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真夜中に咲くガランサス  作者: 一ノ木深緑
7/13

第七話 痼疾

 雨が昨夜から降り続いていた。

「板垣教授、阿佐ヶ谷総合病院で事件があった当日、小武美沙と接触していますよね」

「ええ、お会いした時はとても穏やかな様子だったので、ニュースを見てとても驚きました」板垣は高井戸署で刑事課の千田の取調を受けていた。

「小武美沙と会った理由をお聞かせください」

「カウンセリングです」

「どういった経緯でカウンセリングに至ったのでしょうか。本来ならば、カウンセリングは阿佐ヶ谷総合病院の医師や心理士が行うことになっていると病院の方からお聞ききしています。なぜ、板垣教授がカウンセリングをされたのですか」

「小武さんの主治医の荻原先生からの依頼ですよ。荻原先生から電話があり、その後すぐに病院に行きました」

 

 板垣が大学の自室で学生の論文の添削を行なっていると、スマホの着信音が鳴った。

「はい。わかりました。すぐ行きます」板垣はそれだけ言うと電話を切り、机の鍵の掛かった引き出しを開けてCDを取り出した。そのCDを鞄に無造作に入れ、自室を出た。

 大学から阿佐ヶ谷総合病院まではタクシーを使い十分とかからない。板垣が病院に着くと、病院の玄関前には小武美沙の主治医である荻野が彼を出迎えるように立っていた。

「坂垣教授、お忙しいところ申し訳ありません。準備が整いましたのでご連絡させていただきました。こちらへどうぞ」そう言うと荻原は坂垣を小武美沙のいる部屋へ案内した。

「小武さん、こちらこの前お話した明和大学の板垣教授です。今から板垣教授とお話をしていただけますか」

「こんにちは。お忙しいところわざわざありがとうございます」美紗は読んでいた本を閉じ会釈をした。

 三人は挨拶を済ませると、病室を出て、荻原が用意した部屋へと向かった。

「では、こちらのお部屋をお使いください」そう言うと荻原は踵を返しを廊下を戻っていった。

 相談室と書かれた部屋の中には、テーブルと椅子が一脚ずつあるだけだった。

「どうぞ、おかけになってください」板垣は美紗に座るよう促した。

「失礼します」

「荻原先生からはいろいろと聞いています。まだ死にたいと思うことはありますか」

「そうですね。まだ死にたいという気持ちは残っている気はします。この病院にいるからかもしれません」

「それはあるかもしれませんね。恐らく小武美沙さん、あなたのその希死念慮の原因は元を辿れば、この病院で働いていたことですからね。ここにいれば必然的に嫌なことを思い出すでしょ」

「そうですよね。転院は難しいんですよね」

「そう、荻原先生からは聞いています」

「そうですか」美沙は一段と表情を暗くした。

「私の研究のひとつに音楽療法というものがあります。聞いたことはありますか」

「はい。小児科にいた時に子どもたちが受けていたのを見ていましたが、遊んでいるというか、楽しんでいるというかそんな風に見えていたので、治療というイメージはないです」

「音楽療法にもいろいろと方法があるのですが、小武さんには今回、音楽を聞いていただいて、今抱えている希死念慮を軽減できればと考えています」板垣はそう言い終わると、鞄からCDとCDプレイヤーを取り出した。

「聞くだけですか」

「ええ。これをお貸ししますので、また死にたいと思った時に聞いてみてください」

「どんな音楽なんですか」

「アイドルです」

「アイドルですか。それは意外ですね。なんかもっとヒーリングミュージックみたいなものを想像していました」

「音楽療法っていうとそういうイメージを持たれる方も多いかと思います」

「まぁ、でも大学の先生がそう言うのではあれば聞いてみます」


 板垣は千田をじっと見つめ、千田の言葉を待った。

「なんなんですか、そのCDは。おかしいじゃないですか。そのCDを聞いた後に小武美沙も含め、これまでも複数の人間が人を食うって」千田は感情に任せて机を拳で叩いた。

「そうですね。異常なことが起こっていることは私も認識しています。しかし、私が渡したCDを聞いただけで人が殺人鬼に変貌するなんてSFの世界じゃないですか」

「そうですが、しかし、実際このCDを聞いた人たちが人を食っていることは事実です」

「このCDを聞いた人が人を食べるというのではあれば日本中でそういった事件は多発しているはずですよね。しかし、警察のお話によると小武美沙さんを含めて都内で五件だけというじゃないですか。しかし、最初の事件以外で、私がCDを渡した方たちが事件を起こしていることはわかっています。ただ、さっきも言いましたがCDを聞いただけで人を殺すほどの人格が変わるなんてありえないですよ。警察がそういう主張をするならその証拠を提示してくださいよ。私はいちカウンセラーとして、彼らに音楽を聞いてもらっただけです」

