第三話 怨嗟
秋野裕一は妻の仁美に身体を摩られながらソファーにもたれていた。三歳と五歳の子どもたちはリビングで無邪気に遊んでいる。
妻が「大丈夫」「どうしたの」「お風呂入ってもう寝ようか」と問いかけるが、秋野は妻の声は聞こえているが、言葉がうまく出せなかった。それに加え、ソファーと身体がくっついてしまったかのように身体がひとつも動かせなかった。秋野は口をだらしなく開き、一点を見つめ、「このまま死ぬのかなと」考えていた。
ちょうど一ヶ月前になる。秋野は新高円寺にある精神科クリニックを訪れていた。そこで、彼は注意欠如多動症と診断を受けた。
二年前、秋野は十五年勤めていた障害者施設を辞め、地元である杉並区で地域に住む障害がある人や高齢者のサポートをしたいという想いで、高円寺に訪問介護の事業所を立ち上げた。
事業所を立ち上げてすぐに、地元の知り合いから訪問介護サービスを利用したい人がいると紹介を受け、開業をしてすぐに記念すべき最初の利用者が決まった。
秋野の人柄と丁寧で痒いところに手が届くような介護サービスの提供のおかげで秋野の事業所の評判は利用者だけでなく、利用者と訪問介護事業所を繋げる役割を果たす相談員たちにも広がっていった。それに伴い、売上も上がり、自分の報酬を出せるまでになった。
ここまで秋野はひとりで事業所の切り盛りをしてきたが、いよいよ利用者の数も増え、事務的な作業も追いつかなくなり、秋野は新しく従業員を雇い入れようと考えていた。そんな矢先、元職場の同僚であった新谷美鈴から連絡があった。話を聞くと、一緒に訪問介護をやりたいと秋野には願ってもいない嬉しい話しであった。秋野は新谷のことは一緒に働いていた頃から一目を置いていたこともあり、彼女となら事業所は更に大きく成長できるだろうと大いに胸を膨らませた。しかし、そんな期待も数ヶ月で泡のように消えていった。
新谷が事業所に入ったことで、利用者は増え、アルバイトの従業員も増えていった。しかし、数ヶ月が過ぎる頃、利用者からのクレームが増えるようになった。クレームの内容は「ヘルパーのケアが雑だ」「家のルールを守ってくれない」「タメ口で話されて気分が悪い」「遅刻することがある」「ヘルパーが不機嫌な時がある。その時のケアは不快」などというものだった。他にも週に一度や二度ではない。毎日のようにクレームが入る週もあった。このクレームが入った訪問先に出入りしていたのは新谷だった。
秋野はクレームが入る度に謝り、そして新谷に注意をした。しかし、クレームが減ることはなく、利用者がサービスを受けたくない、契約を解除したいと申し出るケースも出てきてしまった。
訪問の仕事だけでなく、新谷には事務の仕事も任せることがあったが、「訪問で忙しくてできませんでした」などと言い訳をし、期限のある書類などを〆切のギリギリにそうして申し出るため、秋野が夜遅くまで残り、仕事をすることが増えていった。
その頃からだろう、秋野は仕事上のミスが多くなっていったのは。例えば、予定していたことを忘れてしまったり、期限ギリギリまで仕事に手をつけられなかったり、スケジュールをうまく立てられなかったり、やるべきことを先延ばしてしまったりと、自分だけでなく周りのひとたちにも迷惑をかけてしまうことが多くなっていった。そんな中、相談員さんのひとりに謝罪をしていた時に、その相談員さんに「失望しました」と言われた時に秋野の頭か心かわからないが、何かがプツンと切れたような感覚があった。そして、そのプツンと何かが切れた後に秋野が見ていた色のあった世界が灰色になってしまったのだ。帰宅し、ソファーに座ったまま動かない秋野を見た妻の仁美はすぐ異変を感じた。
次の日、秋野は妻と精神科クリニックに受診をした。そして、注意欠如多動症だということを告げられたのだ。また、二次障害として、自殺の恐れもあると言われたのだった。
医者からの助言もあり、しばらく会社を休むことにした秋野はそれを従業員に伝えると同時に、自分の障害や精神的な状態について伝えるべきか悩んでいた。会社の代表が希死念慮と発達障害を持っていると知ったら従業員たちは不安に思わないだろうか。誰が会社を運営するのか。この会社は今後大丈夫なのか。潰れたりしないだろうか。そんな風に従業員たちは思わないだろうかと不安になった。しかし、秋野は従業員たちに自分のことをしっかりと話し、自分の苦手とする部分は助けてもらいたいと正直に伝えようと考えた。それは会社を存続させ、利用者に介護サービスを提供し続けるためと考えたからだ。
