第二話 怯懦
学生たちの夏休みが終わり、昼間の高円寺はいつもの何を生業にしているかわからない連中たちが成虫になる次期を間違えた蝉のごとく湧き出てきて、駅前のロータリーでミンミンと騒いでいた。
高円寺駅のパル商店街から脇道に逸れた路地の雑居ビルの二階に北米で仕入れた古着や雑貨を売りにした古着屋「ロッテンドーナツ」がある。そこは、元バンドマンの元橋玄と学生アルバイトの長瀬誠が悠々閑々と店の切り盛りをしていた。
「見たかニュース」元橋はレジカウンターに肘を突きながら今朝のニュースを思い出していた。
「店長、世の中にどれくらいのニュースが垂れ流しになってるか知ってます」長瀬は客が無造作に置いていった古着を丁寧に畳み直しながら言った。
「お前は知ってんのかよ」
「知りませんよ、そんなの」
「なんだよ、それ」
「あれでしょ、アイドルがライブ中に襲われたってやつでしょ」
「知ってんじゃねぇかよ。それだよ。なんでそんなことが起こるんだろうな」
「恨まれてたんじゃないですか。例えば、そのアイドルに彼氏がいて、それを知ったファンがアイドルなのに何事じゃーってキレて襲ったとかそういうことじゃないですか」
「さすが心理を勉強してるだけありますね、長瀬先生」
「そんなもん誰でも想像できますよ。店長はポカーンとし過ぎなんですよ」
「なんだよポカーンて。まるでおれが何も考えてない馬鹿みたいじゃねぇか」
「みたいじゃなくてですよ、店長」
「なんだこのやろ!時給下げるぞこのやろ」
店の中に客がいなくなるといつもこうしてふたりで戯れて時間を潰すのが日常茶飯事だった。そして、いつもの時間に店にやってくる女の子がいる。
カランカランとドアベルが鳴ると、反射的に長瀬は前髪を整えた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」新里摩耶は長瀬と元橋に会釈をすると、いつものように入口から入って右の棚から順に古着を一通り眺めていくのだった。
「今日は何かいいの見つかった?」新里が一通り棚を身終えたところで長瀬が声をかけた。
「うーん。今日も散歩がてらふらっと来ただけ。すみません、いつも見てばっかりで」
「そんなこと気にしなくていいのよ。買いたいものが見つかったら買えばいいんだから。店長がまた買い付けいくみたいだから、いいの仕入れてきてもらおう」
「そうそう、今度またカナダに買い付けにいくからさ。いいの見つけてくるよ」元橋はそう言うと力瘤を作り、そこをパンパンと叩いて、できるバイヤーアピールをした。
「楽しみにしてるね。じゃあ、わたしそろそろ行きますね」新里は愛想笑いを作り、店を出ることにした。
「新里さん、これから高円寺散歩するの」
「うん、これからサンカクヤマに行って古本見てくる」
「じゃあ、舞さんによろしく。バックトゥザ・フューチャーのフィギュア入荷してたら連絡して」
「オッケー」新里はフルーツ系の甘い香りを店に起こして出ていった。
「おまえ、いつのまにあの子の連絡先聞いたんだよ」
「別にいいじゃないですか。店長だって、なんで新里さんは店長にだけタメ語なんですか」
「そんなの本人に聞けよ」
「そんな女々しいこときけないっすよ」
「ごはんとかもう行ったのか」
「行ってないっすよ。最近ですよ、漸くLINE交換できたの」
「そうか。もうそろそろ大学だろ。もう客も来なそうだし上がっていいぞ」そう言うと店長はスマホを取り出し長瀬との会話を終わらせた。
長瀬誠は明和大学大学院の心理学研究科に夕方から通っている。社会人向けの研究科のため、授業や研究会は昼間働いている社会人向けにカリキュラムが組まれているのだ。学生の大半は会社勤めをしている人や教員をしている人、昼間は主婦をしている人もいる。各々、将来をイメージして、その将来の自分に繋がる心理学を学んでいる。長瀬の場合は、スクールカウンセラーになるという目標に向けて教育心理学や学校心理学などを授業で学び、学校心理学を専門にしている板垣教授の研究室に所属して、修士論文の執筆に2年間取り組むことになっている。
