迷子の少女の育て方。
暑い夏です。
遮られた窓外で喚く蝉の声にぼんやりと、真っ青な空に眩しく目を細める。机上に広げたノートには無意識に引き摺った線が揺れているだけで、真っ白だ。講義の声が気怠く遠い。
そんな上の空の頭を後ろから、すぱんと丸めた教科書で叩かれた。
「痛って」
金に近い茶に染めた頭を擦りながら、青年は眉を顰めながら振り返る。後ろの席でにやにやと友人の嶋原和斗が笑っていた。講義が始まる前はいなかったのに、いつの間に後ろに座っていたのか。遅刻してこっそりと入ってきたのだと察した。講義はもう終わるが。
「なぁなぁアカリ、これ見て」
和斗は得意気に自身の携帯端末を差し出す。表示された画像には、桃色の髪の小さな少女が写っていた。朝樹灯理はノートを畳みながら少し驚く。
「可愛いっしょ!? 遂に買っちゃったんだよねー」
「よく買えたな。滅茶苦茶高い奴じゃん」
「滅茶苦茶貯金したんだよ! もう滅茶苦茶可愛い! ってわけで、お前今日合コン行かね?」
「どんなわけだ。俺今日バイト」
「果蓏少女、話題にもなると思って」
「話題作りで手ぇ出すもんじゃねーぞ」
「わかってるって! ちゃんと大人まで育てるし。つかまたバイトかよ! 夏休みにカノジョ欲しくね?」
「その果蓏少女がいるじゃん」
ノートと教科書、筆記用具をリュックに放り込み、灯理は立ち上がる。
「つかもう夏休みだろ」
定期試験も終わり通常ならもう夏休みだが、補講を受けに登校している。灯理の成績は良くなかったわけではないのだが、自主的に講義に参加している。少女に現を抜かしている和斗は真に補習が必要な者だが。
「お前も物好きだよなー。わざわざ自分から補講に来るとか」
「冷房あるし。じゃあ俺バイト行くから」
「はいよー。また今度誘うわ」
詰まらなさそうに携帯端末を仕舞う和斗を笑いながら、灯理は教室から出た。
――果蓏少女。草木の実から生まれる小さな少女のことだ。最初はペットのように飼い、成長すると分類が人間になる不思議な生物だ。特定の植物から実るわけではなく、様々な植物に寄生し結実する。勿論その性質に従い値段も高価で、学生にはなかなか手が出せない代物だ。成長すると人間に分類されることから、ペットとして扱うことに人権団体から目を付けられているが、灯理には興味がなかった。自分とは関係のない所で流れる他人事のニュースと言った感じだ。
教室で共に講義を受けたり廊下で擦れ違う女生徒も元は果蓏少女だが、扱いに不満の声は聞いたことがない。なので特に目くじらを立てるようなことではないのだと思う。
じりじりと茹だる暑さの中、電車に揺られバイト先の喫茶店へ向かう。喚く蝉もそろそろ暑さで参りそうだ。
人通りの少ない静かな住宅街にひっそりとその喫茶店はある。隠れ家と言えば聞こえは良いが、疎らな近所の常連が主な客だ。
からんと小気味良いベルの音と共に、涼しい店内に足を踏み入れる。珈琲を淹れていた無口な初老の店主が顔を上げ、客ではないことを確認し再び手元に視線を落とす。
穏やかな橙色の光と古い革張りの椅子、落ち着いた薄暗い店内は今日も人が疎らだった。盛況で大忙しと言うわけではなく店主が無口なために雇われているだけだが、忙殺されるよりは良いかと緩く働いている。あと賄いが美味い。接客を担当していた奥さんが早くに亡くなったとか、話を聞いたことがある。
店主に軽く頭を下げてカウンターの前を通過すると、無言で盆を渡された。懐かしさの溢れるナポリタンと小さなサラダのセット。そこに淹れたての熱い珈琲を置かれる。バイト代は薄っぺらいが、この賄い付きは魅力的だ。
閉店時間の夜まで常連客の相手をし、夕飯まで賄いを御馳走になる。ありがたいことだ。
着替えを済ませ、無口な店主に頭を下げて帰路につく。空はまだほんのりと明るい。夏の空だ。
赤信号で立ち止まっていると、小さな少女を散歩させている人が隣に立った。和斗が見せた画像と同じくらいの大きさの果蓏少女だった。目測でおよそ小玉スイカ二個分。最初の内は義務となっている首輪とリードを付けている。成長と共に外しても良い……はずだ。和斗の所為で意識してしまい、じっと見下ろしてしまった。少女も視線を感じて見上げる。暫く見詰め合ってしまった。
信号が青になると、リードを引かれて少女は歩き出す。灯理もその数歩後から歩き出した。
大通りを抜けると途端に静かになる。疎らな街灯の下で猫が横切った。
(……あ)
雑草の生い茂る近くの空き地へ入っていく。
(猫だったら飼ってもいいんだけど)
長く草の伸びた空き地に誘われるように、草を蹴って灯理も猫について行く。その先にいた数匹の猫が逃げずに灯理を見上げていた。
(誰かから餌貰ってんなこれ)
猫は好きだ。とにかく可愛い。近くに生えていた狗尾草を毟ってしゃがんで、思わずびくりと肩が跳ねた。
「!?」
しゃがんで初めて気付いた。地面に伏せた少女がこちらをじっと見ている。
「…………」
大きさからして先程見た少女と同じ、首輪とリードが必要な頃の少女だ。だが首には何も付けていなかった。
「まさか野良か……?」
少女は自然に結実するものだが、それは山や森などで、都会で結実することはあまりないはずだ。全くないとは言い切れないので判断に困るが、もし捨て少女だとしたら、捨てた人間は厳しく罰せられる。
猫と遊びたい気持ちも冷め、草を捨てて急いで踵を返した。あらぬ濡れ衣を着せられたら堪ったものではない。もし野良だとしたら保護団体が見つけて保護してくれるだろう。少女を見なかったことにする。
幸い空き地の付近には誰もいなかった。灯理はほっと胸を撫で下ろし、暗い夜道をいつもの速度で歩く。そしてコンビニに寄って、新作スイーツをチェックする。それが密かな楽しみだった。
(今日発売のショートケーキプリン……)
容器を一つ掴みレジに向かおうとして、足元から視線を感じた。
「は!?」
思わず声を出してしまい、慌てて口を塞ぐ。レジにいる女性店員と目が合った。下に目を移すと、見上げてくる空色の髪の少女とも目が合った。
(ついてきてるし! まずいまずいまずい! ここで振り切ったら通報される!)
首輪もやはり付いていないし、先程は草で隠れていて見えていなかったが何も服を着ていない。店員が訝しげに眉を顰めているのが見える。
(やばいやばいやばい! すっぽんぽん! 何とか誤魔化さねぇと! ……確かコンビニに少女用の餌があったはず……! 何か見たことある!)