秋野は、従業員たちに一斉メールを送った。内容は自身のこととこれからの会社の体制のことだった。しかし、返信は誰からもなかった。一週間経っても返信はなく、時間が経つにつれて、不安も大きくなっていくばかりだった。事業所のことも心配だった。事業所は新谷に任せるしかなかったからだ。
何か不安なことや心配事があると秋野は元同僚のひとりである吉見武に相談していたことを思い出し、メールを送ることにした。そのメールの中に一緒に働いてくれないかということも書いた。間も無くして、吉野から返信が届いた。
『久しぶりだな。なんか大変らしいな。誘いもありがとな。でも、今はちょっと無理かな。危ない橋は渡りたくないというかさ。秋野の会社やばいんだろ。評判が良くなくて、正直、会社が潰れるのも時間の問題だって新谷さんが言ってたぞ。だから心配はしてたんだよ』
秋野は吉野からのメールを読んで、元職場の人たちが自分のことを嘲笑っているんじゃないかと思ってしまった。十五年いた施設を辞め、意気揚々と会社は作ったはいいがすぐ潰れるなんて笑いものだ。そんな風に思われているのだと考えてしまうのだった。
秋野は新谷がなぜ仕事を辞めて自分の会社に来たのか知っているかと尋ねた。その吉野からのメールの返信を読み、秋野は暗闇に飲み込まれていくような恐ろしさを感じた。
新谷は、秋野と同じ職場で一緒には働いている時は彼を憧憬の念を持つくらい秋野を評価していた。しかし、秋野が仕事を辞めて会社を立ち上げるということ知り、彼が毎日楽しそうに仕事をしていたり、新しい仕事の準備を嬉々としている姿を見ている内に彼女の彼に対する気持ちは怨嗟に変わっていったのだという。そして、会社を実際に立ち上げ、順調な日々を送っていると知った新谷は、それをぐちゃぐちゃに破壊してやろう、そして、壊すだけでなく、秋野が築き上げたものをすべて奪ってやろうと考えるようになったのだ。
吉野のメールで新谷の本当の気持ち知った秋野はあまりの衝撃に畏怖の念に打ちひしがれた。更に追い討ちをかけるのかのように1通のメールが届いた。
秋野社長へ、から始まるメールは常勤の従業員のひとりである坂下ひなたからだった。内容は今月いっぱいで退職するという意向のメールだった。まず、秋野は思った。あの一斉メールが悪かったのか。正直に伝えたことが悪かったのか。秋野はメールを見た瞬間から思考が回らなくなり、「どうしよう」という言葉が頭の中を埋め尽くした。彼女からのメールに何か返信をしようと思うも、一文字も打つことができなかった。
更に次の日も、今度はアルバイトの従業員から退職する意向のメールが届いた。また、新しく雇う予定だった介護士からも入職辞退のメールが届いた。その後もまたひとり、ふたりと退職願いのメールが届いた。その中のひとりが新谷にこんなことを言われて不安になったので辞めますという内容のメールを送ってきた。秋野はその内容を見て驚愕した。
秋野が従業員にメールを送ったその後、新谷美鈴は従業員たちに対してあるメールを送っていたことがわかった。その内容はこうだった。
『秋野からメールがあったと思いますが、はっきり言って、この会社はすぐに潰れると思います。社長が屍みたいな状態になったら、誰が会社を動かすのでしょうか。ましてや、発達障害の人が代表をやってるなんてこっちからしたら不安でしかないですよね。私は常勤だけど、訪問の仕事で手一杯です。さらに秋野が利用者さんや他の事業所さん、それから行政に対してうまく働きかけられなくなったことや、迷惑をかけてしまったこともあったことから、この事業所の評判はガタ落ちです。そんな事業所にだれがサービスを依頼してくるでしょうか。誰もしてこないと思います。なので、きっとこの事業所、そして会社は潰れるでしょう。秋野が協力してやっていこうと言っていたけど、そんな余裕はわたしたちにはどこにもないですよね。辞めるなら早いうちがいいと私は思います。私もそのうち辞めると思います。こんな会社にいたら不幸になると思います。でも私ならもっといい会社を作れます。そして、もっとより良い福祉サービスを提供することができます。秋野よりも私は経験も知識も豊富ですからね。もし、私と一緒に新たに会社を作りたいという人は申し出てください。秋野の会社よりは全然ましだと思います』
