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かすかな衝撃すら感じなかったし、大きな音もしなければ、なにかが発光したわけでもなかった。
まったくなんのきっかけもなく、異常感覚だけが襲ってきたのである。
「わわっ」
ケーブルの切れたエレベーターに乗っているような感覚が貴奈津を捕らえた。
足元の地面が、ふと頼りないものに思える。
周囲の風景が奇妙に揺らめいた。
目を閉じたら、そのまま失神してしまいそうな気がして、貴奈津はしっかり目を開いていた。
だから、水中のように波打って見える駐車場で、ルビイのメンバーも同じような感覚に襲われているのがわかった。
「なな、なにこれ?
なにが起こったのさ」
「えっ、あんたも変なの?」
「気持ち悪いぞー、あたし」
と、口々に訴える。
よろめいて車にしがみつく者や、耐えきれず地面に膝をついてしまう者もいる。
このとき、都区内ほぼ全域の住民が、同様な異常感覚に襲われていた。
空間が歪んだのだ。
東京都心を中心にして、世界に歪みが生じたのである。
「あれは……空になにかある」
声にならない呟きを貴奈津はもらした。
視線は吸いよせられたように、都心上空に向けられている。
異常現象を発生させたポイントを特定するなら、まさに貴奈津の見つめる一点がそうであった。
影が揺らぎ始め、輪郭が浮かび上がった。
そして東京の夜空に忽然と、浮遊する島の如き大建造物が出現した。
「あれは、宮殿だわ」
間違いなく、と貴奈津は思った。
巨大な宮殿なのだ。
未知の建造物が列なり、小高くなった中心部には、ひときわ目立つ城郭がある。
威容ではあった。
しかし、それは実体ではなかった。
貴奈津たちのいる世界とは、異なる世界に存在するはずのものだった。
東京上空にもう一つの世界が、実体を持たずに、しかし、その姿を現実の世界にあらわして、同時に存在しているのだ。
歴史にも残らぬ、遙かな過去に、人間は一度だけこの城に出会った。
そのときから一万八千年の時を隔てて、再び甦った異世界宮殿であった。
「すごい……」
呆然と貴奈津は、空に浮かぶ巨大な宮殿を見つめた。
ふと記憶の底で、なにかが瞬いた。
自分の中に、自分の知らない記憶がある。
それが永い眠りから覚めて頭をもたげたのだ。
「どこかで見た。
どこだったかしら。
わたし、たしかにこの浮遊する宮殿を見たことある。
いつ?
いつだったかな…… 」
思い出せそうで思い出せなかった。
じれったい。
もしかすると、たんなる既視感なのだろうか。
貴奈津としては珍しく真剣に悩んでしまう。
だが、その悩みは長くは続かなかった。
「あれ、あれ、あれ?」
と思うまに、異世界宮殿は現れたとき同様に、蜃気楼のように揺らめきながらかき消えていった。
なかばアホみたいに、ぽかんと口を開け、貴奈津は空を見上げて動かなかった。
そこヘルビイのリーダーが声をかけた。
やや、恐る恐る、とである。
貴奈津より早く、異常感覚から解放されていたらしい。
「姐さん、貴奈津姐さん、どうかしましたんで?」
異世界宮殿の消失とともに、異常現象も去っていた。
貴奈津はハッとして振り向いた。
しばし無言でリーダーを見つめる。
それからゆっくりと空を指さして、尋ねた。
「ねえ、今の見た?.」
束の間ではあったが、リーダーの表情に怯えを含む戸惑いが表れてしまう。
「この女、おかしいんじゃないのかね」
と、思ったことは明白である。
貴奈津は指差していた手を、パッと下ろした。
なんとなく気配で察してはいたのだ。
あの巨大な宮殿は、もしかすると自分にしか見えなかったのではないかと。
しかし、そうでもなかったらしい。
額にバンダナを巻いた女が貴奈津に同調を示してくれた。
「あたしは見たぜ」
きっぱりと女が言う。
潔い性格らしい。
「なんだかはっきりしないけどさ、もやもやと、でも確かに空になにかがあったな」
「へえ……」
と漏らしたのは、リーダーや他のメンバーである。
初対面の貴奈津が言うことは信じられないが、仲間の言葉なら受け入れられるようだ。
「そうか、あたしにはなにも見えなかったけどね。
いったい、なにがあったんだい?」
「あれは……」
バンダナの女は空を見上げた。
貴奈津が喜色を浮かべて答えを待つ。
この人にも宮殿が見えたのかな、という期待である。
女が額のバンダナをぐっと押さえた。
そして断言する。
「あれは、霊だぜっ!」
彼女の趣味はオカルトであった。