研究室にはすでに学生たちが揃い教授が来るのを待っていた。しばらくすると板垣教授がなにやら深刻そうな表情で研究室に入ってきた。
「全員、揃ってますね。では、今日の研究会を始めましょうか」板垣はそう言うとロの字にセットされたテーブルの上座に腰を下ろした。表情は硬い。
「本日は、飯田智子さんの聴覚過敏に関する研究結果の発表がメインですが、その他で修論の進捗を話したい方や学会発表を控えてる方がいらっしゃればディスカッションに追加しますが」と博士課程3年の久保田聡が学生たちを見回し言った。
「飯田さんの発表が長くなりそうなので、いなければ今日は飯田さんの発表だけにしましょう」板垣は飯田が事前に渡しておいた資料に目を通しながら言った。
「それでは、感覚過敏学会に投稿する予定の論文をまとめましたので、発表させていただきます」飯田はそういうと事前に準備していたプレゼンテーション画面をスクリーンに映した。
「この研究では、聴覚過敏があると診断された人がその人専用にカスタマイズされたイヤーフィルターを使用することでQOLが上がるかということを調査しました。結論から言いますと、聴覚過敏がある人たちがこのイヤーフィルターを使用するとQOLは上がるということがわかりました」
イヤーフィルターというのは、聴覚過敏がある人専用の耳栓である。聴覚過敏がある人は市販されている耳栓やイヤーマフを使えば、聴覚過敏を抑えられるのかと言えば、そうではなく、個人にあったフィルター、つまり板垣研究室で開発したイヤーフィルターを通すことで、その人が苦手とする音の周波数をカットし、聴覚過敏を軽減させることができるのだ。
明和大学の相談室には、聴覚過敏に悩む人たちが多く訪れ、カウンセリングやこのイヤーフィルターのフィッティング、例えて言うのであれば、眼鏡を作る時に度数を合わせる作業のようなものを、このイヤーフィルターを作る時に行うのだ。
フィッティングの作業は、聴覚過敏がある人にイヤフォンを付けてもらい、そのイヤフォンから様々な周波数の音を聞いてもらうことから始まる。その聞こえた音に対して不快だと感じたものがあれば、手元にあるスイッチを押してもらい、検査者はその人が不快と感じる音を集めていく。そして、集められた不快に感じる音を通さない構造のフィルターを設計し、イヤフィルターを完成させるのだ。
飯田の発表が終わったが、板垣は硬い表情のまま、何か考えている様子だった。
「以上です。なにかご質問等ございますでしょうか」一方で飯田の言葉にはこの論文の出来に対する自信が籠っているいるようだった。
「ひとついいですか」手を挙げそう言ったのは浦沢彩月だった。彼女は今年の4月からポスドクとして研究会に入ってきたばかりだが、経歴は申し分なく、毎回研究会で鋭い指摘をし、発表者からは恐れられているというのか、すでに一目置かれる存在になっていた。また、板垣教授とは共同でてんかん発作に関する研究を行っていた。
「浦沢さん、どうぞ」司会役である久保田は「今夜は長くなりそうだ」と思いながら浦沢に意見仰いだ。
「以前に発表した時のデータと今回のデータで齟齬が見られますが、これはどういったことでしょうか」
「はい。以前、皆さんにお見せしたデータはエビデンスとして不十分だったと考え、更にデータ数を増やしました」
「データ数がこれだけ増えたということは統計的な解析方法も変わってくるかと思いますが、見たところ、解析方法は変わっていないようですが、これは大丈夫ですか」