メールを読み終わり、秋野はソファーにもたれながら涙を流した。そして、妻にお風呂に入ってくると言い、お風呂に入った。
妻の仁美がいつもより長めには入っているなと心配に思い、お風呂のドアを開けると浴槽が赤く染まっていた。秋野は手首をカッターで切って自殺を図ったのだ。その後すぐに妻は救急車を呼んだ。しばらくして、救急隊が駆けつけ、彼の手首を応急処置してもらい、幸い傷は浅く、死に至るものではなかった。
秋野が眠ったことを確認した後、妻は大学の友人であった浦沢彩月に夫の状態を知らせるために連絡を取った。彼女に夫の様子を伝えると、明日にでも大学の相談室に連れてきてほしいと言われ、翌日、妻は秋野を連れ、大学の相談室を訪れた。
「ごめんね、忙しいのに。連絡しちゃって。夫がこんな状態になっちゃって誰に相談していいかわからなくて、彩月に連絡をしたの」
「とにかく、早めの治療が必要ね」
「治療って薬を飲むとかそういうことになるの」
「坂垣教授に相談して決めることになると思うわ。これから板垣教授を呼んでくるから、ちょっと待ってて」
それからすぐ、板垣が相談室へやってきて、秋野とふたりで話すことになった。1時間程経った頃、ふたりは相談室から出てきた。
相談室から出てきた秋野の表情はどこか晴れやかで、それを見た妻の仁美は安堵した。
「ごめん、心配かけて」秋野が妻に優しく声かけた。
「このまま死んじゃうんじゃないかと思った」仁美の目には涙が溜まり、今にも溢れ落ちそうである。
秋野と仁美は板垣と浦沢に感謝を告げ、大学の相談室を後にした。
「明日、会社に行ってみんなに話をしてくるよ」
「そう。無理しないようにね。皆さんに話が終わったらすぐ帰ってくる。何かあなたの好きなものでも食べに行こうよ」
「じゃあ、焼き肉かな」
「久し振りだね、焼き肉。行こう行こう。子どもたちも喜ぶよ」
翌日、秋野は会社へ向かった。昨夜、従業員たちには一斉メールで緊急で話したいことがあると伝えてあった。秋野が会社に着くと新谷を始め、訪問介護に行っている数名以外の従業員がすでに集まっていた。従業員たちは神妙な面持ちで秋野を出迎えた。誰も口を開ける訳でもなく、社内にはただ澱んだ空気が流れるだけだった。
秋野は自席に着き、従業員たちの顔を見たが、だれも秋野の顔を見ようとしなかった。
秋野は自分の鞄からCDプレイヤーを取り出し、イヤフォンを耳に挿し、再生ボタンを押した。
従業員たちは秋野の行動を見て、お互いに顔を見合わせ、戸惑いの表情を浮かべていた。静まり帰る社内の中に秋野のイヤフォンから漏れる音だけが聞こえていた。
「秋野さん、何してるんですか。わたしたち時間がない中、秋野さんが集まれって言うから集まってるんですよ。なんで今、音楽を聞く必要があるんですか」新谷は声を荒げて言った。
秋野にはその声は届いておらず、イヤフォンから流れる音楽に集中しているのか、一点を見つめるだけだった。
「いい加減にしてくださいよ」新谷が秋野に近づき、イヤフォンを無理やり耳から外そうとした時だった。秋野が新谷の首に噛み付いたのだ。新谷は何が起こったか把握できず、痛みを感じたと思った瞬間には視界に血飛沫が見え、その放物線を描いた血飛沫は他の従業員に飛び散った。
「きゃー!」女性スタッフの顔に大量の血が飛び散り、恐怖の叫び声があがった。
「社長なにやってんすか!」男性スタッフのひとりがそう言い秋野に近づいた。
椅子や机がひっくり返り、従業員たちは真っ先にドアの方へ逃げる者、その場から動けない者、何かを探して右往左往している者と事務所内は混沌とした状態だった。
秋野は更に今度は新谷の反対側の首に噛みつき、首の皮を噛みちぎった。血飛沫がまた飛び散り、血は事業所の天井にまで飛び、天井から今度は真っ赤な血が滴っていた。事務所の中は新谷の血で赤く染め上がっていった。
