ふたりの王子と幻惑の地下迷宮
北の大陸南端に位置するアステニア王国。
その王宮は、朱色の壁と黄金の龍で飾られた荘厳な建物だった。
民が足を踏み入れることはない、特別な場所である。
その宮殿の中を、二人の子どもが元気に走り回っていた。
一人は、カール=アステニア第一王子、八歳。茶色の短髪に、くるりと愛らしい瞳をもつ、童顔の少年。
もう一人は、その弟、シリウス=アステニア第二王子、六歳。兄とは似つかず、長い黒髪できりっと整った顔立ちをしていた。
彼らが政治権力争いを繰り広げるのは、まだ当分先のこと。
今はとても仲が良く、こっそり二人だけで王宮内を探検するのが日課だった。
「ねえねえ、噂で聞いたんだけど、この王宮には、地下迷宮があるんだって。その扉の場所も、侍従から聞いたんだ。ちょっと行ってみない?」
兄カールが弟の肩をつつきながら、明るい声で誘った。
弟シリウスは、兄の勢いに押されるようにして、「うん」と小さく頷く。
その反応を見て、カールはにっこりと微笑むと、すぐさま弟の手をぱっと掴んで、目的の場所に向かって駆け出した。
すぐに二人は、王宮の一角にある大きな鉄扉の前にたどり着いた。
「たしか、この扉の向こうのはずだよ」
二人は力を合わせ、重い扉をゆっくりと押し開けた。
その扉の先には、石造りの階段が延々と下に伸びていた。
薄暗く、どこまで続くのか、終点は見えない。
カールが手首をくるりと回すと、手元に小さな光の球がふわりと現れた。
それは、“灯光”と呼ばれる照明用の初歩魔法だった。
だが、シリウスは、まだ魔法が苦手で、うまく使いこなせなかった。
「大丈夫。僕のそばにいれば平気だよ」
カールは優しく声をかけると、光球を弟と自分の顔の間に浮かばせる。
そして、二人は手をつなぎ、恐る恐る階段へと足を踏み出した。
言葉少なに、黙々と階段を降りていく。
足音が石畳にこだまし、低く鈍い響きを残す。
空気はひんやりと冷たく、奥へ進むほどに重たく感じられた。
やがて、シリウスが隣の兄に小声でささやく。
「……地下迷宮っていうより、ただの怖い階段じゃない?」
カールはにやりと笑った。
「階段の先に、もうひとつ扉があるんだって。そこが本当の入口らしいよ」
やがて最後の段を下りきったところで、彼らの前に立ちはだかったのは──
黄金の装飾が施された、重厚な鋼の扉だった。
二人は顔を見合わせ、小さく頷き合う。
そして手をそっと重ね、扉に押し当てる。
ゆっくりと、きしむ音を立てながら開いていくその向こう──
現れたのは、膨大な数の本が整然と並ぶ、書架の森だった。
◆◆◆
二人は、その光景に息を呑み、口を開けたまま立ち尽くした。
遥か高い天井からは、煌びやかなシャンデリアがいくつも吊るされている。放たれる光はどこか控えめで、ほの暗い空間を静かに照らしていた。
正面には、細い通路が、奥の闇へとまっすぐに延びている。その通路の両脇には、直交する向きに書棚が奥深くまで連なり、壁のようにそびえ立っていた。
二人の胸が高鳴る。
「ほんとに迷宮みたいだね。はぐれないように気をつけないと」
カールが朗らかな声を上げて、弟の手をぎゅっと握った。
「それと、不審者に幻覚を見せる魔法とか、危ない魔法があちこちに仕掛けられてるらしいから……防御魔法、張っておくね」
そう言って、カールは自分と弟を包むように透明な防護結界を展開した。
「うん、これで大丈夫。……まずは、ちょっと右のほうに行ってみようか?」
カールが微笑みながら、弟の手を引いた。
シリウスは、素直に兄についていく。
そうして二人の王子は壁沿いに進んでいく。
彼らの右手にそびえる壁面そのものも、すべて書棚だった。
重厚な木材の棚に、色あせた背表紙の分厚い本がずらりと並んでいる。
一冊一冊に刻まれたタイトルはどれも難解だ。
国王発言録、古代文字図鑑、星界観測記録、戦史年表、魔物戦記……。
その意味は、まだ二人にはよく分からない。
それでも、この荘厳な空間が放つ雰囲気だけで、高揚感は満たされていた。
しばらくして、地下空間の角へとたどり着いた。
二人の正面に現れた新たな壁は、今まで右手に見てきた壁とは、明らかに様子が違っていた。
そこは、比喩ではなく、──まるで本物の“森”のような雰囲気に包まれていた。