「そうだね。ここはマンホイットニーよりもt検定で解析した方がよさそうですね」飯田が答えるよりも早く板垣が答えた。
「そうしてください、飯田さん」
「承知しました」
「他に何かありますか」久保田は「もうこのくらいのしておいてくださいよ」と心の中で呟きながら言った。
「あともう一点」だけ、浦沢は飯田の顔をまっすぐ見つめ言った。
「以前、この研究をしていた新里亨さんの名前が著者欄にないのですが、それはどういったご配慮があってのことでしょうか」
板垣と飯田は表情を変えずに浦沢の問いを聞いていたが、新里という名前を聞いたとたん研究室にいる学生たちはどこか居心地が悪くなったような様子に変わった。
長瀬は研究室の空気が変わったことに気付き、隣に座っている学年がひとつ上の牛久隆二に筆談で「にいさととおるってだれ?」と聞いた。
「あとで教える」と牛久も書いて答えた。
長瀬は新里と聞いて、アルバイト先の古着屋の常連である新里摩耶の顔を思い浮かべていた。
「この研究を主でやっていた方が亡くなったら、この研究を引き継いだ方と教授の名前だけが論文に残るんですか。それはあんまりじゃないですか。この研究の成果、つまり、手柄はお二人だけのものというそういうことですか」浦沢は言葉を強めて言った。
「飯田さん、新里くんの名前を消したのはなぜかね」
「申し訳ありません。私の勝手な思い違いもり、新里さんのお名前を消してしまいました。そうですよね。新里さんが元々やられていた研究ですものね。確かに新里さんのお名前がこの研究にないのはおかしいと思います。そんな手柄を横取りするようなそんな真似をしたわけではありません」
「してるじゃないですか。新里さんの名前を消したってことはそういうことですよね」
「いえ、本当にそんなつもりはなかったんです」
「じゃあ、新里さんの名前もちゃんと入れましょうよ」
「そうですね。新里くんの名前は入れるべきでしょう。浦沢さんの言う通り、この研究は亡き新里くんの研究でしたからね。それを引き継いで現在は飯田さんがやっていますが、彼の名前はここに入れるべきですね」
「すぐに新里さんのお名前を入れ直しをし、論文投稿の準備をさせていただきます。それでよろしいでしょうか」
「いいですかね、浦沢さん」
「そうですね。その方が報われるかと思います」
研究会は飯田の発表が終わると、特に議論するテーマもなく、いつもよりも早く終了となった。飯田と板垣はふたりで研究室を出て、板垣の部屋で神妙な顔付きで何か話しをしているようだった。
「牛久さん、さっきの教えてくださいよ」長瀬は新里亨に関することはここでは大っぴらに触れてはいけないことだと察し、小声で言った。
「場所を変えよう」
ふたりは研究室を出て、人気のない場所へと移動した。
「新里さんが亡くなったのはおれが去年この研究室に入ってすぐのことだったんだ。自殺だったんだよ」牛久はこれからあのことを話すのかと思うと気が重たくなった。
自殺後、新里亨は自殺するまで鬱で苦しんでいたことがわかった。大学内で自殺者が出たことで調査委員会が設置され、板垣を初め、研究会のメンバーに聞き取り調査が行われた。その後、調査委員会から新里亨は鬱による自殺ということが研究室で報告された。しかし、なぜ鬱になったのかは明らかにされなかった。新里亨は当時、ポスドクとして研究室に在籍していた。牛久が初めて研究室で新里を見た時の印象は「存在感のない人」であった。研究会中も発言することはほぼなかったからだ。牛久は久保田に新里のことが気になり、根掘り葉掘り聞いたことがあった。