 千田が言い淀んでいると、取り調べ室のドアが開いた。

「千田、ちょっと」千田と同じく刑事課の阿部が千田を外に連れ出した。

 取り調べ室の外では何か言い争っている声が聞こえていた。板垣は腕時計を見て、溜息を吐いた。高井戸署に来て、3時間が経過していた。

「板垣教授、今日はお帰りください」千田が口調は穏やかだが表情を見ると、怒りが滲み出ているのがわかった。


 板垣が高井戸署を出ると、タイミング良くスマホの着信音が鳴った。

「ご配慮ありがとうございます、今、警察署を出ました」

「そうですか。お疲れ様でした。今回の件で、データは揃いましたので、近々、大臣から発表があると思います」

「そうですか。一体これから何が始まるんですか」

「大臣が望まれたことですからね。始まりは混沌とするでしょうが、今のこの世の中よりは素晴らしい世界になると思いますよ」

「そうですか」

「不安ですか」

「僕には到底想像もできないことですから」

「世界の浄化、そんな風に考えてみるのもいいかもしれませんよ」

「浄化ですか」

「ええ、あの薬で世界を掃除するんです。そして、弱い人間が救われる世界へ世の中は変わるんです」

「大臣からの発表が終われば、私の役目も終わりですか」

「そうですね。それまでは大人しくしていてください」

 板垣は電話を切り、ひとつため息を漏らした。


 長瀬誠を始め、研究室の学生たちは大学の研究室で板垣教授の到着を待っていた。

「もし、板垣教授が事件に関与していて逮捕なんてされたら俺たちはどうなるんですかね」修士二年の牛久隆二は抱えている不安が表情から溢れ出ているようだった。修士一年の長瀬誠と指山陵も同じように暗澹とした表情をしていた。学生の中で飯田智子だけは無言で険しい表情をしてた。

「心配すんなって。大丈夫だよ。俺たちは事件に何も関係してないんだから。とばっちりもいいとこだろ」博士課程三年の久保田聡は後輩たちの不安を察し、わざとらしく声のトーンを上げて言ったが、彼自身も不安で押し潰されそうであった。久保田はすでに博士論文を書き上げ、次年度の就職先も決まっていた。それが今回の事件で白紙になってしまう可能性も考えられる。そうなってしまったらこれまでの彼の並々ならぬ苦労が水の泡になってしまう。

「今は坂垣教授が今回の事件になんらかの形で関わっているのは確かだと思うわ。でも、それも推測の域を超えないのも事実よね。だから今はもう少しいろんなことがわかってくるまで辛いと思うけど耐えましょ。学生の皆は大丈夫よ。ちゃんと卒業できるし、就職もできるから」諭すように浦沢彩月がそう言ったことで、研究室の重たい空気はほんの少しだけ柔らかくなった。

「じゃあ教授が来るまで私たちだけで研究会をしていましょう」


 結局、研究会が終わるまで板垣は現れなかった。

「浦沢さん、僕の友人の佐伯浩太のことでお話があるんですがお時間ありますか」長瀬は他の学生たちが研究室から皆出ていったことを確認して言った。

「長瀬くんの友人だったのよね」

「はい。ニュースで見ましたが、佐伯も板垣教授に会っていたんですよね。坂垣教授は佐伯に何をしたんでしょうか。佐伯はあんなことをするような人間じゃないんです。何か板垣教授にマインドコントロールか何かをされたんじゃないかと考えてしまって。浦沢さんは何か知りませんか」

「残念だけど、私にも坂垣教授の周りで起きていることについては何もわからないの。でも、板垣教授が何らかの形で関与していることは間違いないわ。警察はその証拠を見つけてきっと坂垣教授は逮捕されると思うわ」