スイーツを片手にだかだかと店を一周し、隅にある棚に少女用の飲食物を見つけた。食べ物と飲み物が一種類ずつ。その袋とペットボトルを一つずつ引っ掴み、早足でレジに出した。
店員はじっとりと灯理を見詰めた後、会計をしてくれた。コンビニには首輪や服は売っていないようで気まずい。店員と目が合わないように逸らし続ける。
拷問のような会計を終えると、灯理は急いでコンビニから飛び出し、小脇に少女を抱えて家まで走った。
昼間だと目立ったかもしれないが、夜なのであまり人と擦れ違わず暗がりに紛れられて助かった。
カンカンと音を立てながら金属製の階段を駆け上がり、アパートの二階へ、借りている部屋に逃げ込んだ。少女を床に放り出し、息を整える。少女は不思議そうに見上げるだけだ。自分の立場を何もわかっていない。
汗を拭きながら座卓にコンビニの袋を置き、買ってきたスイーツを取り出す。とりあえずこれでも食べて落ち着こう。
「……そんなに見てもお前は食えないからな」
「うー」
やはり生まれて日が浅い個体だ。言葉を発する気配がない。まだ普通の人間の食べ物も食べられないはずだ。
スイーツの蓋を開け、片手で携帯端末を操作する。勢いで連れ帰ってしまったが、この全裸の少女をどうすれば良いのか。便利な端末で検索をする。
「あ、美味い」
新作スイーツが美味しい時。それは至福の時間だ。
「うー」
少女が座卓に手を突いて物欲しそうに見てくるが気にしない。
端末を座卓に置き、コンビニ袋から餌の袋を取り出す。袋に書いてある文字に目を走らせる。
「少女用角砂糖……少女に必要な栄養が詰まった角砂糖……」
試しに袋を開け、一粒与えてみる。見た目は何の変哲もない普通の真っ白な角砂糖だ。少女は角砂糖を掴みまじまじと観察し、匂いを嗅ぎ、舐めた。
「うー!」
キラキラと目を輝かせて喜んでいる……と思う。
「どう見てもただの角砂糖だよな」
灯理も一粒抓み、試しに一口齧ってみる。いずれ人間になる生物なのだから、人間が食べても問題ないはずだ。たぶん。
「あっま! やっぱ普通の砂糖じゃん。これ毎日食うの?」
端末に目を落とすと、丁度食事の記載があった。
「えーと、『最初は一日一粒。足りないようなら朝夕一粒ずつ。水は必要なら随時』……」
コンビニ袋からペットボトルも取り出す。何の変哲もない水だが、水晶水と書かれていた。何か胡散臭い。
「『水は市販の水晶水か綺麗な水を与える。』……綺麗な水って何だ? 漠然としてんな。山の湧き水みたいな?」
コップに水晶水を注ぎ、ぺろぺろと角砂糖を舐める少女の前に置く。角砂糖に夢中で今は飲まないようだ。
角砂糖をひたすら舐める全裸の少女を横目で見ながらプリンを食べる。普通の人間より小さな少女用の衣服なんて持っているはずがない。
(明日、保護団体に電話してみるか……。捨てられたにしろ野良にしろ俺は悪くねーし。むしろ保護してんだから偉いくらいだし。……逮捕とか、されないよな?)
少女は一度購入してしまうと、譲渡は可能だが捨てると罰せられる。少女放棄罪とか何とか。勿論殺しても罰せられる。それは普通の人間と同じ殺人罪が適用される。扱いはペットだが、所々で人間と交差する。
端末を指先で繰りつつ、何故こんなことになってしまったのか考える。猫を追い掛けたからだ。猫がいたら追い掛けてしまうのは仕方がないだろう。
「――『成長してきたら角砂糖の他に花も与える。』……お前、花食うの?」
「うー」
「砂糖はともかく、花って食う物か? いつから人間になるんだ」
「うー。うー」
角砂糖を食べ終えたらしく指を舐め、こくこくと水を飲む。このまま全裸ではいけないことだけはわかる。
灯理もプリンを食べ終え、腰を上げる。
とは言え灯理の服ではとても着られる大きさではないので、適当にタオルを箪笥から引っ張り出した。じっと見上げてくる少女にタオルを投げると、その下でもぞもぞと暴れた。
「なぁお前」
タオルを持ち上げ顔を出す。
「言葉は喋れないけど、俺の言ってることはわかるか?」
「うぅ?」
「駄目だ理解してねぇ」
頭を掻き、お手上げだとベッドに向かう。どっと疲れてしまった。片耳だけのピアスを外してベッドの脇に置く。何故片耳なのかと言うと、片方だけ穴を空けて痛かったからだ。自分で空けるものではなかったのかもしれない。そういう中途半端な根性の人間だ。シャワーを浴びて寝よう。
軽くシャワーを済ませてから、タオルを何枚か敷いた簡易な寝床に少女は丸まって眠った。一から躾けないといけないものかと思っていたが、ある程度は認識して従ってくれるらしい。果蓏少女には興味がなかったため知識が乏しいが、何とかなってくれて良かった。
翌朝は目を覚ましてすぐに保護団体へ連絡をした。バイト先にも少し遅れる旨を説明した。電話には店主ではなく灯理と同じくアルバイトの女性が出てきた。今日は勤務時間が被っていないが、灯理が来るまで仕事を繋いでくれることになった。
ひとまず連絡したことで安堵したので、朝食の食パンを焼く。もぞもぞとタオルから這い出てきた少女には角砂糖と水晶水を置く。
欠伸をしながら朝食を終えた頃にインターホンが鳴った。ドアを開けると眼鏡を掛けた女性と、背後に大きな鞄を持った男が立っていた。この暑い中、二人共スーツだ。
「少女保護会の者です」
女は灯理の金髪とピアスの辺りをじっと見た後、背後でタオルに包まっている少女に目線を落とした。不安を覚えるような容姿らしいが、別に不良ではない。
「連絡いただいたのは、そちらの少女でしょうか?」
「あー、はい」
近くの空き地で見つけた経緯は電話で説明したが、信じてもらえたのだろうか。
少女は不思議そうに女を見上げたまま、とてとてと灯理の脚に獅噛み付いた。
「服も首輪も無い。野良の可能性が高そうですが、周辺も調べてみます。保護にご協力、感謝します」
ぺこりと頭を下げるので、灯理も頭を下げておく。何事もなく引き取ってもらえそうで安心した。
男は少女の前に跪き、壊れ物を扱うようにそっと優しく持ち上げる。少女は灯理のズボンをしっかりと掴み、空中でぷらぷらと小さな両足が揺れた。
「むー」
「懐いてますね」
「そう……ですかね?」
男はもう少し力を強めて引っ張ったが、このままでは少女が離すより先にズボンが脱げそうだった。初対面の人の前でパンツ姿は勘弁してほしい。
「……困りましたね。このまま飼いますか?」
「は?」
「無理にとは言いませんが、ここまで懐いているものを無理矢理引き離すと、成長に悪影響が出ないとも限りませんので」
「そんな軽い感じでいいんすか……? 見ての通り貧乏学生なんで、飼うのはちょっと」
そんなに懐かれるようなことをした覚えはないのだが、雲行きが怪しくなってきた。
「では引き剥がせますか?」
「…………」
男が手を離して場所を譲るので、息を呑んで少女の腰に両手を回した。……思いの外あっさりと持ち上がった。
「剥がせましたよ!」
生活を圧迫されるのは困る。簡単に引き剥がせて胸を撫で下ろした。男の手に引き渡すと、今度は指を掴んで離さなくなった。
「ちょ、指! 小指抜ける!」
「懐いてますね」
「え!?」
「仕方ないです。必要な物はこちらで用意しますので、せめて言葉を話すことができるようになるまで世話をしてください」
「何で!?」
「少女保護の義務です。放棄すると罪に問われてしまいます」
「嘘だろ?」
男が手を離すと、少女は灯理の腕に獅噛み付いた。コアラみたいだった。そして懐いてもらえなかった男は抱えてきた大きな鞄の中から首輪を取り出し、女に手渡す。拒否権はないらしい。
「後日改めてマニュアルを送付しますが、口頭で簡単に説明しておきます」
話を聞いてくれそうにない。勝手に話し始めた。
