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食堂の椅子を引きながら、月葉は尋ねた。
「お父さん、貴奈津は?」
一人だけがいて、眞鳥家朝食の時間である。
しかし、貴奈津がいない。
月葉の向かいにはレイ一人だけがいて、特別製の卵五個入り目玉焼きを前に舌舐めずりをしていた。
ローユンの姿も見えないのだが、月葉にとって、それはどうでもいいことだ。
「用があるので早めに出かけると言っとった。
一時間ほど前だったか」
「朝ごはんも食べないで?」
「いや、自分で簡単にすませたようだ」
貴奈津が食事を抜くことなどありえない。
「珍しいな、貴奈津がそんなに早起きするなんて」
「あとでスクールヘ行かなきゃならんから」
「ああ、そうでしたね」
先日、貴奈津は自分のバイクを大破させてしまっていた。
バイクは貴奈津の唯一の足である。
そこで、新車をねだったのだが、眞鳥は無条件に甘い父親ではなかった。
新車が欲しければ、一ヶ月間真面目にスクールヘ通い続けること。
それが眞鳥の示しだった。
だからこのところ、貴奈津はせっせとスクールヘ通っている。
「もう食べていいか、眞鳥。
目玉焼きが冷めちゃうぞ」
レイがナイフとフォークを打ち合わせる。
「ああ、よろしい」
「いただきまーす」
許可を得て、レイが目玉焼きにとりかかる。
眞鳥家の食堂では、日本式のお行儀がいちおうの決まりだった。
イーライが、眞鳥とレイのカップに紅茶を注いで回る。
なぜかプロのウェイターのように手慣れているのが、イーライの謎の一つだ。
「あ、ありがとう」
自分のカップにも紅茶が注がれ、月葉は揺れる紅茶の色を見ながら礼を言った。
何事もないときなら、イーライに対して過剰反応を示すことはなくなった。
理由さえわかってしまえば、うろたえることはない。
ただし、以前にもまして警戒する必要は感じている。
イーライも席につき、フォークを取りあげた。
「貴奈津はね、自動追尾兼監視システムの調整に行ったんだよ」
「あの氷の神殿の?
ぼくにはそんなこと、一言も言ってなかったぞ」
レイがスープ皿から顔を上げる。
「だって、おまえはそういうことに、あんまり興味ないだろう?
だから声をかけなかったんだ」
何事にも協力的とは言いがたい月葉を、仲間外れにするというか、あまり当てにしな いという方向に、レイは傾いているようだった。
それもちょっと、おもしろくない月葉である。
「ふーん、別にいいけどさ」
「朝ごはんを食べたら、二人を迎えに行く約束だ」
「二人?」
「二人だろう?
ローユンと貴奈津だけだから、三人じゃないよな」
不意にテーブルを叩いて、月葉は立ち上がった。
「ちょっと待ってよ、レイ。
貴奈津はローユンと一緒なわけ?」
「決まっているじゃないか。
貴奈津が一人で行って、システムの調整が出来ると思うか」
「出来ない。
いや、問題はそんなことじゃなくて、あの世界は無人なんだぞ。
つまり、貴奈津とローユン、二人きりということじゃないか」
「だからどうだっていうんだ」
レイが片耳だけ後ろへ伏せる。
「チェッ、めんどうくさい」
と思ったときの仕草である。
二つ目の目玉焼きを早く口に入れたい。
イーライは片手で頬杖をつき「またか」という表情で、となりの月葉を見上げる。
もらした溜め息が、月葉の耳に入った。
「あなたは知っていたはずだよね、イーライ」
「それがどうかしたの?」
「なぜ、貴奈津が一緒に行くのを止めなかったんだ」
「止める必要がどこにある」
こう答えれば月葉は怒るであろう、とわかってはいるが、あるいは、わかっているからこそ、イーライはやめられない。
「男なんて、みんな狼なんだぞ!」
年頃の娘を心配する父親みたいな言いように、黙って聞いていた眞鳥が咳き込む。
イーライは浮かべていた笑みを引っ込めた。
驚いたのではなく、呆れたのだ。
「どうして、そういう発想をするのかねえ、きみは。
ローユンを信じられないの?
それとも、まだ……」
「イーライ!」
痛いところを突いてくるイーライに、月葉が思わず一歩を踏み出す。
危険を感じてイーライが腰を浮かせたところへ、眞鳥が止めに入った。
「月葉、月葉!