「やっぱり坂垣教授は今回のこの事件に何か関係しているんですね。それに、ニュースで言っていましたけど、事件を起こした人たちは希死念慮を持っていたって」

「板垣教授と面談をした人、そう、ニュースが言う通り、希死念慮がある人たちが事件を起こしているのよね」

「ということは佐伯もやはり自殺を考えていたんでしょうか」

「それは私は把握していないわ。でも、その可能性はあるわね」

「佐伯もそうですが、事件を起こした人たちは今どこにいるかわかりますか」

「留置所で勾留されているわ。私も担当していたクライエントが事件を起こして、一度面会に行ったの」

「え、面会できるんですか」

「いえ、面会というより警察に協力したという感じよ。長瀬くんも石川さんが事件を起こした時に行ったでしょ」

「はい」

「長瀬くんも見て感じたと思うけど、まるで別人のように感じなかった」

「感じました。心ここに在らずというか、魂が抜けてしまったような、そんな印象を受けました」

「そう。私は死人のように見えたわ」

「死人ですか」

「ええ、心が死んでしまった死人」

「佐伯もそんな状態に今なってしまっているんでしょうか。僕、ずっと考えてるんです。なんでこんなことになってしまったんだろうって。石川さんのこともそうだし、佐伯のこともです」

「自分を責めることはないわ。長瀬くんはその時にできることを精一杯やったと思うわ。だからそんなに考えこまないこと」

「でも」

「長瀬くん、今夜は予定あるの」

「いえ、ないです」

「じゃあ、飲みにでもいこう。ちょっと気分転換しに行こう」

「でも」

「でもでもって女々しいなぁ。ほら、荷物持って行くよ」

 長瀬は浦沢に背中を押されながら大学を出た。

 ふたりは大学を出て、高円寺へと向かい、中通りに入ってすぐの狭い路地にある沖縄料理屋に入った。扉を開けるとカウンター越しから八十歳は超えているだろう老婆が優しい声でふたりを迎えてくれた。店内は沖縄民謡が流れていた。

「おばちゃん、オリオンビール二つください」

「はいよ」

 オリオンビールが机に並べられるとすぐにふたりは乾杯をし、浦沢はコップ一杯のビールを飲み干し、ビンに残ったビールを継ぎ足した。長瀬もとりあえずコップ半分のビールを飲んだ。

「僕、佐伯と会った時に全然気付かなくて、もっとちゃんとした対応をしていればこんなことになってなかったんじゃないかって思うんです」

「それは無理よ」浦沢はコップのビールを飲み干し、テーブルにコップを置いて続けた。

「今、日本ではどんなくらいの人たちが一年間で自殺してる知ってる」

「確か、厚労省の調べでは昨年は三万人でしたよね。でも年々減っていってるんですよね」

「その通り。なんで自殺した人は自殺をしたと思う」

「それはいろんな利用が考えられると思いますけど、人間関係とか経済的な理由とか、病気に耐えられないとか」

「そうね。統計上はそう表しているわよね」

「違うんですか」

「違くはないわ。ただ、その原因を辿ると結局は人に辿り着くの」

「人ですか」

「そう。結局は人が人を自殺に追い込むの。だから人がいる限り自殺は減らないわ」

「なんか極論すぎませんか」

「仕方ないじゃない。そういう世界なんだから、私たちが生きている世界は」

 長瀬は眉間に皺を寄せ、考えを巡らせていた。

「考えても無駄よ。結局は行きつくところは一緒。ほら、飲め、若造」そういうと浦沢は長瀬のコップにビールを注いだ。

「とにかくさ、長瀬くんがそんなに落ち込む必要はない。すべてはこの世の中が悪いの」

「世の中ですか」

「そう、世の中。世の中が希死念慮を作り出しているの。だから世の中を変えない限り、自殺はなくならない。おばちゃん、泡盛ロックでひとつ」

「はいよ」

「そうですかね」長瀬はどうしても浦沢の言うことに納得がいかなかった。

 浦沢は泡盛をビールでも飲むかのように喉に流し込み、「くーっ」と漏らした。

「だってさ、いまの総理大臣も何回自殺未遂してると思ってんの」

「え、そうなんですか。そんなこと報道されてませんよね」

「え、そうだっけ」

「なんで、浦沢さんはそんなこと知ってるんですか」

「だって私のクライエントだもん」浦沢の目じりは下がっていた。

「えー、大学内で一度も総理大臣見たことないですよ」

「大学の相談室になんて来るわけないでしょ。こっちが行くのよ」

「あの官邸ってところに行くんですか」 

「そうよ」

「ていうか、そんなこと言っていいんですか」

「だめに決まってんでしょ。オフレコってことで。ははは」

 その後、ふたりは一時間程飲んだ後、店を出た。

「浦沢さん、大丈夫ですか。帰れますか」

「大丈夫、今日は高円寺に泊まるから」

「近くに知り合いいるんですか」

「そうそう。じゃあ私こっちだから。じゃあ、また研究室でね。そんなに落ち込むなよ、青年!」浦沢は今にも倒れそうになりながらふらふらと庚申通りの方へ歩いて行った。

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