第八話 カタストロフィ
阿佐ヶ谷総合病院で起きた残忍な事件以来、ぱたりと人が人を食う事件は一切起こらなくなった。
病院での事件後に警察に連れていかれた坂垣は、その後、研究室に現れることはなかった。学生たちは大学側に板垣と連絡を取りたい旨を伝えたが、「こちらも板垣教授とは連絡が途絶えている」との返答しか得られなかった。学生たちは各々で研究を進め、論文の指導は博士課程の学生や別の研究室の教授や准教授などが坂垣の代わりに行った。
クリスマスのイルミネーションが街中を照らし出した頃、希死念慮を抑制する新薬が開発されたという報道が発表された。
新薬の効果は絶大で、それはすぐに全国に広まり、SNSではこの新薬を服薬したことで以前の自分に戻ったようだと歓喜する人たちが現れると、たちまち拡散された。メディアではこの新薬を服薬し社会復帰をした人たちが多く特集されていた。実際に自殺者は日に日に減少し、希死念慮を持っていた者たちは仕事に復帰をしたり、学校へ戻ったりと新たな人生、そして、新しい社会が始まろうとしていた。
そんな中、総理大臣である緒方龍太郎が全国民に向けた緊急の声明をすると発表をした。その声明はテレビ以外にも、ラジオ、ネットの生配信でも放送される予定になっていた。
その臨時の会見の日が近づくにつれて政府は国民に向けて「大事な会見になる」からと様々な方法で伝達を行った。それを受けた社会全体は対応に追われ、そして、いよいよその日がやってきた。
板垣研究室のメンバーたちはいつもの研究室に集まっていた。
「モニターここでいいかな」長瀬誠と彼の同期である指山陵は視聴覚ルームから大きなモニターを借りて研究室に運んでいた。
「こんなでかいモニター何に使うんだろうな」指山はパソコンとモニターをケーブルで繋ぎながら言った。
「浦沢さんからはとりあえず集まれとしか言われてないからな。なんかの研究発表じゃないか」
ふたりが準備を進めていると牛久隆二と久保田聡が研究室に現れた。
「長瀬、指山、モニターありがとな」久保田は板垣が研究室に現れなくなってからというもの、学生の指導と自分の研究で心身共に疲弊しているようだった。
「ご苦労様」牛久は修士論文を書き上げ、無事提出したばかりで、最後の追い込みが表情に表れていた。
「先輩たち顔が死んでます。まるでゾンビじゃないですか」指山は特に何かを意図してというわけではなく、感じたことを口にした。
「おれもそのうちひとを食っちまうかもな」牛久も特に何も考えずそれに応えただけだった。
「指山、牛久」久保田が長瀬に目線をやりながらいった。
「あ、すみません」
視線を感じた長瀬は指山たちを見た。
「あ、大丈夫すよ。みんな疲れてんですよ」
長瀬の言う通り、板垣がいなくなってからというもの、それぞれの学生たちは心身を磨耗させ、疲労が容器から溢れる寸前であった。
長瀬は友人であった佐伯浩太が事件を起こして以来、体調を崩すことが多くなり、研究会も休むことが多くなっていった。
長瀬は彼が事件を起こした時の映像を見ていた。リアルタイムで見たのではなく、事件後、誰かがそのリアルタイムで配信されたものを再アップしたものを興味本位で見たのだ。長瀬にとってその映像は想像以上に残酷で恐懼に満ちたものであった。それを見た後、長瀬はまた自分を責めた。それから時間が経つにつれ、佐伯浩太のことを考えない日は少なくなっていった。そして、夜は眠れなくなり、YouTubeやSNSを見ることを避けるようになり、YouTubeという言葉を聞くだけで動悸がするようになってしまったのだ。最近では、長瀬は極力人と会わないように生活をするようになっていた。そんな日々を過ごす中で、浦沢彩月からLINEでメッセージが届いた。
「長瀬くん、調子はどう。最近、研究会の欠席が続いているから良くはなさそうね。体調が優れないところ申し訳ないけど、十二月二十四日の十一時に研究室に必ず来てほしいの。大事な話をしようと思ってるの。長瀬くんのこれからの人生にも関わることだから」
長瀬は「わかりました」とだけ返信をして、十二月二十四日を迎えた。