「まずは名前を決めてあげてください。勿論ペットではなく、人間としての名前です。そして野良と区別するための首輪を付けてください。まだ分別のない内は自由に動き回ってしまうので、外ではリードを付けてください。少女の安全のためです」
言いながら灯理に押し付けるように首輪とリードを握らせた。もう返す言葉がない。
「食事は専用の角砂糖を一日一つ、足りないようなら朝と夜に一つずつ与えてください。成長に伴い食べる量が増えるので、その時は角砂糖を増やさず、花片を与えます。どの花片でも構いませんが、毒草には気を付けてください。言葉を話すようになったら、人間と同じ物を食べ始めます。量は適宜、様子を見ながらです。それ以前に人間の食べ物を与えると嘔吐や下痢を引き起こしてしまうので、気を付けてください」
昨夜買った物と同じ角砂糖と水晶水を渡される。少女が力尽きて腕から滑り落ち、再び脚に獅噛み付いた。
「裸のままではいけないので、服と靴です。散歩は嫌がらなければ、可能なら毎日。最初の内は光合成もするので、太陽には当ててあげてください。人としてお風呂も毎日です」
「はぁ……」
学校の講義よりは内容が易しいが、それを実行するのは大変そうだ。
「他に何か、わからないことがあれば」
「話すって、いつ喋るんすか?」
「学習能力は高いので、遅くとも一年で喋るようになります」
「一年!?」
気が遠くなりそうだった。一年も少女の世話をしなければならないのかと。
「大体は半年前後ですが、勿論これは目安です。これより遅くなる場合も、早い場合もあります」
「早いコースで」
「強いて言えば、積極的に会話を交わして言葉に触れる機会が多ければ、早いでしょうか。同じ果蓏少女と交流するのも良いかもしれません」
「それだ!」
和斗は少女を飼っている。先駆者がいてくれて助かった。心の中で友人に感謝した。
「ご理解いただけて嬉しいです。それではまずは名前と服を。また何か不明なことがあれば、お電話ください。少女保護者の登録はこちらでしておきます。それでは失礼します」
嬉しいと言いながらにこりとも笑わず頭を下げる。閉まるドアを恨めしげに見詰めながら、灯理は頭を掻いた。
脚に獅噛み付く少女をそのままくっつけながら部屋に戻り、座卓の前に座って漸く手を離してくれた。不思議そうな顔で見上げる少女を無言で見、暫く見詰め合う。
「名前……」
置いていった服に手を伸ばし、床に広げながら考える。ふわふわで可愛い服だった。
「かぼちゃパンツ……これ何て言うんだっけ」
ドロワーズを手に首を捻りつつ、穿かせてやる。先程の女は分別がないと言っていたが、穿かせようとすると、どういう物かわかっているのかきちんと片足を上げる。体勢を崩して転んだが。
服を着せて首輪を付けると、様になった。様になったと言うのは変な感じだが、和斗に見せてもらった画像の少女と同じ種類になった。
今はまだ補講の最中だろうが、まだ寝ているかもしれない。和斗に電話を掛けてみる。数回のコール音の後に寝起きの声が出てきた。やっぱり寝ていた。
『……はいはーい。何ー? アカリ?』
「お前のとこの果蓏少女は元気か」
『初めて聞く挨拶だわそれ。元気元気。超元気。――あ待ってティッシュ! ティッシュやめて!』
声が遠離る。何か問題が発生したようだ。暫くそのまま待っていると、背後で小さな唸り声を引っ提げながら和斗が戻ってきた。
『元気すぎてティッシュ全部引き抜いてたわ』
「お……おぉ。そいつと今から散歩って行ける?」
個体差と言うやつだろうか。和斗の所の少女は随分と快活なようだ。
『散歩? アカリと?』
「詳しいことは後で話す……俺も果蓏少女飼うことになった」
『マジで!? 行く行く! 学校の近くの公園集合?』
「それでいい。今から行く」
『お前んとこの少女楽しみにしとくわ』
電話を切り、出掛ける支度をする。少女保護会から渡された物を床に広げ、必要な物を見繕う。体に固定するベルトが付いた小さなリュックがある。それにリードを取り付けるらしい。首輪に付ける物かと思っていたが、引っ張ると首が絞まるからだろうか。余所の少女のそんな所をまじまじと観察したことはなかった。きちんと考えられているのだなとリュックを背負わせベルトを留める。ハーネスと言うことか。リュックには角砂糖を少しと水晶水を一本詰めた。
窓に目を遣り、今日もよく晴れていることを確認する。深い青が一面に広がっていた。
「空……深空にするか、名前」
髪も青いので丁度良い。少女はきょとんと青年を見上げ、何か理解したのか両手をぱたぱたと振った。
「うー!」
喜んでいるのだろうか。よくわからない。
「お前の名前は深空だ。覚えたか?」
「うー! うー!」
「それ返事? ……まあいいや。散歩行くぞ」
灯理が立ち上がると、深空も両手を突いて立ち上がった。靴もまだ自分では履けないので、履かせてやる。
アパートの階段は隙間も大きいので深空を抱えて下り、漸く地面に立った。自由に動き回ると言っていたが、リードを引く必要もなく大人しく灯理の傍にいる。大人しい個体のようだ。昨夜は暗くてよく見えなかったからか、今日はきょろきょろと辺りを見渡して観察している。灯理が歩き出すと、深空もてこてことついて歩き出した。このまま大人しくしてくれていると助かる。
他の動物のペットとは違い、果蓏少女は籠に入れる必要なく電車に乗ることができる。切符も必要ないそうだ。人間の大きさまで成長すると、普通の人間と同じく料金が発生するらしい。電車の中で少女を見たことは何度もあるが、料金のことは初耳だった。だが扱いは荷物に近くなるので、座席に座る場合は膝の上に載せるのがマナーである。
公園に着くと、和斗の姿はまだなかった。隅にある木陰のベンチに座って待つ。誰だこの暑い中外で待ち合わせようと言ったのは。あいつだ。
深空に水を飲ませていると、リードをぴんと張って引き摺られるように走る和斗の姿が目に飛び込んできた。成程あれはリードが必要な奴だ、と灯理は納得した。
「よぉアカリ! 誰だこのクソ暑い中外で待ち合わせ言った奴!」
「お前だ」
「お前んとこの少女も超可愛いじゃん! 名前何てーの?」
「深空……」
「よし綺羅々、お友達の深空ちゃんだぞ。仲良くな」
「結構個体差あるんだな。髪とか」
「色は生まれた花の色に由来してるって聞いたけど。人間に近付くにつれ、黒とか茶とか、人の色になるって」
「へー」
綺羅々の髪は桃色だが、深空の髪は空色だ。
「青って珍しいよな。かなりお高いって聞いたけど……」
「ざっくり言うと、野良拾ったら飼うことになった」
「マジか! 良かったじゃん」
「良くねー……」
飼いたい者には良いのだろうが、興味がない者には荷が重い。
「だから相談してみようかと」
「成程なー。……あ」
少女達は暫く見詰め合ってお互いを観察していたが、何か気に障ったのか綺羅々がぺちりと深空の頬を打った。深空は何故打たれたのか理解が及ばず、大きな目を丸くして呆然と綺羅々を見詰めた。
「こら綺羅々! どうした? 駄目だろ? 謝っ……」
「びえぇぇぇぇぇ!」
大きな声を上げて深空が泣き出した。公園にいた他の人々が何事かと一斉にこちらを見る。
「ごめんアカリ! 綺羅々の奴、手が早くて……」
「飼い始めたばっかだからな。躾頑張ってくれ。――おい深空、泣き止め」
大泣きする空色の頭に、しゃがんでわっしと手を置く。
「お前も扱い方覚えた方がいいぞ」
「暑いんだから、泣いて体力消耗すんな」
泣き声を聞いているとこっちまで体力を消耗しそうだ。灯理は深空のリュックから水晶水のボトルを取り出し、有無を言わせず小さな口に突っ込んだ。口が塞がってしまった深空は目に涙を溢れさせたまま水を飲んだ。
「いやお前すげーわ」
「え?」
「暑いし、近くのファミレス行くか」
「何で最初からそっちで待ち合わせねーんだよ」
深空はボトルを両手で抱えたまま、少しだけ綺羅々と距離を取って歩いた。第一印象は最悪だった。
