10
「とにかくあっちだ、あっちへ向かえ」
レイは指差して命令した。
ここまでアバウトな指示も珍しいと思うが、他にどうしようもない。
とりあえず貴奈津と月葉は言われたとおりの方角へ、二台のバイクを走らせた。
眞鳥は家に残った。
レイによると、もとから眞鳥は後方支援部隊であって、戦闘要員ではないのだそうだ。
言われてみれば貴奈津も月葉も、眞鳥が異能力者だという話は聞いたことがなかった。
「先にローユンを呼び出したかったんだけどな。
でも、どうせおまえ、やり方憶えていないんだろう?」
レイが貴奈津の後ろで声を張り上げた。
走行中のバイク上で会話しようとすれば、大声を出さざるをえない。
レイは貴奈津の肩に手をかけ、背中に貼りついていた。
「わかってるんなら聞かないでよ、うるさいわね。
だいたいなんでわたしに貼りつくのよ。
優しい月葉におんぶしてもらえばいいでしょ」
「そうだ。
スゥーディはいつも優しかった。
だけど……」
「……だけど?」
「今、あいつは男だからな!」
「この猫、振り落としてやろうか」
「ジョークだ、冗談だ。
ローユンを呼び出せるのはおまえだけだからな。
ボクとしては、鍵になっているおまえに、くっついている必要があるんだ」
「え…?
わたしだけ?
月葉は?」
「おまえだけだ。
ホントはスゥーディのほうが良かったんだけどな。
スゥーディは頭が良かったからな」
「ゲ……昔もそうだったんだ。
月葉は今でも頭はすっごく良いわよ」
貴奈津は後続の月葉をバックミラーで覗いた。
おそらく資質としては、二人ともたいした差はないのだろうが、こと学校の成績に関しては、小さな頃から月葉のほうがずっと優れていた。
どのみちやらなければならないことなら、先に片付けてしまったほうがいいと、手際よく課題を処理していく月葉に対し、教科書もノートも机の上に放り出したまま、およそ学問とかけ離れたことに励んでいた貴奈津とは、成績に大きな差がつくのは至極当然の結果といえた。
二人とも関東一円を一ブロックとする、高校大学一貫教育単位制スクールの学生だが、一七歳の貴奈津が高校二年程度の単位しか取得していないのにくらべ、一六歳の月葉は大学二年相当のカリキュラムに進んでしまっている。
年齢と学年が逆転してしまっているわけだ。
貴奈津だって年齢相応のことはやっているのだけれど。
「だけど、なんでわたしなの?
鍵になっちゃったのが。
その点が、どうも納得できないわ」
「ボクだって納得できんわい。
だけど、これは相性みたいなもので、どうしようもないんだ」
そういう言われかたはないんじゃないか、と貴奈津は思う。
「ところで、レイ」
「なんだ」
「……えらそうに。
あのね、さっきから道なりに走ってるけど、正しく目的地に向かってるんでしょうね」
「大丈夫だ。
ちゃんと近付きつつあるから心配ない」
「う、そうなの?」
ついアクセルを弛めてしまう。
貴奈津の頭の中にゴジラとガメラが現れ、仲よくタップを踏んでみせたからである。
「だいたい異界の歪みとか魔獣とかっていうのは、どこにある、どこにいる、というものじゃないんだ。
この世界の物理法則には支配されない。
だから、どこにでも出現できる。
今ボクが、まとめて呼び寄せているから、もうすぐ出くわすはずだ」
「なんですって!
どうしてそれを先に説明しないのよ。
いきなり言われたって、心の準備がっ!」
「ええい、ゴチャゴチャとうるさいヤツ!」
貴奈津が突然悲鳴を上げた。
レイに首を絞められたのだ。
しかし苦しくて上げた悲鳴ではなかった。
猫手がたまらなく、くすぐったかったのである。
「おい、見たか?」
コンビニの前に駐めた車の脇で、ペットボトル麦茶を飲んでいた若い男が、いっしょにいた同僚の男を肘で小突いた。
「なにを?」
「いま、バイクの女の子が通っていったんだけどな、背中にすげえデカイ猫が貼りついてたんだ」
貴奈津とレイのことである。
「まさか」
「いや、あれはたしかに猫だった。
猫とは思えないブタ猫だったけどさ」
このくらいの、と、男は手で輪郭を描いてみせた。
同僚はその大きさに眉をしかめた。
そして少し考え、自分の知識の中から、もっとも無難と思える答えを探し出した。
「おまえ、そりゃあ背負いカバンだよ。
猫のヌイグルミ型のさ。
女の子って、そういうおかしなもんが好きだから」
「……あ、なるほどー。
そうか、そうだよなヌイグルミのバッグな。
あるある、そういうの」
歯切れの悪い同意を男はした。
「さ、行こうか。
早く戻ってリポートの続きをやっつけないと」
同僚に促され、男は車のドアを開けた。
そして乗り込もうとして、やはり気になり、貴奈津の去った方向を振り返った。
もちろん、もうバイクは見えなくなっている。
「だけどなあ、そのヌイグルミの猫が、口を動かしてなにか喋っていたんだよなあ……」
男は心の中で呟いた。
口には出さない。
話しても信じてもらえないとわかっていたし、自分の目にも完全な自信は持てなかった。
忘れよう。
そう男は決心した。
いつまでも気にしていては、精神衛生に良くないのである。
貴奈津の背中で、レイが後ろを振り返った。
五メートルほど離れて続く月葉を、クイクイと猫招きする。
深夜である。
もし他人が目にすれば、かなり恐ろしい光景であろう。
ライダーにとり憑いた化け猫としか思えない。
まずいのではないか。
月葉は素早く周囲に視線を走らせたが、幸い目撃者はいなかった。
そんな月葉の心配を、レイはまったく気付いていない。
横に並んだ月葉に大声で指示する。
「もっと、ぴったりとくっつけ!