落ち着きなさい」
とにかく座れという眞鳥の手振りに、月葉はしぶしぶと従う。
それでもイーライを指差して非難するのは忘れない。
「だけど、悪いのはこいつですから」
「年長者に向かって、こいつ呼ばわりはなかろうと思うがね」
「じゃ、この男」
「月葉………」
「お父さんは貴奈津のことが心配じゃないわけ?」
眞鳥は大きなため息をついた。
「わたしはイーライくんと同意見だよ」
「お父さんはローユンに甘い、甘すぎる」
「彼に限って心配はないのではないかね。彼は稀にみる良識派だと、わたしは信じておるのだよ」
「わかるもんか!」
「月葉、いいかげんにしなさい」
ぴしりと眞鳥に言われ、さすがに月葉も口をつぐんだ。
かわりに猛然と料理の皿にとりかかり、カリカリに焼いたペーコンをいやに熱心に切りきざむ。
月葉は疎外感を覚えていた。
自分一人をのぞいて、みんながなんとなく纏まりかけているように思える。
眞鳥にしても、異世界宮殿戦の経緯について報告を受け、それで腑に落ちたのだろう、最近はイーライにも好意的である。
これまでは、イーライを一筋縄ではいかない、なにか問題をかかえたタイプである、と多少の警戒をしていたのだ。
さらに、部外者顔をしていたイーライまでが、じつは当事者であって、そのことに自分で気づいてからというもの、はっきりとローユンに協力的になっている。
そんなわけだから、月葉としてはたった一人の不満分子みたいな格好である。
これでは目立ってしかたがない。
しかし月葉の意識下には、スゥーディという、異世界宮殿戦に命をかけた少女が内在する。
「だから、ぼくが協力しないわけないじゃないか」
と月葉は思っているが、はた目には一歩引いているように見えるのだろう。
貴奈津に近寄る男というだけの理由で、ローユンに好意的ではないから。
「だけどそれとこれとを、ぼくはちゃんと区別している。
異世界宮殿戦と日常問題を混同するほど、ぼくはバカじゃない」
この月葉の自己評価は、確とした筋が通っているようでいてしかし、それを信じているのが月葉だけだという点に、大きな問題があったのである。
「ところで月葉、今日の予定は?」
毎朝尋ねるのは、それがいまだにイーライの仕事だからだ。
「これといって、別にない。
家にいると思うけど」
月葉がすぐに答えるのも、週間になっているためである。
「イーライくん」
「なんでしょう」
眞鳥に呼び掛けられ、イーライはサラダを突く手を止めた。
「ボディガード契約のことだがね、もう終了してはどうだろう」
金を惜しむのではない。
イーライには異世界宮殿戦がある。
それ以外の余計な仕事を押し付けているようで、眞鳥としては気が引けるのである。
眞鳥の申し出が善意によるものだと、イーライは理解できる。
しかし、だからといって取り合いはしない。
「いいえ、どのような状況であろうと、月葉にボディガードが必要なことに変わりはありません」
「それは、そうかもしれんが。
つまり、その、面倒なのではあるまいかと」
「とんでもありません」
面白くて仕方がないのです、とイーライは言いたがったが、さすがにそれは不謹慎であろうと思い直す。
「仕事ですから」
イーライが当たり障りのない答えを返し、この件は治まるかに見えた。
しかし、そうはならなかった。
グレープフルーツを突きながら、月葉が僅かにあごを上げたのである。
月葉は笑ったのだった。
声は漏れなかったが言葉にすれば、
「ふん、仕事が聞いて呆れるよな」
という意味だ。
イーライはその仕草を見逃さなかった。
そして、月葉がなにを考えたか正確に読み取ったのである。
「わたしは……」
イーライはテーブルにひじをつき指を組んだ。
怪訝そうに、眞鳥が紅茶カップを口からはなす。
真摯な態度をよそおい、イーライは眞鳥に向かって身を乗り出した。
「わたしは、月葉のボディガードですが……」
もはや不謹慎などという言葉は忘れた。
いじめたくなる月葉が悪いのだ。
「できれば一生、彼のボディガードをつとめたいと思います」
「なっ……!」
仰け反った拍子に、眞鳥はカップの中身を盛大にこぼした。
それを拭こうとしてナプキンに手を伸ばしたが、慌てていたために、パン皿を引っ繰り返し、さらに咳きこんだりして、落ち着きを取り戻すまでしばらくかかった。
「イーライくん、そ、それは、どういう意味かね」
「言葉通りに受け取っていただければ」
眞鳥へ向けていた目を、イーライはチラリと右へ振った。
レイが興味を持って、ことの成り行きを眺めている。
しかし、食事の手は止めていないし、見ているだけで意味はわかっていない、とイーライは踏んだ。
なら、構うまい。
もし貴奈津がいたなら、イーライとしても食事中にここまで言わない。
「しかし、言葉通りと言われても……」
「別の言い方をしましょうか?
つまり、わたしは月葉を……」
椅子を鳴らして、月葉が立ち上がった。
「ごちそうさまでしたっ!」
「まだ、続きがあるのだけど」
「さあて、お腹も一杯になったし、ぼくは部屋に戻って本でも読むかな。
あ、お父さんも、そろそろ出掛けた方が良いんじゃないですか。
ほらイーライも、いつまでも冗談言ってないで、さっさと食事をすませてしまいなよ」
なにがなんでも、ここは冗談にしてしまわなければならない。
月葉は半ば必死で思っていた。
むきになって否定すれば、イーライがなにを口走るかしれたものではない。
それでは、ほとんど痴話ゲンカ様相を呈してしまう。
それはまずい。
イーライに反論しなかったのは、そのためなのだ。
月葉の投げてくれた救いの糸に、一も二もなく眞鳥は飛び付いた。
冗談だったのだ。
そうそう、そういうことにしてしまおう、という、後ろ向き解決に逃げ込んだわけである。
「いかん、そうだったよ、月葉。
今日は早めに出なければならなかったのだ」
そそくさと立ち上がり、眞鳥はテーブルを回った。
「いってらっしゃい、お父さん」
「うむ、いってくる」
さすがにこのあたりは、長年一緒に暮らした親子だけのことはあった。
見事な連携プレーである。
しかし、眞鳥が大急ぎで食道を出て行く寸前、背後にイーライの声が聞こえた。
「愛しているよ、月葉」
眞鳥は思わずよろめいた。
この日、おでこに絆創膏を貼って出社するはめに、眞鳥はなった。




