52
夜になると、涼しいのを通り越して肌寒かった。
吹き抜けになった広い居問の、デルタ型暖炉に火が入っている。
暖房が必要なほどではないが、別荘気分の演出という狙いだ。
「うう、わたしまだ体が暖まらないわ」
貴奈津は暖炉の一番近くに席をとっていた。
絨毯の上に座り込み、低いテーブルを置いての夕食時である。
「調子にのって、いつまでも水に浸かっているからだよ」
パンを口に放りこみながら、月葉の声がそっけない。
献立はパンの他にシチューだけだが、とりあえずレトルト・パックのお世話にはなっていなかった。
レイがペロリとスプーンをなめる。
「あれしきのことで弱音を吐くとは、根性が足りないんじゃないか?
ボクは平気だ」
「あんたはドライスーツを着てたでしょうが。
体を張ったわたしと、いっしょにしないでちょうだいね」
「貴奈……」
言いかけてパンを飲み込み、月葉が一呼吸置く。
「貴奈津、そういう言いかたはちょっと……」
「わたし、なにかおかしなことを言った?」
「いや、とくにおかしくはないけど、その言いかたって変に誤解したがる男もいるからさ」
あえて名指ししないが、イーライとローユンのことを月葉は気にしていた。
だが貴奈津にはよくわからない。
「イーライ、わたしなにか変なこと言ったかしら?」
「別に。
……ねえ?」
関心なさそうに答え、隣でシチューを口へ運んでいるローユンに相槌を求める。
ローユンが、ただ黙って肯く。
それみなさいと言わんばかりに月葉を見て、貴奈津はシチューの残りにとりかかった。
そこでふと気付き、顔を上げる。
「ところでお父さん、マスのアーモンド・ソテーはどうなったの?」
「釣果、不如意」
わけのわからないことを呟く。
貴奈津が眉をしかめて視線をふると、月葉は無言で肩をすくめた。
「ふーん、要するに釣れなかったわけね。
いいわ、明日はわたしが釣ってあげようじゃないの」
「ボクもいっしょにやってやろう」
即座にレイが参加表明をする。
「うん、いいわよ」
「まだ釣りはやったことがないんだ。
湖にマットを浮かべて昼寝をしてもいいな、気持ちいいぞ。
仕かにもマウンテン・バイクに乗ったり、あと芸術的に風景画を描いてみたりとか」
「あんたの絵は……」
「なにっ!」
「いえ、べつに」
「それから、森の中へ探検に行ったりもしような」
次から次へと遊びの計画を立てまくるレイに、眞鳥が遠慮がちに言う。
「レイくん、せっかくの楽しみに水を差すつもりはないが、君を見ていると少々不安になるのだが」
「なにがだ?」
「もちろん異世界宮殿のことだがね」
ニャハハハハとレイは笑った。
「あれなら大丈夫だ、心配するな。
とりあえず今、小康状態ってやつだからな、緊急にどうこうっていうものじゃない。
それにな、時には戦士にも休息は必要だ」
「言うことだけは一人前ね、あんたって」
「そうか?
ウヒャヒャヒャ」
なぜかレイは嬉しそうに笑った。
ほめられたのだと勘違いしたらしかった。
暗いテラスヘ出て一人、所在なげにイーライは夜を眺めた。
貴奈津と月葉の二人は、夕食の後片付けをしている。
イーライも手伝うつもりでキッチンヘ行ったのだが、月葉に冷たく追い出されてしまった。
「可愛げがないね、まったく」
呟く言葉とは裏腹に、にやにや笑いを浮かべている。
月葉の反応をおもしろがっているのだ。
しかも、その事を月葉の前で隠しもしないものだから、よけい月葉に嫌われる、という図式をイーライはわかっていたが、だからといって反省も気兼ねもするつもりはなかった。
月葉から見れば、始末におえないというやつであろう。
イーライの視線がスッと湖に流れる。
夜の湖面に彼の興味をひくものがあった。
片手をついて軽々と手すりを飛び越え、イーライは斜面に張り出したテラスから身を躍らせた。
三メートルほど下の地面に危なげなく降り立つと、急ぐでもなく湖へ向かう。
「いいねえ、便利そうだ」
湖上に伸びるの桟橋の端まで行くと、イーライはのんびりと感想をもらした。
おかしな感想ではあった。
人の形をした黒鳥が舞いおりて、湖面に大きな円形の波紋を広げる。
その中心に立ったローユンが、桟橋に佇むイーライを見て足を踏み出した。
一歩ごとに細波を揺らし、水面のすぐ下にガラスの床でもあるかのように、湖の上をゆっくりと進んでくる。
時々立ち止まっては水中を覗き見る。
その行動になんの意味があるのか、イーライにはわからない。
桟橋に後数メートルというところで、ローユンは水面を蹴った。
優雅に宙に舞い、物理法則を無視した放物線を描いてイーライの隣に着地する。
「夜の湖面を散歩とは、なかなかに風情があるね。
いや、よい見ものだったよ」
あまり熱心とはいいがたい拍手を、イーライはして見せた。
かといって皮肉な感じではない。
ローユンが笑みを溢す。
「あなたは少し変わっているな」
「きみほどではないよ」
「わたしはなにも変わっていない、ごく普通の人間だ」
「普通、という言葉の定義を間違って憶えているね。