久保田が言うには新里はとにかく優しいお兄ちゃんのような存在だったという。誰にでも優しく接し、困っている者がいれば自分を犠牲にしてでもその人を助けるような人だった。しかし、言い方を変えれば、都合のいい人とも言われてもおかしくはなかったという。というのも、頼まれれば笑顔で引き受けることが続くことで、いつのまにか、面倒なことや他の人は嫌がることはすべて新里が引き受けてくれると周りが思うようになっていったのだ。
研究に関しても、新里は元々聴覚過敏の研究はしていなかった。元々聴覚過敏の研究をしていた学生が退学してしまい、板垣から半ば強引に聴覚過敏の研究をするように言われたのだそうだ。
新里は大学院に入る前は中学校の教員をしていた。教科は英語で、発達障害がある子どもたちに教鞭を取っていた。
ある時、新里は発達障害がある子どもたちへの指導で行き詰まってしまい、改めて発達障害がある子どもたちの指導について学び、更に発達障害がある子どもたちに適した授業の開発をしたいと大学院へ入学したのだった。
大学院入学当初、新里の研究テーマは「発達障害がある生徒に適した英語の授業の開発」であった。
大学院では修士論文を書く手順として、まず修士論文のデザインを発表する場が学生たちに設けられる。新里は勿論そのデザイン発表会で自分の望んだテーマで発表を行った。彼は大学院の修士課程を出た後は教員に戻り、大学院で学んだことや研究したことを発達障害がある子どもたちに還元したいと思っていた。しかし、デザイン発表会後に板垣に呼び出され、今日から聴覚過敏の研究をしろと言われたのだ。彼はただ「わかりました」と伝えたという。研究テーマを変えたことで、彼の心の中でもやもやしていたものがあったが、聴覚過敏で困っている人がいるなら僕がやるしかないと、余燼が燻るも、彼は引き受けることにしたのだった。
新里は修士課程が終わったら教員に戻ろうと考えていたが、聴覚過敏の研究を続けてくれと板垣に言われ、自分の気持ちをぐっと抑え、博士課程へと進むことにした。
教員に戻ろうと思ったのは、その当時、結婚を考えていた女性がいたからであった。しかし、学生生活を続けながら結婚生活はできないと、結婚も諦める結果となってしまった。
その頃からだろうか、新里がどこか塞ぎ込むような様子が見られるようになったのは。研究会でもぼーっとしていたり、発言を求められても言葉がうまく出せない様子が見られた。そんな状態でも新里は3年で博士課程を修了した。命も削りながら博士論文を書いた行っても過言ではなかった。それから、ポスドクとして大学に残ることになったが、ある日突然、新里は自ら命を絶ってしまった。その後、新里の研究は後輩の飯田聡子にいつのまにか引き継がれていた。
牛久の話しが終わったちょうどその時、長瀬の携帯が震えた。携帯の画面を見ると新里摩耶からのメッセージを知らせるものだった。新里亨の話しを聞いたばかりだった長瀬は新里亨と新里摩耶の関係を気にせずにはいられなかったが、そんなことを簡単に聞ける間柄でもなく、長瀬はメッセージを確認し、いつものように返信をした。
「ありましたよ。舞さんが今買わないとすぐなくなるよ、なんて言うから買っておきました」メッセージの後にバックトゥザ・フューチャーのマーティーとドクがセットになったフィギュアの写真が送られてきていた。
「まじか! ありがとう! 新里さん! 今、大学終わったんだけど、今どこにいる? 高円寺にいるなら速攻で取りに行きたいところだけど」
「いま、ファッツにいます」
「おっけー! すぐ行くね!」長瀬はメッセージを送ると牛久にまた来週と告げ、高円寺にあるハンバーガー屋「ファッツ」へ向かった。
高円寺駅北口のロータリー広場はいつものように大道芸でも行われているのではないかと思うくらい賑やかであった。そこからたくさんの音が聞こえてくる。弾き語りの音、ラップの音、笑い声、怒鳴り声、サイレンの音、この音が高円寺駅前の音なのだ。