「おー」
「なるほど……」
「そうかぁ」
などと、ルビイのメンバーたちは、それぞれ納得した面持ちで頷き合った。
霊ならば、見える者にしか見えなくて当然だ。
しかし貴奈津は力抜けしてしまった。
「ああ……」
と、二 三歩後ろによろめく。
その拍子に、置いてあった自分のバイクに腰をぶつけた。
「きゃっ」
ひっくり返りそうになり、とっさにバイクにすがりつく。
ルビイのメンバーたちがハッと貴奈津に視線を集中させた。
「大丈夫ですか、貴奈津姐さん」
駆け寄って手を差し伸べようとする者までいる。
チーマーのくせに、けっこう親切なところもあるらしい。
貴奈津は瞬間移動的速度でパッと立ち上がった。
「平気、平気」
顔の前で慌てて手をふる。
その手がピクリと止まり、貴奈津は小首を傾げた。
「あっ、なにか忘れていると思ったら、そうだ、わたし急いでいたのよね」
帰宅途中だったことを、ようやく思い出す。
早く帰らなければ、弟の月葉が心配する。
月葉の顔が目に浮かび、貴奈津は慌ててバイクに飛び乗った。
ルビイのことは、いきなり眼中になくなっている。
「こうしちゃいられないわ」
スターターを回し、エンジンをかける。
ルビイのメンバーが、呆気にとられる中を、
「まずい、まずいわ」
などと、わけのわからない一人言を呟きながら発進する。
突如として去っていく貴奈津を、ルビイのメンバーは黙って見送った。
もちろん誰も追う者はいない。
完全に貴奈津のバイクが見えなくなると、ようやく中の一人が感想をもらした。
「……あれが噂の青島貴奈津?
なんかイメージ違うな」
つられて他も者も、次々と口を開く。
「でも、たしかに化け物みたいな怪力女だったじゃない」
「ちょっとマヌケな感じもしたけど」
「そうそう。
話に聞いてたほど恐ろしそうには見えないよね」
「ただの変なヤツって感じ」
などと、あまりろくな評価は聞かれない。
「おまえたち」
リーダーがポンと手を叩いて、メンバーの注意を集めた。
「青島貴奈津を甘く見ると、ひどい目にあうよ。
貴奈津姐さんは、恐ろしそうに見えないところが恐ろしいのさ」
一度、姐さんと立てた以上、目の前にいなくとも、貴奈津などと呼び捨てにはしない。
そのへんが、さすがチーマーのリーダーである。
裏表のない極道対質をしているらしい。
「お前たちも聞いたことがあるだろ。
先月、中原街道でゼータの奴らがボコボコにやられたっていう話」
「それが、あの青島貴奈津のやったことなわけ?」
「ああ、そういう話だよ。
あたしら今日はさ、貴奈津姐さんに売られたケンカを買っただけだけど、ゼータの奴らはタチが悪いからね、相手が一人と見てからんだんだよ。
それで貴奈津姐さんとバトルになった。
警察が駆けつけたときには、十五人からいたメンバーはみんな車の外へ引きずり出されて、地面にのびていたっていう……」
「それでゼータは壊滅したんですかね?」
「そんなこたぁないよ。
あそこは百人近くいたんだからさ。
それはまた別の話さ
じつはあたしが貴奈津姐さんを恐れる理由はそこなんだ。
つまり、ほんとに恐ろしいのは姐さんじゃない。
その弟のほうなんだよ」
「……弟がいたのか」
「いてもおかしくないだろ」
「そりゃそうですがね、いったいどんな弟なんです?」
「貴奈津姐さんによく似ているけど、もっときれいな顔をしているらしい。
すごい美少年だっていう話だけどね。
じつはゼータを壊滅させたのは、その弟のほうなのさ。
貴奈津姐さんがからまれた仕返しに、一人でゼータのアジトに乗り込んでさ、全員再起不能にしちまった。
ゼータのアジトにあった車は、一台残らず全壊か炎上。
その上メンバーは、骨の折れていないヤツは一人としていなかったっていう、徹底したやり方だよ。
姐さんと同じように、化け物じみた力を持ってるんだ。
貴奈津姐さんには、まだ抜けたところがあるからいいが、その弟のほうは情け容赦ないんだとさ」
メンバーの一人が首をひねった。
「でもさ、からまれた仕返しっていうけど、ボコボコにされたのは貴奈津姐さんじゃなくてゼータのほうだろ。
話があべこべのような気がするけどな」
リーダーはため息をついた。
「あたしもそう思うけどさ。
向こうがそう思ってないんじゃ、しゃーないよ。
筋が通らないっていうのは、恐ろしいことさ」
チーマーの存在自体、社会的に筋が通っていないと思うのだが、それは棚に放り上げてリーダーは言った。
そして、ルビイのメンバーも一様にに大きく頷いたのであった。