「長瀬、おまえ最近随分痩せたんじゃないか。ちゃんと飯食ってるか」久保田は憐憫の表情を浮かべながら言った。
「まぁ、それなりに。でも確かに前より身体は軽くなった気はします。前は食べ過ぎてたんでちょうどいいですよ」
「痩せるのも健康的に痩せないと身体本当に壊すからな」
「わかってますって」長瀬はここ数ヶ月で三十キロ近くも体重が減っていた。原因は食欲不振から来るものだと自分でもわかっていた。佐伯の事件依頼、食欲を含む、何かをしたいという意欲が日に日になくなっていった。
「カウンセリングしてもらった方がいいんじゃないか」久保田が本当に心配そうに長瀬に言った。
「自分でもおかしいってわかってるので、カウンセリング受けてるんですよ」
「そうか、それならよかった。とにかく無理はすんなよ」
「ありがとうございます」
時計の針が十一時三十分を指したとき、研究室のドアが開き、浦沢彩月が入ってきた。
「みんな、いろいろと準備ありがとね」
「浦沢さん、今日は何をするんです」久保田が聞いた。
「みんなに見てもらいたいものがあってね」
「見てもらいたいものっていうのは」
「総理大臣の臨時の記者会見」
「何かうちの研究室と関係があるんですか」
「それはあとから説明するわ。記者会見まであと三十分ね。まだ来てないメンバーもいるし、とりあえず座って待ちましょうか」そういうと浦沢は椅子に腰掛けた。
それに続くように他の学生たちも席に着いた。
研究室の中は静まり返り、誰一人として口を開く者はいなかった。そんな中、研究室の外の廊下から足音が近づいてくるのが聞こえた。その音から人ふたりがこちらへ近づいてくることがわかった。研究室の前で足音が止まり、ドアが開くと、学生たちは驚愕の表情を浮かべた。
「板垣教授」久保田が声を絞りだして言った。
板垣は特に何も言わず、研究室に入り、いつもの席に腰を下ろした。彼の頬は痩せこけ、目の下には濃いくまができていた。
もうひとりは飯田智子であった。彼女も同じく一言も話さず、研究室へ入り、坂垣の隣に腰を下ろした。彼女もまた、生気を感じることのできない表情、そして、いでたちをしていた。
「あとふたりね」浦沢はそのふたりをいつものメンバーかのように言った。
「あとふたりって新しい学生が入ったんですか」久保田が不思議そうに言った。
「まぁ、そのうち来ると思うから待ちましょう」
長瀬と指山は顔を見合わせ「誰だろう」とお互いが困惑しているようだった。
「ふたりが来る前に少し皆さんにお話しをします」そう言って浦沢彩月は立ち上がった。
「私が今ここにいるのは復讐をするためです」
研究室では聞くことのない言葉に長瀬、指山、牛久、久保田は言葉を発する浦沢を呆然と見つめていた。一方、板垣と飯田はバツが悪そうに俯いていた。
「二年前、新里亨さんという学生が自殺を図りました。自殺をした理由はある教授からの度重なるパワハラとアカハラ、そしてある学生からの嫌がらせ、いじめ。彼はそれに耐えられず首を吊りました。なぜ、彼はそんな目に合わなければいけなかったのでしょう。久保田くん、彼は人間的にそんな目に合わなければいけない存在でしたか」
「あ、いえ、新里さんはとても優しい方で僕もそうですが、新里からいろんなことを教えてもらいました。後輩たちはもちろん、他の研究室の方からも慕われていました」
「どうしてそんな人が自殺をするまで酷い目にあわなければいけなかったのでしょうか」浦沢は坂垣と飯田を睥睨しながら言った。
「牛久くん」
「は、はい」
「なぜ、新里亨さんは自殺をしなければいけなかったのかな。彼が自殺をした事で得をする人がいるからよね。それは誰かわかる」
「えと、それは」牛久は言葉に出さずとも目線で答えた。
「そうよね。このふたりよね」
板垣と飯田は俯いたままである。
「板垣教授と飯田さんは新里亨さんの研究を横取りするために彼を自殺に追い込んだ。この研究はとんでもない大金を生む研究ですからね。飯田さんは奨学金がたくさんありますもんね。それと慰謝料。それを返さないといけない。それを返したとしても、それでも充分なお金が飯田さんには入ってくる予定でしたね。でも、そんな簡単に人生はうまくいかないわ。だって、私がそれを全力で阻止するもの。あなたがやったことは強盗殺人と一緒。わかる」