中通り商店街に入るとまた、音が変わる。沖縄料理屋から三線の音か漏れ、風俗店の前を通り過ぎる時にはいつも「どうですかーかわいい子いますよー」と野太い声が心をざわつかせ、居酒屋の中からは客と店員の声が外まで漏れていた。
「いらっしゃい」長瀬がファッツの扉を開けるとカウンターを挟んだキッチンから店主のジェイクが長瀬を迎えいれた。
「お久しぶりです」
「オー、ヘイ、マコートげんきだった」
「元気元気。ジェイクはまた大きくなったんじゃない」
「ユートゥーメーン。ウチのハンバーガーはうまいからねー。太るよー。ははは。ハバシー」
店内はカウンター席しかなく、新里はカウンターの一番端でこっちと手招きしていた。
「いやーほんとありがとね」
「舞さんもラッキーだって言ってましたよ。長瀬さんからバックトゥザ・フューチャーのフィギュア探してるって聞いてたのを仕入れの時に思い出して、買ったんだって。言っておくもんですね」新里は鞄からフィギュアを取り出した。
「おおおおお! これだよ! 夢に見ていたこのセット! すげぇ。本物じゃん。いくらだった。」
「十二万」
「え、じゅ、十二万」長瀬の血の気がさーっと引いていった。そして、動きが止まり、フィギュアをじっと眺めた。
「ぶ、分割で払ってもいいかな」なんとか長瀬は言葉を絞り出して言った。
「冗談だよ。一万二千円だったよ。ほら、レシート」そういうと財布からレシートを取り出して長瀬に見せた。
「一、十、百、千、万、一万二千円。一万二千円だ! ちょっとー! 新里さん!」
「ははは。ごめんごめん。でも分割て。やっぱ相当好きなんだね」
「好きとかもうそういうレベルじゃないから、ほんと」
「ヘイ、マコート、ユーハングリー」キッチンからジェイクが顔を出して言った。
「あー、イエス、ハングリー」
「ワドゥユウォン、トゥナイ」
「えーと、ハンバーガーバンズにパテ二百、ソースはテリヤキで、アボガドと目玉焼きとマッシュルームをトッピングで」
「ワラバウトドゥリンク」
「ドゥユーハバブルームーム」
「ヤ」
「ブルームームプリーズ」
時々、ここではジェイクと英語で会話をすることがある。言葉が違うだけで、その空間が一瞬にして違うものに変化するから不思議なものだ。
「新里さんは何飲んでるの」
「ドクペ」
「好きだねードクぺ。よくさ、ビレバンで買って飲んでるでしょ。この辺だとあそこでしか買えないドクぺがあるじゃん」
「密かに見られてましたか。小さい時から好きなんですよね。駄菓子屋さんでよく飲んでたんです。そこの駄菓子屋さんの飲み物は全部ビンで、なんかおいしかったなぁ。ビレバンには時々、ビンで置いてある時があって、あれば即買いですね」
「駄菓子屋さんがある地元っていいね。新里さんて地元はどこなの」
「町田です。知ってますか」新里は首を傾げながら言った。
「えーと、確か小田急線の割と遠めのとこだよね」
「ここからだとそうですね、遠いかな」
「なんかいろいろ聞いちゃうんどけど、新里さんて今、高円寺に住んでるんだよね」
「はい。小杉湯のすぐ近く」
「あの辺なんだ。なんでまた町田から遥々高円寺へ」
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ沈黙があったことを長瀬は気になった。
「お兄ちゃんが元々そこに住んでて、出ていっちゃったから、じゃあ住むかってそんな感じです」
「そっか。お兄さんいるんだね」
また一瞬の沈黙がふたり包む。その一瞬、長瀬は新里亨と彼女は兄妹なのだろうかと考えていた。
「はい、テリヤキサニーサイドアボガドアンドマッシュルームバーガー」キッチンからジェイクがハンバーガーを長瀬の前に置いた。
「うまそー!」
「アンド、ブールムーンね。エンジョイ」