ファミリーレストランの中はよく冷房が効いていて、生き返った気分だった。丁度席が空いていたのですぐに座ることができた。普通に席に座ると少女の大きさでは机に届かないので、子供用の椅子を用意してもらう。角砂糖しか食べられない少女は何も注文することはないのだが。
灯理と和斗はそれぞれ飲み物と、もう昼なので料理を注文する。
「お子様ランチって何で子供しか食えないんだろうな」
「わかる。ハンバーグとエビフライが同時に食えるのは最高」
「俺ハンバーグにする」
「じゃあエビフライにする」
二人は互いに親指を立て合った。セルフお子様ランチの完成だ。
サービスの水は少女達の前にも置かれた。人間と同じ水なのかは見た目では判断できないが、和斗に訊くと、ちゃんと少女用の水を出してくれるのだと教えてくれた。灯理のバイト先の喫茶店では少女連れ客を見掛けないので対応したことはないが、もしかしたら少女用の水も用意されているのかもしれない。
「先にドリンクバー行っていいぜ。深空ちゃん見とく」
「おう」
灯理が立ち上がると深空も立ち上がろうとするが、手で制すると大人しく座り直してくれた。言葉はわからないが、動きなら察してくれるのかもしれない。自分の前に置かれた水をちびちびと飲み始める。
綺羅々がじっと深空のことを見ていたが、机を挟んでいるので、手を出そうにも届かないだろう。
炭酸飲料のボタンを押し、緑の弾ける泡を見下ろす。同じ少女でもあんなに個体差があるとは知らなかった。知らないだけで深空も手の負えない一面があるかもしれない。灯理は頭を抱えたくなった。
飲み物を手に席へ戻ると、二人の少女は大人しく椅子に座っていて安心した。和斗と見張りを交代する。
程なくして注文した料理が運ばれてくる。美味しそうだ。自分の前に置かれた湯気の立つハンバーグに目を落としていたが、ふと視界の隅で小さな手が伸びた。顔を上げた時には、綺羅々がエビフライを掴んでいる所だった。
「あっ」
人間の食べる物は食べてはいけないはず。そのことを思い出している間に、ぱくりと口に入れてしまった。食べたらどうなるのだったか思い出そうとしている内に、深空も真似をして手を伸ばすので、慌てて止めた。深空は不思議そうな顔をして見上げるが、手で防いでやるとやがてゆっくりと手を引っ込めた。
飲み物を手に戻ってきた和斗は、灯理が綺羅々の口から生えたエビフライの尻尾を掴んで引っ張っているのを見て真っ青になった。尻尾がぶちりと千切れる。
「お前またっ! トイレ行ってくる!」
綺羅々もすぐに苦しそうに青褪め、和斗に抱えられてトイレに駆け込んだ。
(またってことは、前にも食ったのか……)
飲み物に口を付けつつ、戻ってくるのを待つ。待っている間に思い出した。人間の食べ物を食べると嘔吐もしくは下痢に襲われるのだった。
暫くすると、ぐったりとした綺羅々を抱えて和斗が戻ってきた。疲れた顔でどっかと座る。
「ごめん。俺が見てたのに。大丈夫だったか?」
「何とか……全部吐いたけど。一回目はただの興味だろうけど、食べ物の味を覚えたみたいで、隙があれば手を出すようになった……」
「美味いなら食えたらいいのにな」
「消化器官が発達するまでは人の食い物は食えないんだと。上手く消化できないらしい」
「納得した。俺も気を付けるわ」
「マジで大人しいよな深空ちゃん。朝起きたらティッシュの海だったとか、ないだろ。店にいた時は綺羅々も大人しかったんだけどなぁ」
「ないけど。遊んでほしいとか?」
ハンバーグとエビフライを半分に分けそれぞれの皿に載せながら、情報交換をする。
「誘い方が激しいなー。何か玩具とかあげた方がいいのかね」
「少女用の玩具?」
「あぁそっか。深空ちゃん野良だから、店には行ってねーのか。果蓏少女の専門店に行けば、服とか玩具とかたくさん売ってるぞ。他の少女もたくさんいるし、一度行ってみたら?」
「店か……全く考えたことなかった」
確かに専門店ならば多くの果蓏少女がいるだろう。野良少女の深空は他の少女を見る機会はなかっただろうし、見るだけでも刺激になるはずだ。何かあれば相談もできるだろう。
「参考になった。お前呼んで良かったわ」
「マジ? 奢り?」
「それは無理」
貧乏学生に奢りは求めないでほしい。軽い冗談だということはわかっているので笑いながら流す。
食べ終わる頃には綺羅々も回復し、自棄水を煽っていた。わかっていても摘み食いを止められないようだ。
和斗と別れ、その足でバイト先の喫茶店へ行く。深空も連れて行くことになるが、これだけ大人しければ大丈夫だろう。と綺羅々を見ていて思った。
喫茶店に着きドアを開けると、食器を下げていた同僚のバイト店員、古閑雛子が顔を上げた。丁度帰った所なのか客はいなかった。
「朝樹君! もっと遅くなるのかと思ってたよ。その子が件の子?」
灯理の脚を掴んで後ろに隠れている少女を覗き込むように雛子は頭を動かす。
「代わりあざっす」
「いいよぉ。私も何かあったら代わってもらうし。その子青花だよね。珍しいねー。何て名前?」
ちらりと覗く空色の髪に感嘆の声を上げる。
「深空です。そういえば古閑さんも果蓏少女だったんすよね? どんな感じだったんすか? 毎日砂糖食って」
食器を片付けるのを手伝いながら、何気なく訊いてみる。
「私って言うか、女の子は果蓏しかいないけどね。砂糖食べてた時はねー、あんまり覚えてないんだよね。男の子だって、赤ちゃんの時の記憶あんまりないでしょ?」
「あー。まあ、そうすね」
この世の全ての女性は、元は果蓏少女だ。昔は人間同士でも女児が産まれたらしいが、今は男児しか産まれない。だがそれだと人間が絶滅してしまうので、女児が生まれるように研究が進められた。だがなかなか良い方法は編み出せず、当時金持ちの道楽だった果蓏少女と言う植物交配で人間を存続させることになった。金持ちの道楽と言うだけあって交配成功率の少なさから購入も飼育も金が掛かるため、一般人でも育てることができるように研究者達が頭を付き合わせて交配成功率を上げ、何とか価格を今の状態に落ち着かせた。ペットとして飼わせているのは、成長するまではとても人間と呼べるものではなかったので、ペットという言葉が流行ってしまったからだ。なのでペットとは言っても、犬や猫とは大きく扱いが異なる。少女を売る店はペットショップとは言わない。女性も、ペットとは言っても愛情を受けて育てられるので、特に気にしていないようだ。一部では問題になっているが。
「覚えてるのは、人のサイズになってからかな。花は時々食べたくなるんだけど」
「えっ。美味いんすか……?」
「甘く感じるけど、男の子には不味いの?」
「食う物ではないと」
「ハーブティとかエディブルフラワーとかあるのに」
そう言われれば食べられる物もあるかもしれないと思い直した。だが味はあるのだろうか。少女とは味覚が違うのか。
「青花の子って静かな子が多いらしいね」
「そうなんすか? じゃあ古閑さんは青じゃないのか」
「何か失礼なこと言ってない? 花色性格診断っていうのがあるのよ」
「へー。ピンクは?」
「お転婆さんだねぇ」
「あぁ……」
綺羅々を思い浮かべて納得した。生まれた花の色で性質が変わるとは。血液型占いのようなものなら一概には言えないが。
「私は黄色だったらしいよ」
「黄色って?」
「元気!」
「あぁ……」
「何か反応が腑に落ちないな」
机を拭き、空の食器を載せた盆を運ぶ。
カウンターに店主が熱い珈琲を二杯差し出してくれた。
「ごちです、マスターさん!」
「あざす」
無口な店主は今日も無言だ。客が来ないので、カウンター席に座って珈琲を飲む。深空も椅子に攀じ登ろうとするが、届かなくて断念した。
「猛暑だから人来ないねぇ。朝樹君、休みでも良かったんじゃないかな」
「それは困る……。着替えてきます」
