第四話 蛇蝎
この部屋に入ると耳の奥が痛くなる。長瀬誠はいつもそう思いながら部屋の椅子に腰掛ける。そこには、正方形の白い壁に大きめのテーブルと座り心地がイマイチの椅子が四脚、そして小さな窓がひとつだけある。ドラマなどでよく見る警察の取り調べ室みたいだと、長瀬はこの部屋に最初に入った時に思った。それが第一相談室だ。
「今日は花粉が飛んでるんですが、石田さんわかりますか」
「いや、まったくわからないですね。今の時期も花粉て飛んでるんですね。3月とかによくニュースで花粉飛散予報みたいなのをやってますよね」石田凛太郎は窓の外を見ながら答えた。
「僕の場合、ブタクサなんで、飛散の時期がこの時期なんです。不思議ですよね。花粉を感じる人とそうでない人がいるんですよね。僕はブタクサの花粉症なのでこの時期になると鼻や目で花粉を感知するんです」
「感知ですか」
「はい。鼻がムズムズっとしてくるんですよ。あとは、目も痒くて痒くて仕方なくなるんです。それが花粉がやってきたという合図なんです。そしたら僕はこうしてマスクをして、外に出る時は花粉用の眼鏡をして、耳鼻科で花粉症の薬をもらって花粉テロに備えるわけです」長瀬は窓に向かってファイティングポーズを取った。
「テロだなんて大袈裟な」石田は表情を少しだけ崩し、肩の力を抜いた。
「石田さん、今日はどうされましたか」長瀬は石田の肩が下がったことを確認して話題を変えた。カウンセリングで本題に入る前にクライエントの緊張をほぐしてから本題に入るように心がけている長瀬は今日もいい出だしだと自分自身を安心させた。
「子どもがもうすぐ幼稚園に入るんです」
「ということは、今年で4歳ですか」
「子どもの成長はとても早く感じますよ。ついこの前、産まれたばかりで、こんなに小さかったのに、最近じゃ自分が一番って感じで、反抗まではいかないですけど、こちらもイラッとしてしまうことがあるんです」後ろめたい気持ちがあるのか石田は少しだけ俯きながら続けた。
「それで、イラっとした時に父の顔が浮かぶんです」
「最近、お父様には」
「近くに住んでますからね。時々、子どもの顔を見にくるんですよ」
長瀬は言葉を発さず、石田の言葉を待った。
「大丈夫ですよ。うちの子どもには優しく接してますから。でも、僕と父がふたりになると、子育てのこととか、仕事のことで嫌みたらしくぐちぐちと小言を言ってくるんです。僕はそれを我慢して聞いてるんです」
「それは辛いですね。そんな風に言われると子どもの頃の事を思い出しますか」
「そうですね。思い出します。そして、恐怖を感じます」
「お父様にですか」
「いや、私自身にです。私も父のように自分の息子にいつか暴力を奮ってしまうんじゃないかって、すごく怖くなるんです」石田はぐっと手に力を入れているようだった。
石田は幼い頃から父親から暴力を受けていた。石田の父親は無口で言葉で何かを伝えることはほとんどなく、例えば、石田が何か悪いことをすればまず平手打ちを食らわすのだ。平手打ちで吹き飛んだ石田を無理やり立たせ、さらに平手打ちを食らわせる。それは日常の中で何度も、何度も、繰り返された。そうやって悪いことをすると痛い目に合うということを教えられたのだ。
石田は小学6年生の時に父親の暴力から解放されたいと、庭の柿の木に紐吊るして、首吊り自殺を図ったことがあった。しかし、身体の重みで枝が折れ、石田はそのまま落下し、結局、足の骨折だけで済んだ。その時も父親は「大事な柿の木の枝を折りやがって」と石田に平手打ちを食らわした。
その後も、父親から暴力を受け続ける日常は変わらなかった。中学、高校と進み、家に帰れば父に怯え、家にいない日も頭の片隅には父親の影がちらつくのだった。
高校生の時も一度、石田は自殺未遂をしていた。その日もやはり父親に殴られた日だった。殴られた理由は覚えていない。
石田はその日の夜中、瓶に入った風邪薬をすべて飲んで自殺をしようとしたのだ。これで死ねると思いながら意識が遠くなっていったが、翌朝、いつものように父親に怒鳴られながら起こされた。ふらつきながらリビングへ行き、ぼーっとした頭で朝食を食べた。父親も母親も兄弟も祖父母も誰も昨夜、自分が自殺を試みたなんて気づいていないようだった。父親に「朝からぼーっとしてんじゃねぇ!」と平手打ちをされ、そのまま高校に登校した。