「サンクス。では、いただきます」
長瀬は紙の袋に包まれたハンバーガーを手で少し潰してから、大きな口で頬張った。噛んだ瞬間に肉汁がスープの如く溢れてくる。口の中に旨味という幸せが広がる。幸せの味を咀嚼した後に飲むブルームームもよく合った。長瀬は食べ出すと一言も喋らず完食をした。
「おいしかったー! ご馳走様でした」長瀬はパンと両手を合わせた。
「見事な食べっぷりですね」
「よく言われる」長瀬はナプキンで口を拭きながら言い、続けた。「今日は最高の日になったよ。フィギュアも手に入ったし、うまいハンバーガーも食べられたしさ」
「よかったですね。あとは寝るだけですね」
「そうだね、帰ってシャワーだけして寝ようかな。新里さんはこの後どうするの」
「私はちょっとどけ散歩してから帰ります」
「この辺り」
「はい」
沈黙。
「少しだけ一緒に散歩していいかな。最近、体重が気になってさ」
「え、あ、はい」
「無理なら全然」
「大丈夫ですよ。いつもひとりで歩いてるからたまには人と歩くのもいいかもです。行きましょう、散歩」
「じゃあ、行きますか。俺も散歩とかして少しは痩せないと」
長瀬は今日のお礼だといい会計を済ませた後、ふたりは店を出た。
「散歩コースとかあるの」
「特にないですね。気ままに歩いてるって感じです」
「じゃあ今日もそんな感じで行きますか」
ふたりは中通り商店街に出て、パル商店街の方へ歩きだした。
時刻は二十三時をもうすぐ回ろうとする頃だった。すでにパル商店街の店はシャッターが降りているところが多く、人通りも昼間と比べると圧倒的に少なかった。高円寺駅に向かう人たちとは逆にふたりは歩いていた。遠くで弾き語りをしている歌声が聞こえる。
「高円寺っていいよね」唐突に長瀬が言った。
「そう思います」
「大学が近くだから高円寺に住み始めたけど、面白い街だなって思うよ」
「どんなところですか」
「高円寺って大きい商店街が5つあるでしょ。商店街から違う商店街に入ると雰囲気が変わるって新里さんも感じない?」
「わかります」
「でしょ。もうすぐパル商店街が終わってルック商店街に変わるでしょう。僕はこの緑道が国境だと思っててさ、ここを越えると別の国っていつも思うんだよね」
「ここすね。確かに国境みたい。お店の雰囲気も変わりますもんね」
商店街の歩道を挟むようにある緑道には酔い潰れた若者たち、物憂げにタバコを吸う中年男性、外国のお酒を片手に寄り添い合う男女がいた。この時間帯のいつもの風景である。
「この前さ、遂にここでファイヤーキングのマグカップ買ったんだよね」
「へぇ。どんなの買ったんですか」
「これこれ」長瀬はスマホをポケットから取り出しファイヤーキングのマグカップが写る写真を新里に見せた。
「ふたつも買ってるじゃないですか。高かったんじゃないですか」
「一目惚れして狙ってたやつでさ。バイト頑張って買った」
ひとつは1970年代中後期から1986年に製造されたもので、ゴーストバスターズのロゴがプリントしてあるものだ。
「これもファイヤーキングなんですか」新里はもうひとつの写真を指差し言った。
「これはアンカーホッキング製でバックトゥザ・フューチャーの」
「出ましたね、バックトゥザ・フューチャー」長瀬の説明途中で新里は茶々を入れるように割って入った。
「ちょっと、最後まで聞いてよ。ドクの研究室にこのアンカーホッキング製のマグが置いてあるんだけど、これも念願のってところだね」
「ほんと、好きなんですね」そういうと新里は嬉々とした笑みを長瀬に見せた。
「八十年代の映画とか音楽とかなんか好きでさ」
「うちのお兄ちゃんも好きで、その影響もあって、私も実は好きなんですよ」
「なんだよ、言ってよ。じゃあ、バックトゥザ・フューチャーも」長瀬は、お兄さんは今どうしてるの?と聞きたいが聞く度胸は持ち合わせていなかった。
