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令和XX年七月初旬の東京、晴れた日の深夜だった。
さすがに交通量の少なくなった道路を、青島貴奈津はバイクで飛ばしていた。
世田谷でスクールの友人と別れ、田園調布の自宅へ帰るところだ。
道は空いていたし、切る風は心地よかった。
いつもと変わらない、夏の東京の夜景である。
じつは、あと半時間と経たないうちに、東京は未曾有の異常現象に襲われる運命にある。
しかし、今のところなんの気配もなく、一片の兆しも顕れてはいなかった。
「うーん、急がないと、ちょっとまずいかも」
門限があるわけではなかったが、貴奈津は帰宅時間を気にしていた。
あまり遅くなると、弟の月葉が心配するかもしれない。
貴奈津より一歳年下の彼は、自分では貴奈津の保談者のつもりでいるらしいのだ。
「だけど、どうして あんなに心配性なのかしらね、月葉って」
その辺が貴奈津には理解できない。
なんの危険もあるはずがないではないか。
それは月葉にもわかっていることなのに。
そんなことを考えながら、貴奈津はスピードメーターをチラリと見た。
つかの間の躊躇があった。
しかし、自分を納得させるように頷き、スロットルをさらに開いた。
テールランプの赤い光を夜景に流し、バイクが加速していく。
今夜の貴奈津はブルージーンズに半ブーツ、上はTシャツにGジャンという、年齢相応の、ごくサッパリとしたファッションだった。
3500CCロード・スポーツタイプのバイクに乗っている。
平均的十七歳の少女の身長では、これくらいの車体がちょうど手頃で扱いやすい。
「あ、やーね。
邪魔なのがいるわ」
非難めいた科白が、貴奈津の口をついた。
群れて走っている四、五台の車が、視界前方に入ってきたのだ。
対向車線にはみ出して蛇行運転をしたり、けたたましくクラクションを鳴らしているところをみると、暴走族やチーマーの類いに違いない。
スロットルを緩めもせずにバイクを走らせると、見る間にチーマーとの距離が詰まってくる。
貴奈津が追いつこうと努力したわけではなく、向こうが鈍いだけだ。
「んもー、遅い、遅い、遅い!
チーマーならもっと速く走ってよ。
わたしは急いでるんだから」
急ぐくらいなら、もっと早めに帰路につけば良いのだが、それはそれとして、貴奈津の言い分にも一理ある。
チーマーというのは、迷惑で危険なこと、この上ない走行をするのであるが、おおむね移動スピードは速くない。
暴音族といったほうが正解に思える。
ゆっくりと時間をかけて周囲に迷惑をかけることで、自分たちの存在をアピールするわけだ。
おそらく、目立ちたいだけなのではないか。
その証拠に、人里離れた山奥で、誰にも迷惑をかけずに爆走するチーマーというのはいない。
いたらいたで、妙に怖いような気もするが。
片や貴奈津は、はっきりいって飛ばしていた。
制限速度のことは不問に付すが、たちまち暴走車グループの後尾に追いついてしまう。
改造車にペイントされた、サングラスをかけたミッキーマウスが目に入った。
「えーと、このトレードマークはルビイだったわよね」
ルビイは女性だけで構成する、四輪専門のチーマーだ。
行動範囲が貴奈津と近いらしく、前にも何度か見かけたことがある。
一般市民に迷惑かけまくりではあったが、とくに凶悪だというわけではない。
そこまで知ってのことかどうか、貴奈津はチーマーを追い抜くという暴挙に出ることにした。
ルビイに付き合ってのんびり走るのも面倒だし、迂回して避けるのも性に合わない。
貴奈津はチーマーなど恐れてはいなかった。
それどころか、世の中に恐れるものなどなにもない、というタイプだ。
チーマーに比べれば、スクールの試験のほうが、よほど怖い。
単に無謀な性格だというのではない。
確かな実力の裏付け合ってのことだ。
貴奈津は、見た目は普通の少女だが、中身はけっしてそうではなかったのである。
暴走車の後尾について、貴奈津はアクセルを調節していた。
追い抜くタイミングをはかっているわけだ。
フルヘルメットのシールドの奥で、貴奈津の瞳が煌めいていた。
どうやら、面白がっているらしい。
「いまだ!」
バイクのアクセルを思いっ切り回す。
蛇行運転を続ける車と車の間を、貴奈津も蛇行しながら、接触寸前の間隔で一気にすり抜けた。
最後に先頭車の鼻先をかすめて、前に飛び出す。
チーマーといえどもこれには驚いた。
咄嗟にハンドルを切って、バイクを避ける。
短く、急ブレーキを踏む音がした。
だが、そこはさすがにチーマーというべきか、一瞬後には立ち直り、バイクに追いすがる。
そして貴奈津の背中に罵声を浴びせかけた。
「なにすんだよ!
あぶないじゃないか!」
危ないのは、そっちだもんね。
貴奈津は心の中で言い返し、チーマールビイを引き離しにかかる。
しかし、続けて投げつけられた言葉が聞き捨てならなかった。
「待ちな、この野郎!」
品のない一言だが、貴奈津が聞き咎めたのは、ただ一点だけだ。
ムッとして後ろを振り返る。
先頭車の助手席から、派手なメイクの女が、身を乗り出して叫いていた。
「あの人ね」
怒鳴った相手を特定すると、貴奈津はアクセルを弛めた。
バイクの速度がふいに落ちる。
バックミラーの中で、チーマー・ルビイが急接近してきた。
先頭車にわざと追いつかせると、貴奈津は助手席の隣に位置を取った。
ぴたりとバイクを寄せて、車と並走する。
バイクのライダーと向かいあう形になり、派手なメイクの女は、助手席で複雑な表情を浮かべた。
対応に困ってしまったのだ。
じつは、車でバイクを追うのは骨である。
したがって、自分たちを追い抜くという行為自体は許せないのだが、ルビイとしては放っておくしかないわけだ。
ところが、そのまま走り去ると思ったバイクが、のこのこと舞い戻ってきた。
「こいつ、もしかして、あたしの知りあいだったとか?」
などと派手なメイクの女は考えたが、そうではなかった。
フルヘルメットのシールドを上げ、貴奈津が叫んだ。
「野郎なんて言わないでよ!
わたしは女だーっ!」
およそ、この状況でこだわるようなことではなかった。
「わざわざ、そんなこと言いたくて、戻ってきたわけ?」
貴奈津を見上げる女の顔には、そう書いてあった。
「変な奴……」
横顔に風を受けながら、派手なメイクの女は呟いた。