来るぞ、亜空間が口をあける十秒前!」
貴奈津が慌てふためく。
「えっ、なにも見えないのに、どこよ」
「目の前だ、飛びこむ進備をしろ。
六秒まえ、五……四……」
「ちょ、ちょっと、待ってーっ!」
最後は悲鳴に近かった。
二台のバイクはライダーもろとも、忽然として道路から消え去った。
「キャーッ! キャーッ! キャーッ!」
瞬時にして、視界から全ての風景がかき消えた。
暗黒なのか白光なのか、それすら判断がつかない空間に飛びこみ、貴奈津は盛大に悲鳴を上げ続けた。
意識のほうは、ほとんどまっ白である。
落下しているようでもあり、そうでないようでもあった。
「えーい、うるさいっ!」
レイに背中を蹴り飛ばされ、貴奈津は思わずブレーキをかけた。
急制動が、なぜかかかり、バイクが停止したことがわかった。
これはホッとするのである。
日頃慣れ親しんだ物理法則が通用するというのはありがたい。
「得な性格だな、貴奈津は」
ぴたりと貴奈津の横にバイクを停めて、月葉は呟いた。
あくまで冷静さを保っているが、これは他にしようがないからだ。
このような場合、先に騒いだ者の勝ちと相場は決まっている。
出遅れたほうは、いやでも冷静にならざるをえないのだ。
貴奈津がようやく、月葉のことを思い出したらしい。
いきなり振り向き、無事を確認すると大きく息を吐いた。
貴奈津と月葉はほとんど真横にいたのだが、それにしてはお互いの目線の高さが不自然だった。
二人は同時にそのことに気づき、足元を見た。
地面はなかった。
白っぽい、と、今はわかる、距離感のない空間の中に二人はいた。
同じようにバイクを並べているはずなのに、月葉のほうが低いところに位置している。
視野がよくないように感じて、貴奈津はフルヘルをとってみた。
だが、変化はない。
濃霧の中に迷いこめば、おそらくこんな雰囲気だろう。
だが霧とちがって、視界はあくまでクリアーだ。
「どうなってるの、これ」
貴奈津はわけがわからなかったが、月葉も戸惑っていた。
「レイ、この空間、高低はどうなっている? 地面は?」
月葉の問いに、レイは頭を掻いた。
適当な説明がみつからないのだろう。
「高低の概念はない。
地面は……そうだな、あるといえばある。
ないといえばない」
「あんた出家して、お寺で禅問答やって暮らすといいわ」
皮肉が出るのは、貴奈津が余裕を取り戻した証拠である。
「あのな、亜空間だと言っただろう。
本来、ここは存在しない空間なんだ。
わけがわからなくて当然。
だからボクに文句を言うのは、筋違というものなのだな」
生徒に諭すようにいうところが、言いわけがましい。
おそらくレイも、完全にこの空間を把握しているわけではないのだろう。
経験で特質をつかんでいるだけだ。
「……この猫は」
「待て、日本にはこういうときにピッタリの慣用句があったな。
死人に口なし。
違った、 習うより慣れよ!」
どこをどう間違えば、死人に口なし、になるのか疑問だが、ようするにレイは、理屈はともかく慣れれば良いのだと言いたいらしい。
月葉が諦めの溜め息を吐いた。
「わかったよ。
それで?」
「それで、とは?」
「これから、どうすればいい?」
白いだけの空間を、月葉は見回した。
つられて貴奈津も首をめぐらす。
「よし、よし。
やっと自分たちのなすべきことをなそう、という前向きな気持ちになったようだな」
にんまりと笑って、レイは二、三度肯いた。
徴笑んでいるのかもしれないが、どうしても、悪巧みをしているようにしか見えない。
顔のつくりに問題がある。
貴奈津の背中に貼りついたまま、レイがさっと片手を上げた。
「敵は三体。
小物だけど気を抜くなよ。
おまえたち、過去の記憶がないんだから。
これがきっかけになって、思い出してくれると良いんだけどな。
それじゃいくぞ。
いち、にーの、さんっ!」
かけ声と同時に、パチン!
とレイの指が鳴った。
猫手のくせにどうやって指を鳴らしたのか、平常時ならば深い疑問を抱くところだ。
しかし、絶叫とともに貴奈津の心から、そんな余裕は吹き飛んでいた。