「もちろん見てますよ」そういうと新里は今度はどちらかと言えば憐憫の笑みを見せた。
「ちょいちょい、もうバックトゥザ・フューチャーの話のもういいよみたいな感じ出さないでよ」
「あれ、バレましたか。さすが大学でカウンセリングをしてるだけあって、表情を読むのが上手ですね」
「バックトゥザ・フューチャーの話はもうこの辺にしておこう。映画だったら何が好きなの」
「断トツでグーニーズですね」
「何回も観たよ。あの洞窟スライダーにめっちゃ憧れない」
「それです。小さい時から思ってます。私もあんな冒険してみたいなってグーニーズを観る度に思います。でも、そういう想いがあっても出来ないって思っちゃうと悲しくなりませんか」
「あー、確かにそんな風に思うこともあるね。映画を観終わった後の高揚感もあるけど、それと同時に悲愴感も生まれるっていうかさ」
そんな話しをしている間にふたりはルック商店街を抜け青梅街道まで来ていた。青梅街道を通る車はまばらである。
「ここからはどうするの」
「いつもならここを右に曲がって住宅地を通って高円寺に戻る感じです」
「じゃあ、そんな感じで戻ろう」
住宅の殆どは灯りが消え、今日が終わったことを知らせていた。
「住宅地の散歩って好きでさ、たまにひとりで散歩することあるんだよね」長瀬は住宅を眺めながら言った。
「なんか意外です。いつも、賑やかなところにいるイメージあります」
「ははは。そんなイメージなんだ。まぁあの店で働いてたらそんなイメージにもなるか」
「そうですね。あのお店だったり、大学だったり、人がたくさんいるところにいるイメージ。なんで住宅地の散歩好きなんですか」
「単純に家を見るのが好きなんだよ」
「どうしてです」
「この家にはどんな人が住んでいて、どんな暮らしをしているんだろうなとか、そんでさ、どんな人生を歩んでこの家を建てたんだろうとか、なんでこの家にしたんだろうって想像しながら散歩するのが好きっていうかさ。それと例えば凄い豪邸とかお洒落な家を見つけた時に、将来自分もこんな家に住んでみたいなって思って、そうするために今頑張んなきゃって思わせてくれるっていうかさ」
「なるほどです。将来か」
「新里さんはそういうのないの。こういう家に住みたいとか。結婚したらこんな生活をしてみたいみたいな」
「結婚かぁ。まぁ、人並みですかね。でも、お洒落な家には住みたいかも」
「最近さ、小杉湯のとなりに小杉湯となりっていうのができたじゃん。あれが自宅だったらいいよなぁって思う。新里さん、あそこ入ったことある」
「あそこって会員制らしくて、会員じゃないと入れないんですって」
「へぇ、そうなんだ。今時って感じだね」
「でも、いいですよね、あの建物。一階にキッチンとリビングっていうのかな、お洒落なテーブルと椅子があって、2階はワーキングスペースなんですって。それで、3階は和室とテラスがあるらしいです」
「最高じゃん。会員になろうかな。ワーキングスペースってそこにパソコン持ってきて仕事とかするんでしょ」
「字の如くです」
「家とかうちの大学の研究室とかよりも論文執筆、集中できそう」
「長瀬さんてどんな研究してるんですか」
「テーマは、小さい頃に虐待された人のその後の人生についてっていうので、今、インタビューとか取ってるところ」
「なんでそういうテーマにしたんですか」
「それは長い話しになるけど」長瀬は大友正樹の顔を思い出していた。