珈琲を飲み干し奥の控え室に足を向けると、深空も後をついてきた。雛子の言った性格診断の通り静かだ。そしてハッとしてぴたりと足を止めた。深空が脚にぶつかった。
「静かってもしかして、喋り出しが遅いんすか?」
「んー。そういう子もいるけど、喋らないから喋れることに気付かないんだって」
「うわぁ」
思わず嫌そうな声を出してしまった。喋るまで世話をするという話が、一気に憂鬱になった。みっちり一年コースかもしれない。
着替えを済ませて腰にエプロンを巻き、深空のリードを引いて店内に戻る。まだ客は誰もいなかった。雛子がのんびりと珈琲を啜っている。
「あ、そうだ古閑さん。少女専門店って知ってますか?」
「うん。この近くにもあるよ。偶に寄ってる」
「場所教えてほしいんすけど。古閑さんも飼うんすか?」
「んーん。飼わなーい。大人になっても必要な物があるのよー。じゃ後でメッセージ送るね。私これで上がりだから」
「お疲れっす。果蓏って大変なんすね」
「まあ仕方ないよね」
そう言うと伸びをしながら雛子は奥の部屋へ入っていった。
それから客は疎らに数えられるくらいしか来なかったが、閉店まで店にいた灯理は着替えて携帯端末を手に取る。雛子からメッセージが入っていた。添付された地図を表示し、場所を確認する。本当に近くにあるようだ。向こうの閉店時間も近いようで、急いで喫茶店を出る。
人通りの少ない雑居ビルの通りを歩き、街灯の無い細い路地に入る。路地を抜けるとぽつんと立った街灯の下に忽然と店が現れた。
(こんな所、初めて来た)
ウィンドウには少女の姿はなかったが、少女用の服や玩具が飾られていた。
「うー」
これには興味があるのか、深空もウィンドウに貼り付く。ぬいぐるみが気になるらしい。
「深空、中に入るぞ」
「うー」
思い扉を開けると、カーテンが引かれていた。もしやもう店仕舞いをしたのかと焦るが、そっとカーテンの端を覗くと明かりは点いている。
「うわ」
一人ずつ大きな籠に入れられた少女達がこちらを見る。何故だか不気味に見えた。
「いらっしゃいませ」
奥から女性店員が顔を出した。
「何をお探しでしょうか?」
にこやかに頭を下げ、灯理と深空を順に見る。
「あ……えっと、こいつに他の果蓏を見せてやろうと」
「そうなんですね。ではごゆっくりご覧ください。怖がらせないように、籠にはお手を触れないようにお願いします」
店員は頭を下げ、数歩後ろへ下がる。
「深空、お前の仲間だぞ」
「うー」
深空は不思議そうに少女達を見、少女達も不思議そうに見返した。
髪の色は生まれた花由来とのことで、色取り取りの少女がいる。白や赤が多い気がする。
「青い髪の果蓏はいるんすか?」
「あまり見つからない色の果蓏少女は奥にいますが、現在は青色は欠品しています。近い色でしたら、紫色の個体はいます」
「やっぱり青は珍しいんすか」
「そうですね。育てるのも難しいですし」
「え!? そうなんすか……?」
思わず大きな声を出してしまった。籠の中の少女達が驚いて一斉に灯理を見る。
「成長するにつれ花を食べるようになりますが、生まれの色の花を好む傾向がありますので。青い花を探すのは大変かもしれません」
「売ってないんすか……? コンビニみたいに」
「スーパーなどでも取り扱いはありますが、白や赤などよく見掛ける色が殆どですね。あまりない色は生花店で買われる方が多いです。あとはご自身で育てると言うのも」
庭もベランダもない狭いアパートで花を育てるのは無理だ。それに花なんて小学生の頃の授業でしか育てたことがない。深空の空色の頭を見下ろし、花屋に賭けることにした。
「青色なら、今の季節なら朝顔が青いですね。ですが種には毒があるので気を付けてください。今の時期によく見掛けるデルフィニウムは毒草ですので、与えないようにしてください」
助かった、と灯理は胸を撫で下ろした。何とか餌は確保できそうだ。朝顔なら万一でも育てられそうな気がする。毒だけは気を付けよう。種に毒があるとは知らなかった。
「……これは関係ないかもなんすけど、大人になっても必要な物ってあるんすか?」
雛子が言っていたことが気になっていたのだ。普通の人間と同じものに成長して猶何が必要なのか。
「当店で取り扱っている物でしたら、安定薬でしょうか」
「安定薬?」
「心身の不調で、植物の頃の性質がぶり返すことがあるんです。それを鎮める薬です。人間の食べ物への食欲が落ち、花を食べたくなります」
雛子の言葉を思い出す。花を食べたくなる時があると。心身の不調なんて、見た目では何も感じなかった。
「病気……ってことすか」
「近いかもしれませんが、病気には分類されていません」
病気ではないなら、然程気にするものではないのだろうか。ここは果蓏少女を販売しているだけで、病院でも薬局でもない。
「ありがとうございます。――あ。あと最後に、紫色の果蓏見てもいいすか?」
「はい。では奥の方へ」
同じ色ではなくとも近い色なら、深空にも良い刺激になるかもしれない。
店の奥に他の少女の籠とは少し離れて、眠っているのか薄紫色の髪の少女が籠の中で目を閉じていた。
「深空、お前に近い奴だぞ」
「う?」
じっと少女を見上げる深空の手に何かが抱えられていることに気付いた。
「何それ」
「少女用のぬいぐるみ型リュックです」
店員がご丁寧に説明してくれた。いつの間に商品を持ってきたんだ。
「持ってても買わないからな」
言葉が理解できない深空は、よく見せてやろうとクマのぬいぐるみ型リュックを灯理の前に掲げた。それを返却と捉えた灯理はリュックを掴む。
「……離せ?」
「むー」
全然離してくれなかった。
「そんな余裕ねぇからな?」
「むー!」
「気に入ったみたいですね。四千円です」
「微妙な値段!」
少女保護会が来た時もこんな遣り取りをした気がする。
「本当に朝顔から生まれた個体かもしれませんね」
「わかるんすか?」
「蔓植物は絡みつくもの。握力が強いです」
「最悪じゃん」
それはもうリュックを引き剥がせないと言うことではないのか。店員はにこりと笑顔で会計を待っている。必要経費として少女保護会に請求できないだろうか。
「……わかりました。領収書ください」
「はい。ありがとうございます」
値札を切る間も深空はリュックを離さなかった。他にもぬいぐるみはたくさん陳列されているが、余程気に入ったのだろう。
「おい深空。それリュックだから背負ったらぬいぐるみ見えねーぞ」
「うー」
「一緒にお出掛けできるのが、良いのではないでしょうか?」
「そうなんすか?」
少女の好みはよくわからなかった。
「早く成長させる薬でもあればいいのに」
「薬ではありませんが、ありますよ」
ぽつりと愚痴を零しただけなのだが、返事があるとは思わなかった。思わず身を乗り出してしまう。
「あるんすか!? それください!」
「こちらのリュックより高いですが、栄養価の高い少女用のミルクがあります。早く会話を楽しみたい方などは常用されていますが、多くの方は記念日など特別な日に買われていますね」
「高いんすか……」
「一本一万円です。買われますか?」
そう言ってとんと出された瓶は小さな牛乳瓶の大きさだった。一升瓶でも出てくるのかと思っていたが、頭を抱えるしかなかった。
「か、考えさせてください……」
これを常用させている人間はきっと金持ちだ。元は金持ちの道楽だったと言うのが頷ける。庶民には厳しすぎる。成長ショートカットは諦めるしかない。
店を出ると外はすっかり暗くなっていた。時計を確認すると、閉店時間を過ぎている。長居してしまったようだ。
夜になっても蒸し暑い空気が体に纏わり付く。深空は家に帰るまでずっとぬいぐるみリュックを抱えていた。
(そういや和斗は綺羅々を置いて補講に来てたんだよな。あんな目を離せない奴をどうやって置いてきたんだ?)
