35-8
私は慎重に見ようと思います。でも、慎重とは何ですか?私は私ではない何かの慎重を知り得ないのに、私は私の慎重を知り得るのでしょうか?私は私の慎重を、いつどこで覚えたのでしょうか?私は私ではない何かから慎重を教えられて私の慎重としたようですが、私の慎重は私ではない何かの慎重と同じではないので、私は私の慎重をも知り得ないのではないかと思います。だから私は、慎重とは何かを知らないまま、慎重に見ようとしていたように思います。「慎重」はただの便宜上の言葉らしいと考えます。ですから私は、自分が慎重なのか分かりません。そもそも自分とは何かが分かりません。もうこれ以上言葉など遣いたくないと思っています。言葉はいつも私を嘘つきにさせるので、もう言葉を遣うのを止めにしたいのです。慎重など誰も知り得ないと考えているのですが、誰もが慎重を知っていると言います。言葉など遣いたくはないのだけれど、昔から私は言葉を遣っていて、これからも私は言葉を遣っていくようです。でもいつかは、無言の行に。
いつかどこかで知らないうちに私は言葉を覚えてて、そしてここにいてもまださらなる言葉を探している。とてもうんざりさせられることです。私は私に言葉を教えてくれる誰かではないのですから、言葉を誰かのように正しくは遣い得ないと考えています。「正しい」という言葉の中身も私は知り得ないのでしょう。「知らない」も知り得ないのでしょう。私には感情を表す言葉が伝えようとしているその言葉の中身がうまく伝わって来ないようです。