正面の書棚には、蔦の模様が絡みつくように装飾されている。
あちこちに花の蕾や、繊細に花弁を広げた花の絵が点々とあしらわれ、まるで息づく植物のようだった。
書棚と書棚の間を支える柱には、深緑の木々、清らかな川、そして鏡のように静かな湖の風景が描かれていた。
そのどれもが、ため息が出るほど精緻で、美しい。
ふと、シリウスが視線を上げた。そしてはっと息を呑んだ。
壁の高いところに、ひときわ大きな青い龍が描かれていたのだ。
そのとき、カールが静かに口を開いた。
「侍従が言ってたんだ。入り口から右手にずっと進むと、“青龍”が守る書棚があるって。きっと、ここがそうだよ」
シリウスが目を丸くして頷くと、カールは続けた。
「しかも、この“青龍”、ただの絵じゃないらしいんだ。侵入者から本を守るために描かれた、守護魔法の一種でね。侵入者を感知すると、壁から浮き上がって、襲いかかってくるんだって。ちょっと試してみたくならない?」
カールは目を細めて、にやりと笑った。
その顔を見たシリウスは、ぴくりと眉を上げる。
「……試すって、どうやって?」
不用意にそう訊ねたのが、間違いだったと気づいたのは、すぐあとのことだった。
カールは笑みを深め、静かにささやく。
「簡単なことさ。ここに“不審者”がいるように見せかければいいんだよ」
そう言って、カールは展開していた防御結界を、自分の身体だけを包むように縮小させた。
その結果、弟のシリウスは──完全に無防備な状態になった。
「……え?」
シリウスは不安げに兄の顔を見た。
◆◆◆
そのとき──
壁面に描かれていた青龍の紋様が、ふわりと淡い輝きを帯び始めた。
輪郭が滲むように青い光を放ち、やがて絵の中から抜け出すようにして、龍の姿がゆっくりと立ち現れる。
龍は、音もなく宙に浮かび上がった。
うねる胴、煌めく鱗。
一挙一動ごとに空気が張り詰め、冷たい気配が周囲に広がる。
シリウスは声も出せず、ただ呆然と見上げていた。
その瞬間、ひやりとした何かが、足首にまとわりつくのを感じた。
「……!?」
はっとして視線を落とすと──
書棚の隙間、そして床の石畳の裂け目から、無数の蔓と根が、まるで生き物のように這い出していた。それらは絡みつくようにして、シリウスの足をつかみ、体へと這い上がってくる。
息を呑んで叫びかけるが、声にならない。
必死にもがいて振りほどこうとするも、蔓と根は次々と伸びてきて、あっという間に四肢を絡め取り、シリウスの動きを封じ込めた。
恐怖が胸を締めつけ、今にも泣き出しそうになる。
「これが噂に聞く、青龍の魔法、第一段階。“封縛の蔓”……か」
カールは安全圏から弟の姿を見つめ、静かに呟いた。
助けに行くべきだ。そう思うのに、なぜか不思議と足が動かなかった。
まるで、青龍の魔法に心を奪われてしまったかのように。
一方、シリウスは涙を堪え、絡みついた蔓から逃れようと必死に身をよじった。
やがて、喉の奥から、掠れた声がようやく絞り出された。
「いたい……こわいよ……たすけて……」
その声が、ちゃんと兄に届いていれば──カールもさすがにここで助けに入ったかもしれない。
だが無念にも、その声は龍の巻き起こした風によってかき消されてしまった。
カールの返事はない。
その代わり──ふわりと、空気の質が変わった。
蔓の締め付けがわずかに緩まる。
そして、書棚の装飾に描かれていた無数の蕾が、一斉に弾けるように開花した。
色とりどりの花が、まるで命を得たように壁から浮き出し、美しく咲いていく。
「第二段階、“幻惑の花園”」
またひとつ、カールは静かに呟いた。
シリウスには聞こえない。
彼はただ、目前に広がる光景に見入っていた。
恐怖を忘れ、花の美しさに囚われていく。
それはあまりにも美しかった。息を呑むほどに。
──そして、どこか、狂っていた。
頭上遥か高くを舞っていた青龍が、大きく胴体をくねらせた。
その動きに合わせて、強い風が吹き抜けた。
花弁は舞い、蔓が踊る。
まるでこの空間すべてが、生きた絵画のように揺らめいていた。
風に乗って、甘く濃厚な花の香りが辺りに漂い始めた。
頭の奥がぼんやりと痺れ、視界が白くぼやけていく。
なぜか心地よかった。
(このまま美しい森の中に溶け込んでしまいたい)