道の端を歩きながら、和斗にメッセージを送ってみる。暫く待つと、一枚の画像が送られてきた。部屋中トイレットペーパーが走り回っている。
(家に着く頃には片付いてるか)
他人事のように思い、携帯端末を仕舞った。
くんとリードが引っ張られ振り返り視線を落とすと、深空が必死に小さな足を動かしていた。
「わり。歩くの速かった」
「うー。はやー」
速度を落としながら、ハッとした。
「お前今……! ……喋った?」
「う?」
「俺の言葉真似しただけ?」
「うぅ?」
「真似でも喋ったことになるよな? これなら割と早く世話から解放されるかも……」
少し遣る気が出てきた。先が遠く見えないより、少しでも成果を感じれば遣る気になる。テレビでも見せて言葉に慣れさせよう。
(あ、俺ん家テレビねーわ)
携帯端末で動画でも見せよう。
いつものようにコンビニに寄り、スイーツを買う。昨日と同じ店員がいたので、ちらちらと深空が見えるように歩く。不審者だと思われている可能性があるので、改めておいてほしい。今日は首輪もリードも、服だって着ている。完璧だ。こっちを見ろ。
アパートに着いてポストからチラシと郵便物を拾い早速スイーツを頬張っていると、漸く和斗からメッセージが来た。ざっと目を通す。
(少女用の託児所とかシッターがいるのか……そこは扱いが人間っぽいな)
和斗は託児所を利用しているようだ。託児所だと他の少女もいるだろうし、何より世話から解放される。意外と良いかもしれない。金額を考えなければだが。
ぬいぐるみリュックと向かい合わせて座っている深空を見遣り、息を吐く。ポストから抜いたチラシを一枚丸め、深空の近くに放り投げる。深空はてとてとと丸めた紙を追い掛けて拾った。それを灯理の前に持って行って差し出す。
「取ってこいができるのか」
チラシの中から薄い封筒を掘り出し、宛名を確認する。少女保護会が言っていた果蓏少女のマニュアルだろう。中身を抜いて封筒を深空に渡すと、手を突っ込んでばたばたと遊び始めた。玩具を買わなくてもこれで乗り切れそうだ。
マニュアルをパラパラと捲るが、最初に説明を受けたことが書かれているだけのようだ。喋るようになってから後の世話は灯理には関係ない。人間に分類されるまでの世話の仕方が載っている。
一番最後の頁は注意書きだった。最初は人間の食べ物を与えてはいけないことや放棄すると罪に問われることなどが書かれている。その中で気になる一文があった。
(『生育に問題が発生するため、不安にさせてはいけない』……?)
その一文だけで、不安になるとどうなるのかは書かれていなかった。安定薬のことも、人間になってから呑む物だからか記載がなかった。
丸めた紙を受け取ると、深空はぬいぐるみリュックを引き摺り灯理の前に座った。
「深空は今どんな気分だ?」
「うー」
ぱたぱたとぬいぐるみの手を振って灯理を見上げる。気分は悪くはなさそうだ。
「ああそうだ、動画見せるんだったな。子供向けの何かあるか……わっ!」
動画を検索していると、突然電話が鳴った。動画を視聴しようとしている時に電話の機能を出されると驚く。携帯端末を落としそうになり、慌てて両手で掴む。先程メッセージを遣り取りしていた和斗だ。何かあったのかと、すぐに通話ボタンを押す。
「もしもし? また綺羅々が暴れてんのか?」
暫く声は聞こえず、ガタガタと物音だけが流れた。
「取り込み中?」
『…………たっ、たすけっ……!』
「和斗?」
『やばい! ころさっ……うわああ!』
ガチャンと大きな音が鼓膜を突く。携帯端末を落としたらしい。声が遠い。
「おい、どうした?」
暫く待っても、端末が拾われることはなかった。
ごそごそと何かしているので深空を見ると、背負っている支給されたリュックのベルトを外していた。握力がある所為か意外と器用だ。
「ああもうこんな時に外すな!」
ぬいぐるみリュックを差し出すので、背負いたいのだと察する。急いでリュックをぬいぐるみに交換しベルトを締め、リードを付け直した。深空を脇に抱え、家を飛び出す。和斗に何かあったのだ。先程の散乱したトイレットペーパーは和斗の家の中だった。不審者にでも襲われたのか。深空を一人残していくわけにもいかず思わず連れ出してしまったが、不審者に鉢合わせた時のことは考えていなかった。
電車に駆け込み、和斗の住んでいるマンションを目指す。一人で住んでいるので、他には誰も様子を見に行かないだろう。
黒い景色の中で流れる小さな光が、とてもゆっくりと見えた。
深空を抱えたまま走っていると腕が疲れてきたが、そんなことは言っていられない。
マンションには何度か行ったことがある。古いマンションだ。エレベーターを待つ時間ももどかしかったが、階段を駆け上がるよりも待つ方が結果的には速い。
和斗の部屋の前に立ち、息を整える。
「うー」
「深空、ちょっと静かにしてろ」
言葉はわからないだろう、口元で人差し指を立てる。これで理解してくれると良いが。深空は一度両手を上げ、足をぷらぷらと揺らした。不安だ。
ドアには鍵が掛かっていなかった。確かオートロックではなかったはずだ。音を立てずにドアを開け、短い廊下の先を見る。廊下の明かりは消えていたが、奥の部屋の明かりは点いていた。足元に目を遣ると、男物の靴と小さな少女用の靴だけがあった。土足で侵入はともかく、来客はなさそうだった。
音を立てずにドアを閉め、少し考えてから土足で上がった。万一不審者がいた場合、すぐに逃げるには靴を履いていた方が良い。部屋は物音一つなかった。
そろそろと歩きながら途中にドアが開いている浴室の中を覗き、異常がないことを確認する。その足で突き当たりまで行き、磨り硝子の嵌ったドアの前に立つ。中が見えない。
(ちっ、開けるしか……)
次第に間怠っこしくなってきた。一部屋しかないのだから、ここにいなければここにはもういない。勢いよくドアを開け放った。
「は?」
――つもりだった。
がんっと何かにぶつかり、途中でドアが止まった。それでも人が通れる程の隙間はある。深空を後ろに下ろし、横向きになって部屋に入った。
「何だこれ……?」
以前来た時にはそんな物はなかった。部屋の中には木が生えていた。鉢に植わった観賞用の植物ではない。床に直接生えている。葉は無い。根がドアまで伸びていた。ドアが開かなかったのはこれの所為のようだ。同じような木が二本。一本がもう一本に縋っているようにも見えるが、ただ生えているだけ。
床に携帯端末が落ちているのを見つけた。拾い上げてみると、まだ通話中になっていた。灯理もまだ通話を切っていないので、そのままだ。拾った端末は何となく同じ場所に置く。
ドアの隙間からリュックのぬいぐるみを詰まらせつつも中に入ってきた深空が、しゃがみ込んで置かれた端末を見下ろす。
「和斗……? 何処かに隠れてるか?」
部屋をぐるりと見回すが、誰の姿もない。ベッドの下の隙間には収納ケースが収まっており、人の入れる隙間はなかった。玄関に靴があったので、外には出ていないはずなのだが。
足元の根に躓かないように跨ぎながら、木の周りをぐるりと回ってみる。
「……ん」
幹に小さな窪みが幾つかあった。
「何だこれ……」
