79
階段を足音荒く登りながら、平然としたイーライが、少し遅れて後に続く。
「なにをそんなに怒っているの、月葉」
「ふざけるな!」
足を止め、月葉は背後を睨み付けた。
「お父さんの前で、いや、誰の前でも同じだけど、二度とあんなことを言ったら許さないからな」
「あんなことって?」
「……この野郎」
蹴りでも入れたいところだが、それができない。
イーライはレイを両手で抱いており、月葉が近付くと、レイを持ちあげて盾にしていた。
「可愛い顔をして、品のない言葉使いはしないようにね。
イメージが崩れる」
「あなたのイメージなんか知ったことか!」
吐き捨てて背を向ける。
階段を登りきり、月葉が自室のドアを開けるまで、イーライは黙って後から付いていった。
彼がこういうときは当然、なにかろくでもないことを考えているわけである。
ドアの前で、イーライはレイを差し出した。
「はい、どうぞ。
月葉に返すよ」
無言でレイを引ったくり、月葉がドアを閉めようとする。
すかさずイーライの手が伸びて、ドアを抑えた。
「待って、月葉」
さっと月葉は目を逸らし、ドアノブを掴んだ手に力を込めた。
無視するに限るのだ。
「悪かった、あやまるよ。
だから……」
訴えるのでも、すがるのでもない、ただ静かに優しいイーライの声なのだった。
顔を背けたまま、心のなかで月葉は舌打ちをする。
この声に弱いな、と思う。
自分がではない、自分の中のスゥーディがだ。
「わかった、わかったから、ドアをはなしなよイーライ」
溜め息混じりに顔を戻す。
イーライは長身である。
まだ少年の月葉よりだいぶ背が高い。
ドアを挟んで至近のこともあって、月葉は明るい茶色の瞳を見上げる形になった。
目差しが暖かく、イーライは微笑していた。
いきなりドアが力いっぱい閉じられる。
目の前で上がった大きな音に、イーライは思わず身を引いた。
一人廊下へとり残されたイーライは、しばし無言でドアを眺めていた。
やがて、諦めたのかその場を離れる。
階下へおりていくイーライは、小さく笑いを漏らしていた。
「なぜ、こんなことになるんだ!」
ドアを閉め、ついでにしっかり鍵もかけ、そのドアに背をつけて月葉は歯噛みしていた。
床に取り落とされたレイが、首を傾げて月葉を見上げる。
片手で後ろ手にドアを抑え、もう片手で顔をおおう。
その手が震える。
顔に朱が差しているのが自分でもわかる。
「まったく腹が立つ、あの多重人格男め」
ときとして圧倒的に厳しく真剣で、そのくせいつもは軽薄でいやみ。
なのに、ふと別人のように優しくて暖かい。
そのイーライに、思わず見とれてしまった自分が、月葉は激しく腹立たしいのである。
しかもそれが、スゥーディの思いによるものか、自分の感情によるものか、判断不能だというのが情けない。
「おい、大丈夫か?」
レイが立ち上がって、月葉のひざをつついた。
「ああ、うん」
深い呼吸を二、三度してから、月葉が肯く。
「大丈夫だよ、レイ。
別になんてことないんだ」
「そうかあ?」
落ちつきを取り戻し、月葉はレイを抱き上げた。
「ジュースでも飲む?」
「飲む、飲む」
冷蔵庫の中をのぞくと、リンゴとオレンジのパックがあった。
「どっちにする?」
「うーん……オレンジ!」
ベッドに寝転んだ月葉の横で、レイがパックをかかえてストローをくわえる。
猫とは違うのだが猫に似たレイの口の構造で、どうして器用にストローで吸えるのか、横目で観察して月葉は不思議に思った。
「おいしいな、これは国産ものだな」
「オレンジに国産はない。
日本ではすべて輸入に依存している」
「なんだ、そうか」
朝食後は月葉にまとわりついて過ごすのが、最近のレイの日課だ。
月葉がスクールヘ行かないで家にいるようになったからで、貴奈津の代わりに、人身御供になった観がある。
レイがなにをしようと、月葉はまず怒らない。
勉強中に肩に飛び乗られても、食べかけのお菓子を横取りされても、ケンカになることなどなかった。
貴奈津のようにすぐ腕力に訴えてくる相手も、レイとしてはあきないでよいのだが、月葉に甘やかされているのも居心地がよい。
チュウウーと音をたて、レイがジュースを飲み干した。
ふわりと飛んでいき、空のパックをごみ箱に捨てると、また戻ってきて今度は、仰向けに寝た月葉の上に舞いおりた。
体を伸ばして月葉の上にうつ伏せに寝転がり、月葉の胸で頬杖をついた。
頭のわりに手が短いので、頬杖をついた価値はあまりない。
「レイ、ちょっと重い」
「軟弱なことを言うな」
「しかし……」
「おまえ、どうしてイーライとケンカばっかりするんだ?」
「ええ?
いきなり、なにそれ」
「昔はあんなに仲がよかったのにな」
「過去は振り返らない主義だ」
「意味がわからん」
月葉は頭の下にしいた手を組み直した。
「彼がぼくを怒らせるようなことをするからだよ」
「恋人同士って、そんなにケンカするものなのか?.」
その言葉が月葉の言語中枢で意味を成すまで、かなりの間があった。
「なに!」
頭を上げてレイを見る。
相変わらず屈託のない顔を、レイはしていた。
「なんだって、レイ。
恋人?
誰が恋人だって?」
「おまえ」
「ぼく?
ぼくが誰と?」
「イーライ」
「イーライがぼくとなんだって?」
「おまえ、そんなに頭が悪かったか?」
だって貴奈津がそう言ってたもん、とレイは説明した。
貴奈津は嬉しそうに、
「イーライと月葉は恋人同士なのよ、これって素敵なことだと思わない、レイ」
と言ったのだ。
「なにを根拠に……」
声にならない声で呟き、月葉は放心の態で天井を仰いだ。
貴奈津がそんな誤解をしているとは。
月葉にとって、このショックは大きい。
「おまえ、スゥーディの記憶、戻ったんだろう。
だったら昔みたいにみんなと仲良くしろ。
ボクには地球人の恋人とかっていうのはよくわからないけど、なんか特別に素敵なことみたいだな。
よかったじゃないか、月葉」
「よくない、勝手に話を作らないでくれ」
「いいじゃないか、少数派でも」
「は……?」
「普通、地球人の男の子ってのは、女の子と恋人になるんだろ。
だけどイーライは男だから、月葉は少数派ってことだよな」
「違うといっている……」
力無い月葉の抵抗は、レイの耳を素通りした。
「いつの時代でも、どんな社会でも、少数派ってのは大切だからな。
ボクも貴奈津と一緒に応援するぞ」
「なぜ、わかってくれない。
ぼくは、あんな男は好きじゃないんだ」
「じゃ、どんな男が好きなんだ?」
「ああ……」
月葉が深く嘆息して、両腕で顔をおおってしまう。
それきり月葉は沈黙し、レイがつついたり引っ張ったりしても、しばらくなんの反応も示さなかった。




