユンとイーライ、貴奈津と月葉、そして一人の異世界猫が眺めていた。
五人はたったいま、渋谷駅の近くに現れたところだ。
「街が薄暗いわ、まだ日が出ているはずなのに」
「異世界宮殿の影に入ってしまっているからね」
「空に蓋をされちゃったみたいだな」
渋谷を中心にして、半径四、五キロメートルの円内が、今は無人の街と化している。
そして地上から、あらゆる生活音が消えていた。
貴奈津が呆然とした面持ちで街を見回す。
足下に小さくビシッという音を聞き、貴奈津がハッと足を浮かせる。
靴がプラスチック片を踏みつけたのだ。
いつもなら雑踏にまぎれて、けっして聞こえるはずのない音だった。
「信じられる?
ここ東京よ、東京のしかも繁華街よ。
なのに静まりかえっている」
店舗の照明もネオンサインも消えている。
非常灯も役には立たない。
暗い夜など経験したことのない街が、日中なのに暗いのだ。
明かりの一つもない街は、普段が華やかなだけに、なんとなくみすぼらしく見えた。
貴奈津の前に浮かんで、レイが腕組みをした。
「電気的エネルギーが消え去ったんだ。
上に異世界宮殿が居座っているせいだと思うぞ。
電磁波障害が発生しているみたいだな」
「メカニズムが停止したのはそのためか」
わきを通りすぎながら、イーライが車のルーフをポンと叩く。
瞬時に失調して動かなくなったものだろう。
道路は乗り捨てられた車でふさがれていた。
コンピュータが沈黙したのである。
コンピュータを組みこんでいない機器など、ないといっていい。
車も同じことだ。
動いているものは、なにもなかった。
「電子機器がただのガラクタだ。
こうなったら都市は壊滅したと同じだぞ。
機械文明の弱点はここなんだ」
破壊はされなくても、都市が人の生活する場所として機能しない。
都市はエネルギーなしには存続しえない。
だが、異世界宮殿の影から離れさえすれば、その影響はないに等しかった。
周辺では多少の障害はあったものの、死の街を一歩出れば、そこにはいつものような日常が機能している。
「ちょっとレイ」
二歩走って、貴奈津がレイのオーバーオールをつかんだ。
「電磁波障害ということはよ、あんたの身につけているコンピュータとかは、大丈夫なの。
それ、電子機器でしょ?」
「ふふん、心配いらない。
前に異世界宮殿の中に入ったときにな、電磁波ノイズを感じたからな、次は影響を受けないようにと、とっくの昔に電磁環境耐性は改良ずみだ」
「電磁環境た、た……なんですって?」
「説明してやってもいいけど、おまえにわかるか?
量子力学の分野だけどな」
「りょ、りょうし……魚とる人?」
「それは漁師だ、バカめ」
音の消えた渋谷の繁華街である。
貴奈津とレイの声が、無人のビル街にこだまする。
聞いていたローユンが、低い笑いをもらした。
それを月葉が横目で見る。
「余裕だねえ、笑っている場合じゃないと思うけどね、ぼくは」
月葉はここへ来るまで、終始無言だった。
ようやくの、第一声がこれである。
声に不快感が漂う。
実体として現れた異世界宮殿に、月葉は強い怒りを感じていた。
言葉にトゲがあるのは、その余波でもある。
最大の理由は違っていたが。
ローユンは苦笑してなにも言わない。
このへんがローユンの強くて性格のよいところで、険のある部分も含めてまるごと、月葉という人間を受け入れているのだ。
しかし、月葉の態度に、貴奈津は驚いて振り向く。
「どうしたのよ、なにを怒ってるのよ、月葉」
「別に。
ただ、こうなってしまう前に、なんとかならなかったのかなあ、と思ってね」
先頭を飛んでいたレイが、ピクリと停止した。
もしかして、非難されているのはボク? という、情けない顔で振り返る。
「つ、つまり、システムが思ったより疲弊していて、それで、ローユンはシールドを抑えるって言ったんだけど、でも命が危なかったから」