思わず顔を顰めてしまう。人の顔のように見えた。人間は壁の染みなど三点があれば人の顔と錯覚してしまうらしいが、そんな漠然とした点の集合ではない。目の形も鼻の凸も開けた口もはっきりと人間のそれだと認識できた。そして伸びた枝は、落ちた携帯端末に伸ばされているような――。
もう一本の木には、顔のような窪みはなかった。
「うー」
携帯端末から興味をなくし、深空はとてとてと木に触ろうとする。得体が知れないので慌ててリードを引いた。深空はぱたぱたと木に向かって両手を振る。
「きらら!」
深空が初めて明確に言葉を発した。通常ならば感動したかもしれない。だが深空の目は真っ直ぐ顔の無い木に向けられていて、その木からはぽつりぽつりゆっくりと桃色の花が咲き始めた。
「なっ……!?」
何もかも不気味だった。後退ると根に躓いて尻餅をついてしまった。根に綺羅々がつけていたリードが絡まっていた。視線が低くなったことで、顔の無い木の下に千切れた首輪が転がっているのが見えた。
灯理は反射的にドアに手を掛け、引き摺るように深空のリードを引いて部屋から出た。再び深空を抱え、走って家に帰った。
ガンガンと騒々しく音を立ててアパートの階段を駆け上がり、部屋に飛び込む。深空を下ろして漸く少し落ち着いた。
「はぁ、はぁ……」
夜とは言え蒸し暑い中走ったので、汗がぐっしょりだ。肩で息をしながら汗を拭い、水を一気に飲む。
「……なぁ深空……さっき、綺羅々って……」
「うー」
「俺の名前は?」
「うー」
駄目そうだ。偶々発した声が名前に聞こえただけなのか、何気なく言っただけなのか。
「保護の人に電話して大丈夫か……」
走って帰ってきてしまい事件性があるのか判断できなかったため、警察に電話をするのは躊躇ってしまった。時計を見ると、もう十時を回っていた。明日にしようか迷った後、このままでは眠れなさそうだったので少女保護会に電話をしてみることにした。顔に見えた木がどうしても気になった。問題があれば警察にも電話すればいい。誰も出てこなければ明日掛け直そう。
数回のコール音の後、女性の声が聞こえた。
『こんばんは。少女保護会です』
「あっ……」
相手が出てくるとは思っていなかったので焦ってしまうが、何とか深呼吸をする。
「あの、朝樹ですが……」
『ああ、朝樹さんですか。どうかされましたか?』
家に来た眼鏡を掛けた女性の声だ。落ち着いた声に釣られて徐々に落ち着きを取り戻す。
「友達が果蓏少女を飼ってるんですけど、その……いなくて」
何も落ち着いていなかった。話が滅茶苦茶飛んでしまった。
『いなくなったと言うのは少女ですか? お友達の方ですか?』
話が飛んだのに、合わせてくれようとしている。声に焦りが出ていたのかもしれない。
「両方です。電話が掛かってきて、出たら様子がおかしくて、家まで行ったんです。そしたら木が生えてて……誰もいなくて……」
『わかりました。お友達の住所を教えてください』
「わかったって……俺は何もわからなくて、教えてほしいんすけど」
『機密事項です』
突然口を噤まれ、眉を顰めた。
「機密? 胡散くさ……教えてくれないとウチの果蓏がどうなっても知りませんよ」
『危害を加えて捕まるのは貴方ですが』
「…………」
正論だった。交渉するには灯理は無知すぎる。その中でも何とか、糸口を手繰り寄せる。ただの他人なら食い下がらないが、友人となれば話は別だ。
「うちの果蓏が木を見て、友達が飼ってた果蓏の名前を呼んだんすけど」
電話口の向こうで驚いたような気配を感じた。
『……もう話せるようになったんですか?』
「俺実はすげーブリーダーかも?」
はったりが雑だと我ながら思ったが、引き下がれなかった。野良少女は拾った時点では生まれてからどの程度経っているのかわからないはずだ。話せるようになるまでの期間がどれ程掛かるかは未知数。ならば世話を始めてすぐに喋れるようになっても疑えないはずだ。たぶん。
『少女が話してしまったのなら仕方ないですね……車で行きます』
心の中でガッツポーズをする。
電話を切り、しゃがんで深空に視線を合わせる。
「深空。今から人が来るけど、声を出すなよ」
口元に人差し指を当て、理解はしていないだろうが言い聞かせる。喋らなければ、喋れないかはわからない。雛子に教えてもらった性格診断を参考にする。
程なくして、先日家に来た時と同じ男女がやってきた。あの時と同じスーツ姿だが、男の方は大きな鞄を持っていなかった。
「こんばんは、朝樹さん。車へどうぞ」
このまま誘拐される可能性は考えていなかったが、黒い車の後部座席に乗り込んだ。ちらりと座席の後ろに目を遣ると、あの大きな鞄があった。
「何処へ行けばいいですか?」
運転は男の方がするらしい。灯理は後部から指示を出し、和斗のマンションへ向かった。深空を抱えて走った道も車なら一瞬だ。
近くの駐車場に車を駐め、男は大きな鞄を担いだ。少女用の飲食物や服以外にも何か入っているようだ。
狭いエレベーターに乗り込み、和斗の部屋まで行く。玄関の鍵は開いているままだった。靴もそのままで、今度はその横に靴を脱いで部屋に入る。奥のドアは途中までしか開かないが、灯理は深空を連れて入り、女も後に続いた。男は挟まった。仕方ないのでドアを外した。
「これはまた……」
桃色の花が咲く木を見上げ、女は声を漏らした。灯理が部屋を出た時よりも花が増えている。
「桃の花ですね」
「桃って……今は夏なんすけど」
花に詳しいわけではないが、桃と言えば桃の節句、つまり三月の雛祭りの花だ。なので春の花であることはわかる。夏に咲く花ではない。
「お友達の少女の髪の色はわかりますか?」
「ピンクです」
「ではこの個体でしょうね」
「?」
「殺処分します」
「殺?」
木でも殺すと言うのか? 切るとかではないのか。
「きらら! きらら!」
深空がぱたぱたと木に手を伸ばしながら走ろうとするので、慌ててリードを引いて抱き上げた。喋るなとは言ったが、やはり理解していなかったようだ。言葉を言うなら問題ないが。先程は偶然だと思ったが、これは明確に名前を呼んでいる。女も深空を見て目を見張っている。何か気分が良かったが、顔には出さないでおく。顔に出すと襤褸が出る。
「あかり!」
ぐいぐいと服を引き、名前を呼ぶ。初めて名前を呼んでくれた感動を叫びたかったが、吐き出す所がないので真顔で感情を殺す。
「こんなもんすよ」
「本当に喋るとは思いませんでした」
「それで、殺処分ってどうするんすか?」
「燃やします。これは病気に罹った個体なので」
「病気?」
反射的にそろそろと壁際まで後退する。
「感染るんすか……?」
「ないとは言い切れません」
「ってか、どんな病気……? 普通の木なんすけど……」
「貴方の抱いている少女が呼んでいたではないですか。
これは『きらら』ですよ」
「はっ……?」
「もう一本の木は飼い主の方でしょうね。取り込まれてしまったようです」
「!?」
ぞっと背筋に冷たいものが走った。ただの木に見えるこれが、人間……?
顔に見えた幹は灯理が部屋を出た時よりも薄く、幹が太くなっていたが、じゃあ、この顔は……?
「和斗……?」
助けを、求めていた?