高校卒業後、石田はアメリカへ留学した。とにかく父親から離れたかったからだ。しかし、父親を説得するのは容易なものではなかった。なんとしてでもアメリカ留学を決めたかった石田は父親に土下座までしたのだ。子どもが父親に土下座をする家族というのは存在するのだろうかと石田は頭を床にべったりと付けながら考えていた。
「どうかアメリカで英語を勉強させてください。お願いします」留学なんてどうでもよかった。英語なんてどうでもよかった。ただ父親から遠く離れられればそれでよかったのだ。
結局、父親は留学を許し、石田は2年間アメリカへ行くことになった。
石田はそうして漸く父親の暴力のない平穏な生活を送ることができるようになったのだ。このままアメリカに残りたいと強く思ったが、父親との約束があった。約束というより契約というのか。
「留学は許す。しかし、留学費用は今俺が出すが、留学が終わったら、日本に戻って日本の大学に入って日本の企業に入って、俺が出した金をすべて返せ。それを約束できるなら留学に行ってもいい」それが留学に行く条件だった。
あっという間に終わってしまった留学から帰国した石田は東京の大学の夜間部に3年次編入学をし、実家から毎日大学に通った。ご想像の通り、父親からの暴力は再開された。
石田は父親の暴力に耐えながら、昼間はアルバイトをして父親に払ってもらった留学費用を貯めながら学生生活を送った。大学は優秀な成績で卒業し、大学卒業後は都内にある英語の教材を販売する会社の営業職に就いた。毎日に必死で働いた給料の一部は父の口座に消えていき、何のために働いているのだろうと暗い気持ちになることが日に日に増えていった。そんな中、職場で知り合った女性と石田は結婚し、数年後に子どもを授かった。
父親のいる実家の近くに住んでいるのは、妻の実家が九州にあるため、石田の実家家族に子育てを手伝ってもらうためだった。父親は一緒に住めばいいだろうと言ってきたが、妻がなんとか説得をしてくれ、それはなんとか免れている状態だった。しかし、時々、父親がやってきて石田に何かと文句をつけて帰っていくのだ。
「最近また希死念慮が出てきて」
「死にたいということですか」
「はい。でも、子どものことを思うと踏みとどめられてるというか。やっぱり、僕がもしいなくなったらって思うと、子どもや妻がかわいそうで」
「そうですよ」長瀬は次の言葉を頭の中で選んでいたが、どの言葉もそれが石田にとって適切な言葉なのか判断がつかずにいた。
長瀬が返答に逡巡しているとコンコンとドアが鳴った。ドアの方を見るとドアを少しだけ開け、板垣教授がそこから顔を出していた。
「石田さん、こんにちは。私もお話しいいですか」
「板垣先生こんにちは。あ、どうぞどうぞ」
板垣は静かにドアを閉め部屋の中に入った。
「調子はいかがですか」
「よくはないですね」
「お父様との関係ですか」
「そうですね」
「少しだけふたりでお話ししましょうか」
「じゃあ、僕はこれで」長瀬はすぐに立ち上がり、石田に会釈し、部屋を出た。
この部屋の中の会話は部屋の中にマイクが設置されていて、別の部屋でも話が聞こえるようになっている。板垣は別部屋で長瀬と石田の会話を聞いており、タイミングを見て部屋へやってきたのだ。
長瀬は部屋を出ると、相談室の事務室へ行き面談の記録を書くことにした。記録を書きながら自分のカウンセラーとしての未熟さを噛みしめていた。
面談の記録を書き終えようとした頃、石田と板垣が相談室から出てきた。
石田は和かに板垣に挨拶をし、エレベーターに乗って足取り軽やかに帰っていった。
「板垣教授、石田さんどうでしたか」
「自殺の話題が出たから驚いたろ」
「はい。正直、どんな言葉をかけたらいいか迷ってしまいました。教授がいらしてくれて助かりました」
「まぁ、ここでいろんな経験積んで、自分の理想とするカウンセラーになりなさい」
「はい。勉強させてもらいます。今後ともご指導よろしくお願いいたします」
「頑張ってね」板垣は長瀬の方にポンと手を置き、自室の方へと戻っていった。
次の日、長瀬が大学へ行くと大学の入り口前に報道陣らしき集団が誰かが出てくるのを待ち構えている様子が遠くから見えた。
長瀬は報道陣たちを避けるように裏口から大学に入った。エレベーターで上の階へ行き、相談室がある階でエレベーターの扉が開くと、そこで板垣研究室のメンバーたちが集まって何かを話していた。
「やばいことになってるぞ」長瀬と同期の指山稜が長瀬を見つけるとすぐ飛んできた。
「やばいってなんだよ。牛久先輩の修論のデータ改ざんがついにバレたか」
「データ改ざんなんてしてねぇよ」牛久隆二が長瀬の頭は小突いた。
「痛っ」