そんな感情が、シリウスの胸の奥にふと芽生えた。
その刹那──ついに、青龍が翼を広げた。
ゆっくりと口を開き、白い吐息を吐き出す。
それはただの息ではなく、霧のような“瘴気”だった。
白く濃い霧が、シリウスの身体をゆっくりと包み込んでいく。
視界はますます曇っていき、意識が遠のいていく。
「最終段階、“青龍の裁き“」
防護結界の中にいたカールは、しばしその美しさに見とれていた。
あまりにも幻想的で、あまりにも異常な光景に、感嘆の息を漏らす。
ほんのひととき──弟の存在すら忘れていた。
◆◆◆
シリウスは、夢の中にいた。
濃密な霧に包まれた森の中を、あてもなく彷徨っていた。
頭の奥には鈍い痛みがあり、体は重かった。
森の中、どこへ進んでも霧は晴れなかった。
しばらく歩いた末に、朽ちた木の根元へ腰を下ろす。
座り込んだ途端、孤独で寂しい気持ちが胸に満ちた。
(……このまま、戻れないのかな)
なんとなくここが夢の中であることは自覚していた。
それでも、この霧の世界に飲み込まれてしまいそうな感覚があった。
目の端に、涙が滲んでいた。
手でそっと拭いながら、シリウスは考える。
この霧から抜け出すための、手がかりはないか──。
そこで、ふと脳裏に蘇るものがあった。
──「いたい……こわいよ……たすけて……」と口にしたとき、兄の返事は無かったけれど、まるで言葉に応えるかのように、蔓の締め付けが緩くなり、美しい花々が開花して、恐怖心が取り払われた。
──「このまま美しい森の中に溶け込んでしまいたい」という感情が湧いた時、青龍が白い息を吐き出して、この夢の中へと誘われた。
(もしかして、この魔法は、侵入者の言葉や感情にそのまま呼応している……?)
だとすれば──
抜け出す方法は、案外、単純なのかもしれない。
シリウスはもう一度涙を拭うと、力強く立ち上がって、声を振り絞った。
「僕は侵入者じゃありません。シリウス=アステニアです。本を盗むつもりも、悪さをするつもりもありません。だから……お願いです、ここからどうか出してください……!」
その瞬間、空気が震えた。
白く濃かった霧が、風に攫われるように消えていく。
森も、痛みも、身体にのしかかっていた重みも、すべてが洗い流されるように、音もなく溶けていった。
◆◆◆
そして──
シリウスは、ゆっくりと目を開いた。
そこは、元通りの地下空間だった。
先ほどまでの花も、蔓も、霧も、すべて跡形もなく消えていた。
もちろん、青龍も元通り書棚の装飾に戻っていた。
「あぁよかった……! 本当にごめん!」
カールが大粒の涙を浮かべて、駆け寄ってきた。
後で聞いた話では──
あの後カールは、必死に何度も魔法を放って、どうにか龍を退けようとしたらしい。だが、どの魔法も効かず、すべてが跳ね返されてしまったという。どうすることもできず、助けを呼びに行こうとしていたのだそうだ。
シリウスは、微笑みながら言った。
「もう大丈夫だよ。怖かったけど、きれいだったし、楽しかった。今日はちょっと疲れたけど……また今度、左側の壁も見てみたいな」
その言葉を聞くと、カールは顔をくしゃくしゃにしながら、ぱっと笑った。
「よし、また探検しよう!」
そう言って、二人は仲良く文書館を後にした。
その少し後、青龍の魔法が発動したことが露見し、王宮内は大騒ぎとなった。
やがて一連の出来事が明らかになると、二人の王子──特に兄のカールは、大人たちにこっぴどく叱られることになった。
けれどもそのころには、二人はすでに「次はいつ、地下迷宮に行こうか?」と、密かに新たな冒険の計画を立て始めていた。
(おしまい)
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
【おまけ情報】
本作の関連として、長編小説「『王国創始記リバイバル』──建国千年の真実と地下迷宮の謎──」を連載中です。長編小説のほうには、大人になったカールとシリウス、そして地下迷宮が再登場します!(主人公はまったく別です)
もし良ければ、そちらもチェックしてみてください!
作者の活動ページから見られますが、念の為にリンクも記載しておきます↓
https://ncode.syosetu.com/n9458kp/