「レイのせいではない、不可抗力だった」
言いわけするレイをローユンがかばう。
それがよけい月葉の気には入らない。
「レイだけを責めていないよ。
あなたも一緒だっただろう。
あんがい、あなたも役に立たないんだな」
答えるのをローユンは躊躇した。
その間隙に貴奈津が割りこむ。
「ちょっと月葉。
その言いかたって、すごーくいやみだと思うわよ」
ローユンが躊躇ったのは、月葉の感情的な態度のわけに、思い当たることがあったからだ。
今朝のことを根に持っているのか。
とすれば、どう答えようと月葉は反発するに違いない。
なにしろ、理屈ではないのだから。
「いやみに聞こえるかな?」
咎められ月葉がとぼける。
簡単には反省できない気分らしい。
「聞こえるわよ。
あのね、あのときは、誰にもどうしようもなかったんだから。
地面が消えていくのよ、地平線が真っ黒な中に溶けていくのよ。
闇そのものみたいなのが、全方向から迫ってきて、その恐ろしいことといったらないのよ。
もう逃げるしかないじゃないの。
月葉だってあの場にいて、同じものを見たら、どうしようもなかったってわかるわよ」
貴奈津の抗議を最後まで聞いて、月葉がわざとらしく視線をそらす。
「そうかもね。
誘われたら、ぼくもいっしょに行ったんだけど」
かなり低レベルの僻みである。
「なにそれ。
どういう意味よ!」
聞き咎める貴奈津の肩を、後ろからポンとイーライが叩く。
「抑えて、抑えて。
それよりも当初の目的を、まず片づけよう」
「イーライがそう言うんなら……いいわ」
貴奈津が引き下がる。
確かに、姉弟ゲンカをしている場合ではないのだ。
ここへ来た目的は、ほかにある。
異世界宮殿が実体化した直後、レイは異世界宮殿の周囲に、ただちに自動監視網を張り巡らした。
なにはさておいても、必要な手配である。
魔獣が群をなして飛び出してきたら、あまり想像したくない人数がエサになってしまう。
直下はすでに無人でも、周囲は世界有数の過密都市、東京なのだ。
その監視網に引っかかったものがある。
何者かが、異世界宮殿から地上へ降りてきていた。
善後策の検討は後回しにして、レイたちはとりあえず、その何者かを叩きに来たのだった。
山手線の高架に、途中で止まっている電車が見える。
高架の左をレイが指さす。
「あっちだ、近いぞ。
絶対逃がすわけにはいかないんだから、ここらで散開して包囲したらどうかな」
ローユンが首を振る。
「砂漠や林間ならまだしも、ここではだめだ。
ビルの間に隠れてしまっては、お互いの行動がつかめない」
「そうか、そうだった」
背後からいきなり衝撃波を撃たれたりすると、避けることができない。
ローユンたちにはマイクロチップがつけてあり、レイは彼らの位置だけは掴むことが出来る。
しかし、なにを考えているかはわからない。
じつは、本来マイクロチップは通信に使うものだ。
多少の訓練はいるが、思考をパルス信号に変えて送受信ができる。
レイが身につけているコンピュータとのやり取りも、マイクロチップ回線で行われている。
だが、システムが地球人には対応しないのである。
「テレパシストも陣営に加えとけばよかったかな」
ビルの間を飛びながら、レイが呟く。
しかし、いまさらどうにもならない。
首都高速道路の高架をくぐると、奥のビルとビルのあいだから、ぼんやりと白い光がもれていた。
「道玄坂のあたりか」
強い光ではないが、薄暗い中なのではっきり見える。
京王帝都井の頭線の向こう、渋谷駅前、距離およそ二百メートル、ショッピングビル、レストランなどの建ち並ぶ、まさに繁華街の中心区域である。
霧のような光は、漂うが如く、ふんわりと移動していた。
五人が誰ともなく、顔を見合わせる。
「これは……」
「ジェーロの波調だな」