「面談が入ってるから来てみたらこの騒ぎだよ。ていうか、長瀬お前、石田さんの担当だろ」
「はい。それがどうしたんですか」
「なにも聞かせてないんだな。まあ、今朝起きた事件だからな」
「事件。事件ってなんですか。石田さんもしかして自殺しちゃったんじゃ」
「逆だよ」
「逆」
「逆っていう表現はおかしいか。石田さんがお父さんを殺しちゃったんだよ」
長瀬はその言葉を聞いた途端、時間が止まったような感覚を覚えた。石田さんがお父さんを殺した? なんで? いや、なんでってそりゃその可能性は感じていた、けど、殺すってそんなこと。
「いま、警察の人が板垣教授と話してるよ。長瀬、お前もきっと何か聞かれるぞ。おい、聞いてんのか、長瀬」
「あ、はい」長瀬は心臓がいつもより速く動いているのを感じた。
しばらくすると、廊下の奥からコツコツと誰かがこちらへ向かってくる音が聞こえると、各々が話すことをやめた。
「長瀬誠さんですか」
「はい」
「高井戸署の小武という者です」
「同じく高井戸署の千田です」
「ちょっとお話しをお聞きしたいのですが、お時間よろしいでしょうか」ふたりの警察官は長瀬を囲んで言った。
「は、はい」長瀬はふたりの警察官の威圧感に気圧されていた。
「こちらの部屋を使ってよいとのことだったので、こちらでお願いします」
長瀬と警察官ふたりは第一相談室へ入った。まさか警察官とこの部屋で話をすることになるとは、本当にドラマのようだと長瀬はふたりの警察を見ながら思った。
「まず、石田凛太郎さんのお話しからいたします」
「はい」
「今朝、石田さんが実の父親の純三さんを殺害しました。石田さんの妻の恵さんから通報があり警察官が駆けつけると、純三さんは首から血を流し、心肺停止の状態で発見されました。妻の恵さんは夫がお父さんを殺してしまったと言っていたようです。それで、当の本人は何も話してくれないと言いますか、もぬけの殻といいますか」
「なにか心当たりはありますかね、長瀬さん」
「心当たりですか」
「昨日、ここでふたりでお話しをしていましたよね。そこでなにか聞きませんでしたか」
「ここでお話ししたことは守秘義務があるのでお話しはできません」
「そのことなら、すでに板垣教授から許可を得ていますので、話していただいて大丈夫です」
長瀬は昨日の面談の様子をふたりの警察に伝えた。警察は眉間に皺を寄せたり、腕を組んだり、頭を傾げたりしながら長瀬の話を聞いていた。
「それで、途中から板垣教授と交代したんですね」
「はい。面談が終わって出てきた時には石田さんはどこかすっきりした様子のように見えました。なので、そんな石田さんがお父さんを殺すなんて考えられません」
「なるほど。では、我々から事件の経緯を説明させていただきますね」
昨日、石田凛太郎は大学の相談室から自宅へ戻った後、いつもと変わらぬ様子で過ごしていた。妻の恵も何か変わった様子があったということは感じなかったという。
次の日の朝、凛太郎、恵、息子の涼介の3人はいつものように朝食を食べていた。するとそこに純三が訪ねてきた。挨拶もせず、リビングのテーブルに着き、一緒に朝食を食べたという。恵はいつものことだと、挨拶だけして純三に朝食を出した。朝食を食べ終わり、お茶を飲んでいる時だった。凛太郎はテーブルを両手で勢いよく叩くと、立ち上がり、そのまま二階へと上がっていってしまった。それに驚いた息子の淳介は泣き出してしまったという。純三の前で凛太郎がそんな態度を示したのを初めて見た恵は驚きながらも、泣いている淳介を落ち着かせようとあやしていた。
暫くすると、純三も二階へ上がっていった。するとすぐに二階で壁に何かが当たるような音が何回かした。恵は凛太郎と純三が争っているのではないかと、すぐにわかった。恵は凛太郎が純三から暴力を受けていたことを凛太郎から聞かされており、それがどれだけ辛いことだったのかも知っていた。恵の前で純三は凛太郎に手を出すことはなかったので、凛太郎が殴られる実際の姿は見たことがなかったが、暴力を振るわれていた時の話を聞かされるだけで、恵は胸が苦しくなったという。
二階でまた今度は何かが倒れる音がした。それを聞いた恵は何か嫌な予感がした。その予感とともに立ち上がり、階段を駆け上り、凛太郎の部屋のドアを開けた。
部屋の真ん中で仰向けで倒れていたのは、純三だった。倒れる純三の周りは地の海ができていた。首から流れ出る血は床一面を赤色に染めていった。恵はそれを見るや絶叫した。
「凛ちゃん! お父さんになにしたの! どうなったてんのこれ、ねえ! 凛ちゃん!」