それとも、努力して忘れることに したのかな。
たとえば鯨が空を飛んで、狸が水面を走っても、きみはやはり、普通だというの?」
イーライのおかしな例えに、唐突になにかを思い出したらしくローユンが首を捻った。
「たしか水面を二本足で走るトカゲがいると聞いたことがある」
「バシリスクのことかな。
あれはみごとなものだ、速い、速い」
「見たことが?」
「テレビで」
夜の湖畔に佇む二人の美青年。
眞鳥家のメイドたちが見たら、うっとりするような光景であろうが、会話の内容を知れば、もう少しましなことを口にしてくれと懇願しそうだ。
さらにましな展開が望めない声が、別荘のほうから聞こえてきた。
「おーい、ローユーン」
両手になにか持ち、一直線に宙を飛んでくる。
二人の前まで来て、レイは急停止した。
「なんだ、イーライもいたのか。
暗くてよく見えなかった」
「都合が悪いようなら……」
「そうじゃないけど」
言ったもののレイは少し困った顔をして、両手に一つずつ持ったカップ・アイスを眺めた。
だがすぐに割り切ったらしい、イーライを無視してローユンにカップを差し出す。
「眞鳥がアイスクリームをくれたんだ。
二つもらってきたから、いっしょに食べよう。
ハーゲンダッツのクッキーズ&クリームだ、これはおいしいんだ」
「ありがとう」
ローユンが受け取ると、レイはカップのフタを取りながらイーライをチラリと見た。
「おまえのぶんはないからな」
声を出さずにイーライは笑った。
「気にすることはないよ、レイ。
わたしはもともと、間食をほとんどしない」
「なんで?
ボクは間食、大好きだけどな」
「太るよ」
レイに向けた一言だったが、なぜか、ローユンがスプーンを動かす手をピタリと止めた。
しかし、貰っておいて食べないわけにも行かないと思ったのか、またアイスクリームを突き出す。
その一部始終をイーライは横目で見ていたが、自分にも思い当たることがあるのか、余計な突っ込みはしなかった。
この地球人男性の複雑な心理は、永遠にレイにはわからない。
「太ると何か困るのか、おまえ」
「……体重が増えると動きが鈍くなる。
わたしの場合、それは仕事に差し支える」
嘘ではなかったが、口に出さないもう一つの理由があった。
女性受けの問題である。
ハンサムでスタイリストのイーライも、プロポーションの維持に、何の努力もしていないわけではないのだ。
レイが首を傾げる。
「そうかなあ。
おまえくらいの身長があったら、もうちょっとお肉がついていてもいいと思うけどなあ」
「こう見えてもわたしは、けっこう体重があるのだよ」
口に出してから、イーライは目を伏せた。
よけいなことを言ってしまった。
その傷口をローユンが広げる。
「それはわかるな」
「……」
イーライがしばし言葉を失う。
内心で「この野郎は」と思ったかもしれない。
しかし悪気があったわけではなく、ローユンの意図は別のところにあった。
「細身に見えるが、イーライのようなタイプは見た目より体重がある。
無駄がないだけなんだよ」
「そうなのか?」
聞きながらレイは空中にパンダ座りして、せっせとアイスクリームを食べ続ける。
「貴奈津と月葉を比べてみればわかる。
レイは、あの二人のどちらが体重があると思う?」
おかしな方向へ会話が展開していく。
とりたてて問題のある内容ではないが、引き合いに出された貴奈津はいい迷惑だ。
「貴奈津に決まってる」
「違うな。
月葉のほうが重いはずだ。
見た目が似たようなものなら、男のほうが確実に体重がある」
ローユンが視線をふると、イーライが大きく肯いた。
しかし、レイは納得しない。
「そうかあ、そうかあ?
身長は月葉のほうがあるけど、触ってみると、貴奈津のほうがお肉がついているぞ」
「触った……?」
「うん、色々ぷよぷよしていて柔らかいからな。
触ると気持ちがいいんだ。
たとえば……」
「待て待て待て!
レイ、それ以上言ってはいけない。
貴奈津のいないところで、それ以上聞くと、わたしの人格が疑われる」
真剣に焦ってローユンが止める。
イーライも加わりなかば必死で訴えた。
「レイ、きみにはわからないかもしれないが、そういう話は非常にまずい。
知られたら貴奈津に嫌われてしまうし、へたをすると月葉に殺される。
貴奈津のその手の話は、わたしたちにしてはいけない」
「なぜだ。
ローユンが先に言い出したんじゃないか」
レイが口を尖らせる。
「わたしが悪かったよ、レイ。
謝る。つまり……」
うまい説明がみつからない。
なにもわかっていないレイに、どう言えば納得してもらえるのか。
束の間考えたが諦め、ローユンは話を逸らすことにした。
「湖を調べてみたのだが」
「で、どうだった?」
興味の向きが切り替わった。
レイが身を乗り出す。
「水深も問題ない。いけると思う」
「そうか」
満足げにレイはニタリと笑った。
なんのことかとイーライは二人を見たが、特に口を挟むことはしなかった。




