12
「ローユンを呼ぶ」
というのはレイに何度か言われていたが、それがどういうことか貴奈津にはわからない。
わかりはしないが、ローユンを呼べばゼラチンの塊から逃れられるというなら、それは魅力的な提案だった。貴奈津は肯いた。
「わかったわ。
やってみるね、ローユーンッ!」
レイが飛び上がって貴奈津の頭を殴りつけた。
「違うー!
バカかおまえは。
声に出して呼んでどうする。
そういうことじゃないだろう!」
「じゃあ、どういうことよ」
「ローユンはシールドに守られて眠りについていたんだ。
だけど異世界宮殿が現れた以上、それはローユンも感じて目覚めているはず。
だからおまえが精神パワーで呼ぶんだ。
ローユンはおまえに導かれたところに現れるんだ」
「やり方がわからないって言ってるでしょ!」
レイの猫ヒゲがビクピクと痙攣した。
「思い出させてやるーっ!」
避けるまもなく、レイは貴奈津の頭に飛びついた。
両手で頭を押さえ、電撃を食わせる。
荒っぽいやり方ながら、レイは貴奈津の潜在意識に、直接慟きかけてみようとしたのだ。
「キャーッ!」
痛いようでもあり、痛くないようでもあったが、とにかくショックはあった。
思わず固く瞼を閉じた貴奈津の中で、自分の記憶にはないはずの風景が、次々に脳裏を駆け抜けた。
レイの意識に感応したためか、前世の記憶が断片的によみがえったのか、そのどちらかに違いない。
雪原に建つ氷の神殿、蜃気楼の異国の街並み。
陽炎が立ち上る見わたすかぎりの砂丘の列なり、その遙か地平線の上には、確かにそれとわかる異世界宮殿のシルエットが浮かぶ。
さらに、どういう視点で得たのか、上空から俯瞰した異世界宮殿の記憶。
レイと一緒に、面立ちの良く似た少女が二人、一瞬視界を流れ去る。
貴奈津の意識が最後に見たのは、日に焼けた肌のエキゾチックな雰囲気を持つ青年だった。
「あっ、ハンサム」
こういうことを考えている場合ではなかったが、しかし、そのおかげで強く意識が集中したのかもしれない。
貴奈津ははっきりと思い出したのだった。
その青年を知っていた。
怒濤の激しさで懐かしさが込み上げ、貴奈津は幻影に向かって精一杯の声を張り上げた。
「ローユン!」
幻影が消え去る寸前、青年がこちらを振り向いたような気が、貴奈津はした。
ふっと意識が現実に立ち返ったとき、閉じたままの瞼を通して、白光が貴奈津の目を眩ませた。
もう遅いが、思わず両手で瞼をおおう。
「ナーディ、よくやった!」
叫ぶようなレイの声が聞こえた。
声は明らかに興奮していた。
「見ろ、ローユンだ、ローユンが来てくれた!」
「えっ、どこ、どこ?」
瞬きして目をこらしたが、貴奈津の視界はまっ白なままだった。
見ろと言われても、なにも見えない。
「すぐ見えるようになる」
レイの声が聞こえるだけだ。
「ローユン、話はあとで、とにかくそいつを頼む」
「な、なにをやってるの、レイ。
わたしも見たい、見たい、見たい、見えないーっ!
……あ、見えた」
貴奈津の視界の中で、初めは黒ぽっい影が揺れ、それがすぐに人の形をとった。
「ローユン!」
無意識のうちに貴奈津は、前方に浮かぶ人影に叫んでいた。
片膝を軽く上げ、たった今、地を蹴ったかのような、ローユンの姿が空中にあった。
腰のサッシュと頭に巻いた布が長く翻る。
黒い鳥人のようにローユンは見えた。
翼がないのがいっそ不思議なくらい、空を舞うのが自然に思える。
ローユンは下方に視線を落としていた。
二つに分裂したゼラチンの塊に、指先を向ける。
ローユンの全身が一瞬だけ、青白色の光を放った。
ゼラチン状魔獣の一体が、瞬時に実体を失い白いもやと化す。
唖然と眺める貴奈津に、レイが得意気に解説してくれる。
「どうだ、凄いだろう。
蒸発させたんだぞ」
「あんたがやったわけじゃないわ、威張らないでよね……」
感嘆のあまり、言い返す声に力が入らない。
貴奈津が見つめる前で、残りの一体もまた、跡形もなく消え去った。
黒い影は舞い降りてきた。
地面はないのだが、膝を折り、音もなく、ローユンは着地した。
エキゾチックな顔立ちが充分美形といってよい、二十歳前後に見える青年だった。
日に焼けた肌の色だと貴奈津は思ったのだが、人種的なものなのかもしれない。
緩やかなウェーブのある長めの黒髪を後ろで束ね、深い海の色の瞳を持っていた。
国籍、年代とも不明の衣装が、よく似あっている。
アラビアンナイトをモチーフにデザインしたようなもので、基調色は黒とグレー。
そこに銀色の刺繍やらサッシュやら金具やらが、不思議に入り組んでいる。
そこへさらに、いくつか原色のアクセントが入る。
ファッションモデルなら、喜んで着そうな衣装である。
腕にも首にも、それに服にも、アクセサリーがたくさんついている。
たぶんローユンたちの世界では、それが当たり前だったのだろう。
そういえば視界を流れ去った二人の少女も、派手な格好をしていたっけ。
貴奈津はそんなことを思い出した。
「本物のローユンだわ……わたし、昔この人を知っていたのね……」
今しがた貴奈津が見た過去の映像と、衣装は違うが、ローユンであることは間違いない。
だが、先程の込み上げる懐かしさは、今の貴奈津にはなかった。
完全に、自分だけの意識に戻っているからだと貴奈津は理解した。
幻影を見たときは、明らかにほかの誰か、おそらく前世の自分の意識が重なり合っていたのだ。
こちらに足を踏み出したローユンが、両腕を広げた。
その胸元に、物凄い勢いでレイが飛び込む。
受け止め、ローユンは、人間の友人にするように、レイをしっかりと抱きしめた。
声を上げてレイが泣きだした。
ローユンは黙ってレイの毛皮を撫でてやる。
言葉はなかったが、レイとローユンがどんなに仲のよい友人であるか、見ている貴奈津にも伝わった。
「……よく泣く猫ね」
貴奈津は非難がましく呟いたが、自分も貰い泣き寸前である。
後方でブレーキ音がした。
振り向いてみると、月葉が戻ってきたところだった。
月葉の視線は、まっすぐローユンに注がれていた。
「ローユンのこと思い出したの、月葉も?