飯田は肩を震わせていた。呼吸の回数も多くなっていた。
「板垣教授も同様。お金が必要なんですよね。不倫がバレて、離婚して莫大な慰謝料と療育費を払わないといけないですもんね。それは自分の責任でしょ。自分でなんとかしなきゃ。どうして他人を頼ってしまったの。そうそう、この人たち不倫関係だったの。でもバレちゃってね」
研究室にいる学生たちは次から次へと出てくる浦沢が語る衝撃的な事実に戸惑いを隠せず、頭を抱える者、顔を手で覆う者、目を見開きじっと浦沢の話を聞き入る者、各々が現実とは思えない現実を把握しようと必死だった。
板垣は肩を落としたまま動かなかった。
「飯田さん、そもそもあなたが教授を唆すからでしょ。こういう人たちは若い子に言い寄られたらすぐ舞い上がっちゃって我を忘れちゃうんだから」
「わかった。もう辞めてくれ。私のしたことを認めて、責任を取る」
「また勝手なことを言い出して。結局自分がよければいいんですよ。なんですか責任て。謝罪をして、大学を辞めるとかそういうことですか」
「そ、そうだ」
「そんなことで許されると思ってるんですね」
「じゃあ、どうすれば」
「最大級の恐怖を感じながら苦しんで死ねばいいんですよ」
板垣は彼女の言葉を聞いて言葉を出せなかった。
「飯田さん、あなたもよ」
飯田も驚愕の表情をし、その表情は段々と崩れ始め、涙が流れ、嗚咽を始めた。
「失礼します」その声と同時に研究室のドアが開き、新里摩耶がドアの隙間から顔を出した。
「あれ、新里さん」長瀬が新里摩耶の姿は見たのは数ヶ月ぶりであった。
「長瀬くん、久しぶり。え、なんかめっちゃ痩せたね。彩月さん、お兄ちゃん入っていい」
「いいわよ」浦沢はドアを開け、彼女たちを招き入れた。
新里摩耶は男の腕と肩をしっかりと掴み、男を研究室の中にゆっくりと導いた。
「新里さん」久保田と牛久は声を揃えて言った。
「新里くん、君は」板垣は愕然と口を開き言った。
「いや!」俯き泣いていた飯田は顔を上げ、新里亨を見ると悲鳴をあげた。
「飯田さん、それはないんじゃない。新里さんに失礼でしょ」冷たい目線で蔑むように言った。
「亨さんと摩耶ちゃんはここに座って」新里亨と新里摩耶は板垣と飯田と向かい合うように座った。
「じゃあこれから総理大臣の記者会見をみんなで見ましょうか」浦沢がそう言うと、研究室のドアの鍵が自動でかかった。
「総理大臣の会見が終わるまで皆さんはここから出られないように警備の方に頼んでおきましたので、ゆっくり総理大臣の会見をお楽しみください」浦沢は不敵な笑みを浮かべた。
総理大臣はいつもにこやかで柔和な雰囲気を出していていたが、今日は威風堂々と何か覚悟を決めたような立ち振る舞いで、カメラの前に現れた。
「国民の皆様、それではこれより臨時の記者会見を始めさせていただきます。恐らく国民の皆さまのほぼ全員がこの記者会見を見られていることかと思いますが、まずは今日に至るまで、この臨時の記者会見のために様々な調整をしていただいた方々に感謝申し上げます。誠にありがとうございました。さて、まず私自身のことからお話しをさせていただきます。私は過去に数回、自殺未遂をしています。最初に自殺を図ったのは新型のウイルスが漸く落ち着いてきた頃だと思います。私は国民の皆さんのためにこれまで尽力してきたつもりです。時には私の決断が国民の皆さんに批判されることもありました。国民の皆さんは私を国のトップだと認識しているでしょうが、実際はそうではありません。国のトップという象徴的なものに過ぎないのです。物事を決める時や動かす時、私が何かを決断するわけではありません。私の周りの人たちが決めて、わたしが責任だけを負って決断を下すのです」
総理大臣がそう言うと、記者会見が行われている会場にいる関係者たちがざわつき始めたが、総理大臣は構わず話しを続けた。