「中学の時の友達が親から虐待されてて、結局そいつ、自殺しちゃったんだよね。結構仲良かったやつで、正樹だからマーティーって呼んでてさ。ちょうどバックトゥザ・フューチャーを観た頃だったからすぐにマーティーってあだ名にしてさ。マーティーも一緒になってバックトゥザ・フューチャーにハマって休み時間とか放課後等とかよくあーだこーだ話したの楽しかったな。でもさ、いつも家に帰る時間になるとマーティーの表情が暗くなるんだよ。僕もマーティーの家庭のことは知ってたよ。父親がマーティーに暴力を日常的に奮ってたんだよ。僕はその現場を見たことはなかったけど、学校に来るとさ、顔にあざを作ってくることもあったんだ。どうしたって聞いたら父親にやられたって。でも、僕は助けれてやれなかったんだよ。僕もマーティーの父親は怖かったんだよね。小学校の時にさ、地域の小学生たちがほぼ強制的にソフトボールやらされるんだけど、そのソフトボールチームの監督がマーティーの父親だったんだよ。僕たちもそうだけど周りの大人からも鬼監督って言われててさ。ある時、僕たちもマーティーも守備でミスを連発したことがあって、それにキレた父親がマーティーをネットに縛り付けにしたんだよ。そしてさ、縛り付けられたマーティーに向かって思いっきりボールを投げたんだよ。マーティーは身動きが取れないから、物凄い速いボールが、マーティーの腕とか腹とか足とかに当たるわけ。それを見せられた僕たち他のメンバーはビビっちゃってさ。それ以来マーティーの父親には逆らえないって思うようになっちゃって、マーティーが日常的に暴力を振るわれてるってわかってても、僕は助けてやれなかったんだよ。そして、マーティーはある日突然死んだ。マーティーが自殺した後にさ、結構ニュースとかにもなったんだよね。児童相談所や学校の対応はどうだったんだって。児相も学校もそりゃあ悪いよ。でも、それ以外の僕も含めた人たちもマーティーの自殺を止められなかったんだよ。それ以来、僕はマーティーが自殺したことを一日足りとも忘れたことはなくて。ある時、もしマーティーが生きていたら、虐待を受けたまま大人になったらどんな人生を歩んでたんだろうって思うようになってさ。そう思ったのが高二くらいの時かな。マーティーが自殺した当時、学校でスクールカウンセラーとの面談っていうのがクラスの全員に組まれてさ、その面談の時にマーティーがそのスクールカウンセラーには心を開いていろんな話をしてくれたって言ってて、僕が知らないマーティーの顔っていうかさ、そういうのを教えてくれたんだよ。僕は助けてあげられなかったけど、近くにそういう大人がひとりでもいたのかって思ったら、ちょっとだけ気持ちが楽になって、スクールカウンセラーっていいなってその時思ったんだよね。まぁそういうこともあって、虐待を受けた人がどんな思いで人生を送っているのか、どんな辛さがあるか、僕はどんな支援ができるか、そんなことを考えるようになって、今があるって感じかな」
新里は前方を見つめたまま、表情ひとつ変えず歩いていた。
「新里さん、聞いてる」長瀬は新里の肩をトンと叩いた。
「え、あ、はい」
「ごめん話し長かったね」
「ううん、大丈夫、大丈夫。あ、もうこんなとこまで来たんですね。わたしこっちなんで。長瀬さん家あっちですよね」
ふたりは住宅地を抜け、また中通りに戻ってきた。高円寺駅へ向かむ人は皆無で、駅からこちらへ向かって歩く人たちがちらほらいる程度だ。
「そう、うちあっち。大丈夫、ちゃんと帰れる」
「帰れます。すぐそこなんで。じゃあまたお店とかで」
「うん、また」
長瀬は新里が憂色を隠し切れていないことに気付いていた。
「また、散歩一緒に行こうね」
「はーい」新里は振り返らず右手だけ挙げて高円寺駅方面に歩いていった。
新里亨は新里摩耶の兄なのだろうか。だとすれば新里摩耶は想像もできない悲しみや苦しみを抱えて生きていることになる。そう思うと長瀬は心臓をギュッと握り潰されるかのように苦しくなった。そして、彼の中で新里摩耶に対する庇護欲が増すように感じた。