わたしは会ったことがある、というのだけはわかったような気がしたわよ」
貴奈津の言葉に、月葉は首を振った。
「いや、会えば思い出すかと思ったけど、そうもいかないようだな」
「でも、ハンサムよね」
貴奈津は嬉しそうに言い、月葉は苦笑した。
なぜなら、
「貴奈津が好感を持ちそうなハンサムだな」
と思っていたからに他ならない。
貴奈津はハンサムが好きなのだ。
まあ、嫌いな少女はあまりたくさんいないと思うけれど。
貴奈津が後ろ手にレイを指差した。
「月葉もレイに電撃やってもらったら?
なにか思い出すわよ、きっと」
「電撃? なんだそれ」
説明しようとした貴奈津の腕を、レイが叩いた。
「なによ、猫」
振り返ってみると、いつの間にかレイは、タンクの上に戻ってきていた。
それはいいのだが、ローユンが目の前に立っているとは思わなかった。
「うっ」
意表を突かれ、思わず身を引く貴奈津に、ローユンが微笑みかけた。
貴奈津は息を飲んだまま硬直した。
いきなり異国の美青年を間近にして、思考が麻痺してしまったのだ。
貴奈津の反応が、明らかに予想と違ったらしく、ローユンはかける言葉の選択に困っているようだった。
それでも、ついに口を開いた。
「ナーディ?」
とおりのよい、明るくて優しい声だった。
親しみを込めた呼びかけに、貴奈津はようやく我にかえった。
自分の頬を二、三度叩く。
「いえ、ナーディじゃなくて、今は貴奈津です」
簡潔だが、わかりやすい返事だ。
言葉使いも悪くない。
貴奈津は密かにそう思ったが、もしかしてたった今、呆然としていた時、すごくマヌケな顔をしていたんじゃないか、と、ふいに気づいた。
いきなり貴奈津は赤面してしまった。
「あ、あの……つまり……」
よけいに貴奈津がうろたえる。
ふいにローユンが白い歯をみせて笑った。
声に出して楽しそうに笑ったのだった。
貴奈津の緊張がそれで緩んだ。
「この人、ほんとに異国の王子様みたいな格好してるけど、中身ははわたしたちと変わらない、普通の人間なんだわ」
そう思ったのである。
つられて貴奈津も、えへへと照れ笑いする。
「わたしのことを、憶えているだろうか、貴奈津」
笑いをおさめたローユンが、まるで時間を惜しむかのように唐突に切り出した。
深い海色の瞳が、真っ直ぐに貴奈津を見る。
向けられた眼差しは、貴奈津が思わず勘違いしたくなるような、優しく好意的なものだった。
貴奈津はプルプルッと顔を振った。
ローユンには、過去の友人の姿が、貴奈津の上に重なって見えているのだ。
「ごめんなさい、今のところは、ほとんど思い出せないんです」
「そうか。
でも、きみがわたしを呼んでくれた」
「はい、まあ偶然うまくいったみたいね」
なんとなく貴奈津の言葉づかいが、親しげになる。
ローユンの眼差しに影響され、友人感覚が よみがえってきた気分になっている。
「それで充分だ。
きみの呼ぶ声が聞こえたよ」
ローユンがまた微笑んだのを見て、貴奈津は俄然嬉しくなってしまった。
やっぱりハンサムの笑顔は素敵だわ、という意識しかなくなる。
「え、ほんとに? 良かった」
「貴奈津、また、わたしを助けてくれるだろうか」
「はい、もっちろんよ、任しといてください!」
貴奈津は胸を叩いて請け合った。
この時点ではほとんど大言壮語に近いのだが、貴奈津はそんなことには、気付かなかった。
「ありがとう、貴奈津」
よほど嬉しかったのか、ローユンはいきなり貴奈津を抱きしめた。
これには貴奈津も驚いたが、月葉も少なからぬ衝撃を受けた。
一瞬二人とも、ローユンの行動を誤解したのだ。
しかし、そういうことではなかった。
レイを抱きしめたように、友人同士では、嬉しいときの普通の行動だったのである。
このとき貴奈津は内心で、
「キャー、キャー」
騒ぎながら、照れつつも喜んでいた。
昔の友人として抱きしめたのだ。
それだけは、すぐにわかったし、そうなれば、めったにないお得なシチュエーションだ、と思ったのである。
月葉が眉間を押さえてしまう理由が、貴奈津のその性格にあった。