呆然と立ち尽くす凛太郎に恵の声は聞こえていなかった。凛太郎はイヤフォンを耳に挿し、何かを聴いているようだった。それに気付いた恵は凛太郎からイヤフォンを外した。そして、凛太郎を自分の方へ振り向かせて、言葉を失った。
凛太郎の顔は血で赤く染まり、白目を向いていた。そして、少しだけ口角を上げ、何かを咀嚼するかのように口を動かしていた。
「ちょっと凛ちゃん! お父さん死んじゃうよ! どうしちゃったのよ! 凛ちゃん!」
凛太郎の咀嚼が急に止まると、口の中で咀嚼したモノを恵の顔を吐きつけた。
生暖かい滑り気のある何かが恵の顔に張り付いた。恵はまた言葉を失い、顔に付いた何かを恐る恐る自分の手で取った。目でそれを確認し、倒れる純三の血が噴き出している部分を見てまた絶叫し、その何かを床へ叩きつけた。
恵は部屋を飛び出し、淳介を抱きかかえ急いで家を出た。そして、家から少し離れたところで警察に電話をしたのだ。
警察が自宅に駆けつけると凛太郎はその場で立ち尽くしていた。純三はすでに心肺停止の状態で、救急隊が蘇生を試みたが、息を吹きかえすことはなかった。石田凛太郎は抵抗することなく警察に連行されていった。
「それでいま、石田さんはどこにいるんですか」
「警察署です。何を聞いても答えてくれない。というか何の反応もないんです。まるで死んでるみたいですよ」
「死んでるみたいですか」
「そんな状態でこちらも困っているんですよ。そこでなんですが、署までご同行いただいて、石田さんの状態を見ていただきたんです」
「そんな、僕はただの学生で立派なカウンセラーでもないですし。石田さんの様子を見たからってなにかご協力できるとは思えないんですが」
「私も一緒に行くので、石田さんの様子を見に行きましょう」振り向くと板垣が神妙な面持ちでそこにいた。
警察署に着いた長瀬と板垣はある部屋に通された。その部屋にはカーテンがあり、そのカーテンを開けると窓越しに身動きひとつせずじっと座っている石田の姿を確認することができた。石田の着ている衣類には父親のものであろう血が渇き、黒く変色して付着していた。
「板垣先生、石田さんのこの状態はどんな状態と言えますか」
「見ただけではなんともですが、精神に異常をきたしているのは明らかですね。このような石田さんの状態を見たのは初めてです。大学でも話しましたが、石田さんは希死念慮があり、月に数回、うちの大学の相談室でカウンセリングを受けていたんです。私は臨床心理士として彼の話を聞き、長瀬君にはカウンセリングのサポートとして入ってもらいました」
「板垣先生、兆候みたいなものはなかったんですか」
「兆候というのは、その殺害をするということのですか」
「そうです」
「確かに、石田さんはお父様との関係に悩んでいましたよ。しかし、人を殺すような理性を保てない人ではないです」
「僕は石田さんの担当になって間もないですが、そんな人を殺すようなそんな人には思えません。お父様を殺したいとかそんな風に仰られたことは一度もなかったです」
「そうですか。ですが、実際は殺してしまった。首を噛みちぎって」刑事は首に手をやり首の皮を剥ぎ取るような動作をしてみせた。
板垣と長瀬は同時に困惑の表情を浮かべた。
「引き続き捜査になりますので、なにか石田さんのことで情報提供できることがあれば、ご連絡をください。じゃあ、お二人をお連れして。わたしたちはこれで」小武は部下にそう告げると千田と署内の奥へ消えていった。
「人を食う事件がこの1ヶ月で3件。しかも容疑者の3人とも明和大学の相談室に通っていた。それと3人に共通するのが、あのアイドルの音楽だ。あれを聞いて、みんなおかしくなって人を食ってる。しかし、容疑者のどいつもその時の記憶がないときたもんだ」小武は腕組みをし、首を傾げた。
「小武さん、これって三十九条案件ですかね」千田は神妙な顔つきで小武に聞いた。
「それは裁判所が決めることだ。とにかく、明和大学の板垣が何かしらに絡んでることは間違いないだろうな」
「これから張り込みになるな」
「帰れなくなりますね。奥さん、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。うちのことは気にすんな。ほら、捜査会議いくぞ」
小武は「気にするな」と言ったものの、最近の妻の様子を考えると、なるべく妻の傍にいてやりたいと思いながらも連続する怪奇事件が解決するまではそうもできないと、ひとり抱え込む日々が続いていた。