「私は弱い人間です。必ずしも強い人間が組織のトップになっているわけではありません。しかしながら、強い人間がトップになることもあるでしょう。そういった場合は、トップに従う者たちの中に弱い者が生まれます。弱い者がトップになった場合は、私のように強い者たちにうまいこと使われていく者もいます。つまるところ、今この私たちが生きる社会は弱い人間が生きづらい、いや、すぐに死んでしまうような世の中になってしまっているのです。国民の皆さんは現在、日本にはどのくらいの人たちが自殺で亡くなっているかわかりますか。毎年、多くの方々が絶望に耐えられず自殺で亡くなり、残された人たちもまたその絶望を引き継ぎ生きていかなければなりません。私はそういった人たちを助けたいと心から思っています。私自身、自殺を図り、痛いほどその苦しみや辛さをわかっています。どんな思いで生活をしているか、私はわかっています。だから救ってあげたい。その想いで、新薬の開発に力を入れてきました。その新薬が自殺願望のある人たちに効果がとても出ていて、今までの辛さや不安が軽減したことで、学校や職場に復帰されている方々が多くいると報告を受けています。しかし、希死念慮は一度心に宿ってしまったら死ぬまでなくなることはありません。何故なら、希死念慮を持った時にはもう心が死んでしまったからです。人間は死んでしまったら、生き返ることなどできません。心も一緒です。心が一度死んでしまったら、もうそこで終わりなのです。新薬は表面上は患者さんたちが良くなっているように見えますが、実際は心は死んだままです。では、どうすれば希死念慮がなくなるのか。それは根本的にあるものを無くせばいいのです。根本的にあるものとは何か。それ希死念慮を持つ人を苦しませたに側の人間です。希死念慮を持つ人たちの多くは他人からなんらかの形でストレスを与えられ続けられた結果、希死念慮を持つことになるのです。だから、その希死念慮を生み出す人間を排除すればいいのです。それは自分の手で排除しなければ意味がありません。簡単に言ってしまえば、復讐や報復と言ったことです。悪いことをした人間には罰を。希死念慮に悩む皆さん、今日で悩みの種はこの世からなくなります。思う存分、あなたたちを苦しめた人たちに仕返しをしてください」そう言うと、総理大臣はCDケースからCDを取り出し、スピーチ台に用意しておいたCDプレーヤーにCDをセットした。
「優しい人間が報われる世界であってほしいと私は願ってきましたが、この世界は優しい人間が悪魔に豹変しなければいけない世界になってしまったのです。どうか、この世界が素晴らしいものになりますように」そう言うと、総理大臣はCDプレイヤーの再生ボタンを押した。
CDプレイヤーから音楽が流れ始め、しばらくすると総理大臣は白目を抜き、ケラケラと笑い始めた。それを見ていた側近たちが総理大臣に近づき、彼をスピーチ台から下ろそうとした。その時だった。総理大臣がひとりの側近の首に噛みつき、噛みついたと思った瞬間には彼の首の皮を噛みちぎっていた。その側近が首から大量の血しぶきをあげながら倒れると、総理大臣はケラケラと奇声のような笑い声をあげ、今度は違う側近の首を噛みちぎり、首を噛みちぎられた者は首から大量の血が吹き出しその場で倒れた。狙った獲物が倒れると総理大臣は次の獲物を見つけ、その獲物の首を噛みちぎった。
総理大事の奇行に会見場は混乱を極めた。彼の獲物たちは逃げまどい、彼はまるで鬼ごっこでもするかのように獲物を追いかけまわし、それを捕まえると、すぐに捕食した。耳を食われる者、目玉を抉り取られ食われる者、腕を引きちぎられる者、そこは地獄そのものであった。
渋谷のスクランブル交差点には食う者から逃げる者が四方八方からやってきて、スクランブル交差点で食われる者、逃げた先に車が突っ込んで轢かれる者、ビルの高層階から食う者と一緒に落ちてくる者、その光景のあまりの恐怖にライターオイルを全身にかけ焼身自殺する者、まさに阿部地獄の世界がそこにはあった。
高円寺パル商店街では、高円寺駅の方へ逃げまどう人が押し寄せていた。商店街に並ぶ古着屋、雑貨屋、古本屋、カレー屋、クリニック、歯医者などの中から血まみれの人たちが逃げるように出てきて、高円寺駅の方へ走って逃げていた。