新谷は秋野に両肩を掴まれたまま動けず、失禁までしていた。
秋野は咀嚼していた首の皮を飲み込むと。今度は首の後側に噛みつき、肉を剥いだ。まるで、フライドチキンを食べているかのようである。
真っ先に逃げた従業員の五十嵐はエレベーターのボタンを押し、スマートフォンで警察に電話をしていた。五十嵐がいるのは7階である。1階から登ってくるエレベーターが永遠に上がってこないような感覚に陥る。
「警察ですか」
「どうしましたか」電話に出たのは女性の警察官である。
「えー、あのー、社長が、首を」
「まずは落ち着ついてお話ししてください。あなたのお名前は。社長さんがどうされましたか」女性の警察官は首と聞いて、経営に行き詰まって社長が首吊りをし、会社にやってきた従業員が首を吊って死んでいる社長を見つけて電話してきた、そんなところだろうと考えていた。
「五十嵐といいます。あのそれで、社長が新谷さんの首を噛みちぎりました」
「新谷さんというのはそちらの会社の従業員さんですか」女性警察官の顔色が一気に変わった。
「そ、そうです。首から血がたくさん出てて」
「あなたは大丈夫ですか」
「僕は、はい、大丈夫です」
「その場所の住所は教えてください。警察官を向かわせます。救急車は呼びましたか」
「えーと、救急車を呼んでません。それで、えーと、住所ですね。住所は杉並区高円寺、高円寺駅のえーと、駅前の大和ビルの7階です」
「あなたは安全な場所に逃げてください。あなた以外に何人の方がその場にはいますか」
「えーと、新谷さん、社長と、円谷さんと、木下さんと大槻さんと5人です」
「わかりました。すぐに逃げてください」
電話が切れたと同時エレベーターが到着した。すぐに五十嵐はエレベーターに乗り込み、1階のボタンを押し、そして閉まるのボタンを連打した。ドアがゆっくりと閉まっていき、五十嵐は助かったと思った。と思った矢先、血塗れの手がエレベーターの閉まっていくドアを止めた。
「うわー!」五十嵐はその場で腰が抜けたかのように座りこんだ。
ドアの安全センサーが感知し、ゆっくりとドアが開いていく。五十嵐の目の前には真っ赤に染まった秋野がいた。
「しゃ、しゃ、社長、ど、どうしたんです。なにやってるんですか。血ですか、それ。なんか赤いですよ」
秋野は口角を上げ白目を向いている。そして、五十嵐のほうへゆっくりと近づく。
「社長やめてください。僕、会社辞めませんから。一緒に頑張ってやっていきま」
秋野は五十嵐の口に噛み付いた。上唇が五十嵐の顔から剥ぎ取られ、上の歯が剥き出しになった。
五十嵐は言葉にならない声を出しながら、両手で口を押さえた。剥ぎ取られた部分から大量の血がポタポタと地面に落ちていく。
秋野は五十嵐の両手を取り、押さえている唇から両手を引き剥がした。そして、今度は下唇に噛みつき、それを噛みちぎった。
その間にエレベーターのドアは閉まり、一階へと降りていった。エレベーターのドアが開くとエレベーターの中は血の海と化していた。五十嵐は座ったまま動かず、首から血が永延に噴き出していた。秋野は五十嵐の内臓を腹から引きずり出し、それを貪り食っていた。
「警察です。大丈夫ですか」通報を受けた駅前の交番の警察官がやってきたのだ。
警察の声は秋野には届いておらず、五十嵐の内臓を夢中で食べているようだった。
「現場に到着しました。佐々木です。負傷者一名、もうひとりはマル被かと思われます。確保しますか」警察官が耳に付けているイヤフォンから声を漏れる。
「応援が来るまで待て」
「マル害はどうしますか」
「状況は」
「恐らく死亡しているかと」
秋野はその場から一切動こうとせず、ただひたすら五十嵐の内臓を咀嚼していた。
まもなくして、数名の警察官が合流し、秋野はなんの抵抗することもなく確保された。
警察官が7階の事務所に入ると、部屋の中は物が散乱し、血の臭いが充満していた。事務所の中は、天井からは血が滴り、床は血で真っ赤な水たまりがいくつもできていた。その中から4人の遺体が見つかった。その4人全員の首は骨だけになり、腕が一本ない者、足が一本ない者、腹から内臓が飛び出している者、顔の原型がわからない者たちが血の海で静かに横たわっていた。