大阪、梅田も混沌としていた。複合商業施設のヘップファイブの屋上に併設されている観覧車を見ると、観覧車の窓のいくつかが赤く染まり、またいくつかの観覧車のゴンドラはゆらゆらと揺れていた。中で人が暴れているのだ。心斎橋筋では人が燃えていた。燃えながらも獲物を追いかけていた。
博多の那珂川は赤く染まり、何百もの死体が下流へ流されていた。中州でも至る所で悲鳴や怒号が響いていた。遠くでは火の気も上がっていた。サイレンの音が博多中で鳴っていた。
広島、呉の繁華街では、逃げ回る人を助けようと、ヤクザが日本刀を振り回し、食う者の首を切り落としたり、半グレたちがバットで食う者たちの頭をかち割っていた。
札幌の上空では、飛行機が煙をあげて飛んでいた。やがてその飛行機はテレビ塔を真っ二つに折り、そしてそのまま墜落し、時計台を破壊した。
研究室にアイドルが歌う音楽が流れ始めると、新里亨と新里摩耶の身体が小刻みに震え始めた。ふたりは何かに耐えているかのように奥歯をくいしばり、そして、眼球は天井を向き、いよいよ白目だけになった。
「新里さん!」長瀬が新里に近づこうと立ち上がった。
「そこにいなさい!」浦沢は鋭い目付きで長瀬を睨み言った。
それに気圧された長瀬は静かに腰を下ろした。
「あなたたちは、ここで何が起こるかしっかり見ておきなさい。これが今、日本中で起きていることなの」
アイドルが歌う音楽は研究室に流れ続けていた。新里兄妹は身体の震えが大きくなり、更に頭を上下左右に首が取れてしまうのではないかというくらいの勢いで振っていた。
「いやー!」飯田が叫び、そして立ち上がり、ドアの方へ駆け出した。しかし、ドアを開けようとするが、施錠がされていて開かなかった。
「誰かー! 助けてー! 殺されるー!」飯田は泣き叫んだ。
それを見て、浦沢は憫笑した。
「新里くんやめなさい。こっちに来るな」板垣は椅子を引きずりながら後退りしていた。
新里亨は椅子からひとりで立ち上がり、ゆっくりと坂垣の方へと近づいていった。彼の目は白目を向き、口角を上げていた。どこか嬉しそうな表情にも見えた。
板垣は恐怖のあまり立ち上がれなくなっていた。
「来るな!」自分の腕を新里の方へやると、新里はその手を素早く取り、板垣を椅子から引き摺り下ろした。そして、新里は坂垣の首に噛みつき、一瞬で板垣の首の皮と肉を剥いだ。その瞬間、坂垣の首元から血飛沫が上がった。その血はドアを開けようと必死に抗う飯田まで飛び散った。
飯田が振り返ると新里摩耶が白目を向き、にたーっと笑っていた。それはほくそ笑んでいるようだった。
「いやー!」飯田が耳を刺すような悲鳴を上げた瞬間、新里摩耶は飯田の首に噛み付き、一瞬にして彼女の首の肉を剥ぎ取った。飯田の首から血飛沫が舞い、その血は長瀬、指山、久保田、牛久を赤く染めた。
板垣はフロアに倒れ、覆い被さるように新里亨が板垣の身体の上に乗り、首の肉を噛みちぎり、くちゃくちゃと耳障りな音をたてながら咀嚼をしては飲み込み、首の肉がなくなると今度は板垣の頭をフロアに叩きつけた。頭蓋骨が割れ、新里亨は割れた頭蓋骨の隙間に手を入れスイカを手で半分に裂くかのように頭を半分に割った。割れた頭から脳みそがフロアに溢れ落ち、それを新里亨は両手で掬い上げて、ズルズルと口で吸った。あっという間に板垣の脳みそは新里亨の胃の中へ収まってしまった。
飯田はフロアに倒れ、手足がピクピクと辛うじて動いている状態だった。新里摩耶は顔を血で真っ赤に染めながら飯田の頬を食べていた。頰がなくなった飯田の顔は歯が剥き出しになり、どこか口を大きく開けて笑っているようにも見えた。
いつの間にかアイドルが歌う歌は終わり、研究室は静寂に包まれていた。静かな研究室に血の匂いが充満していた。しばらくすると、施錠されていたドアの鍵が開いた。遠くで救急車やパトカーの音が鳴っていた。
「じゃあ、私は行くわね。お疲れ様」浦沢はそう言うと、上着のポケットから一輪の待雪草を取り出して、それを床にそっと置き、研究室を出て行った。
浦沢が研究室から出ていってから、新里兄妹は板垣と飯田を食い続けた。その恐ろしく残虐な光景を目の当たりにし、残された学生たちはただ呆然とそこに佇んでいた。