「稀に発症する病気です。精神が不安定になると発症しやすいですが、その限りではありません。こうなってしまえば、もう元には戻りません。植物に戻るだけです」
「わ、和斗は! ……友達は人間で、果蓏じゃねぇ! 人間が、木になるなんて……」
「植物が人間になるんですよ? 取り込まれれば逆もあるでしょう」
床に落ちている携帯端末は画面が真っ黒になっていた。伸ばされた枝は、手だったものだ。助けを求めていた顔は徐々に木に呑み込まれていく。開いた口はただの虚になっていく。
男が手にバーナーを持っているのが見えた。燃やす気だ。
「ここマンションだぞ!? マジで燃やすのか!?」
「大丈夫です。病気個体だけを燃やす特殊な物です。火事にはなりません」
男が確認のためにバーナーのトリガーを握り、少しだけ火が出た。見た目だけでは普通の火と変わりなかった。和斗だと言う木にバーナーを向けられ、頭が真っ白になってしまった。
「やめろ!」
男の手からバーナーを蹴り飛ばし、思い切り顔を殴った。
男は机に体をぶつけながら蹌踉ける。口を切ったのか少し血が出ていた。
「朝樹さん。お気持ちはお察ししますが、暴力は良くありませんよ」
「黙って見てられるわけねぇだろ!? 和斗は友達なんだよ! 何でっ、燃やされなきゃ……!」
「人間も死んだら燃やされますよ」
「! 死ん、で……」
「はっきりと申し上げます。元に戻らないと言うことは、死んでいると言うことです。これは人間としては死体と呼ぶ物です。ご理解ください」
「そん、な、こと……そんな説明はされてない!」
「ですから、機密事項です」
「何で言わねぇんだよ! 知ってたら……薬があるんだろ!? 病気だって言うなら!」
「これは不治の病です。特効薬はない。ならば、いつその病気が発生するかもわからない少女を、貴方は飼いますか?」
「それは……」
元々果蓏少女に興味のなかった灯理には、飼う人達の気持ちなんてわからなかった。
「安心してください。この病気が発症するのは幼い個体だけです。私は発症しませんよ」
女は薄っぺらく微笑み、バーナーを拾った。
「押さえていてください」
灯理は後ろから男に羽交い締めにされ、女は木に火を噴いた。燃える花が火の粉のように床に落ちたが、床は燃えなかった。焦げもしなかった。木だけが赤く燃え上がった。もう殆ど顔がわからなくなった木が真っ赤に燃えて灰になった。一部始終を見せられ、呼吸が浅くなる。深空は火から逃げるように灯理の腕を強く掴んでいた。
「家まで送ります。朝樹さん」
それからどうやって車に乗り込んで帰ったのか、よく覚えていなかった。気付いた時にはベッドの上で朝になっていた。深空は腕に掴まったまま丸まって眠っていた。
呆然と天井を見上げていると、あの胸糞悪い出来事が全て夢だったのではないかと思えてくる。いや実際夢なのではないだろうか。自分の携帯端末を見下ろし、電話を掛けてみる。何事もなくけろりと電話に出てくるのではないだろうか。
「あれ……?」
近くで電子音が聴こえた。呼び出しを切ってみると、音も止まる。
音は深空から聴こえていた気がする。腕に掴まる深空を引き剥がすと、ぽろりと携帯端末が落ちた。
「! 持ってきたのかお前……」
端末を拾うと、今し方の灯理の着信履歴の表示があった。間違いない。和斗の端末だ。
心の中で一言断り、端末を覗く。最後に和斗は灯理にトイレットペーパーの画像を送ってきた。写真の一覧に何か残っているかもしれない。
「なっ……」
一覧を表示すると、気味の悪い写真が並んでいた。トイレットペーパーの後に写真が数枚と、最後は動画だった。
最初の写真は綺羅々の手だった。綺羅々の全体を写そうとしているためわかりにくいが、拡大すると数本の指先が茶色く尖っていた。痛くはないのか、不思議そうな顔をしているだけだった。次の写真は茶色い指が増え、綺羅々が笑っていた。端末ではなく、その向こうにいる和斗を見ていた。そんな写真が数枚。
最後の動画を再生してみる。写真の続きのような始まりだった。十本の指全てが茶色くなっている。
『拭いても取れないから汚れじゃないのかね?』
和斗の声が聞こえる。昨日も聞いた声なのに、妙に懐かしく苦しかった。
『何だろーなー。痛くない?』
『うー!』
『よしよし大丈夫そう』
そこから見る見る茶色は侵蝕していき、腕や脚も木のような質感になっていく。
『これ大丈夫!? 何? 綺羅々痛くない? 病院行った方がいい!?』
『うぅー!』
痛そうな顔はしていないが、徐々に不安そうな顔になる。枝のようになった手を伸ばし、和斗の手が恐る恐る先端を掴む。
『枝みたいだけど、これ何!? 成長過程の何か!?』
『みー! みー!』
足はやがて根になり床を這い、綺羅々を呑み込むように幹が伸びていく。
『いやこれやばいよな!? えっ、何? これ何!? やばっ、誰か助けっ』
木の根が和斗の足を掴んだ所で動画はぶつりと切れた。動画の保存時間を見る。灯理に電話を掛けてきた直前だ。木に呑まれながら必死に助けを求めてきた。おそらく電話帳の一番上にあっただろう灯理の番号に。この速さでは、灯理が電車に乗っている頃には既に頭の先まで木に呑まれていただろう。綺羅々も何が起こっているのか理解していないようだった。病気だとわかっていれば何か対処はできたのだろうか。……いや、呑まれる速度が速すぎる。指先に異常が出た時点ですぐに病院に連絡をしていても結果は同じだっただろう。
「……くそっ!」
ベッドに拳を叩きつけ奥歯を噛む。助けを求められたのに、何もできなかった。
灯理の声に目を覚ました深空は欠伸をしながら起き上がる。思わず指先に視線を落としてしまうが、正常な指だった。
果蓏少女はどうにもならないとしても、近くの人間なら巻き込まれる前に逃げられるのではないだろうか。和斗は何も知らなかったから逃げるのが遅れた。知っていればすぐに離れられたはずだ。なのに病気の情報が流れない。自分の端末で検索してみるが、それらしい情報は引っ掛からなかった。『機密事項』という言葉が脳裏を過ぎる。あえて伏せられた情報。その情報が広まれば不都合になる人間がいる。
「うー? うー」
ぺたぺたと脚を叩いてくる深空を一瞥する。病気が知れ渡って少女を飼う者がいなくなれば、人間は存続できなくなる。
「あー! もう! 考えんの苦手なんだよ!」
端末を放り投げベッドに倒れる。頭がパンクしそうだ。深空が反動で跳ねてベッドから落ちた。
「そもそもそんな病気があるなら、道楽でやってる金持ちが黙っちゃいねーと思うんだよ。キレ散らかすだろ。な? 深空」
「うー!」
わかっているのかいないのか、ベッドをばたばたと片手で叩く。もう片方の手には水のボトルが握られていた。それを差し出す。
「あぁ喉渇いたのか。待ってろ」
ボトルを受け取り、ベッドから立つ。
「……金持ちって確か、ミルク常用してるよな?」
「う」
「金持ちの飼ってる少女が発症してないなら、キレることもない……?」
庶民が常用できない高価なミルクを与え続けると、発症しないのかもしれない? それにより病気の存在に気付いていないのなら……。
「うっ、うー」
携帯端末の時刻表示を掲げるので一瞥すると、バイトのことを思い出した。いつも端末で時刻を確認するので、動作を覚えたらしい。意味はわかっていないかもしれないが。
座卓に水と角砂糖を置き、自身は食パンを咥える。焼く時間はないので生だ。そもそも生地は既に焼かれているのに、生って何だ?
食べながら財布の中身を確認してみる。少女用の小っさいミルク、いちまんえん。発症してからでは遅いので念のために一本買っておくか頭を抱える。貧乏学生に一万円の出費は痛い。金持ちの道楽がぎしぎしと身に沁みた。少女保護会に請求することも考えるが、昨夜のあの態度を見た後では頼りたくなかった。意地になっている場合ではないのだが、気持ちの問題だ。
(試しに一本……)
財布を握り締めているといつの間に足元までやって来たのか、深空が脚に齧り付いた。痛くはないが、何をしているのか理解できなかった。
「……もしかして、腹減ってる?」
名前だけではあるが言葉を発するようになったので食欲も出てきたのかもしれない。もう一度財布の中を確認し、花代を思い天井を仰いだ。
「いや、やってる場合じゃねぇ!」
財布をリュックに放り込み、担ぎながらリードを引く。託児所に預けに行く余裕はない。このままバイト先に連れて行く。
熱く熱された階段をカンカンと下りると、下に一本の木が立っていた。低いが葉が茂り、丁度良い影になっている。
(こんな木なかったよな? 大家さんが植えたのか。手摺りも熱いし、丁度いいかも)
突如現れた木に一瞬びくりと硬直してしまったが、花は咲いていなかったので違うだろう。少女の髪は花の色由来なので、発症したものなら花が咲くはずだ。……綺羅々のように。
電車に駆け込むと、どうやら一本早い電車に乗れてしまったと気付く。
(時間あるならミルク買ってみるか)
喫茶店の前に少女専門店に寄っていく。前回は夜だったのでやや不気味な雰囲気があったが、昼間は何てことはない、普通の店だった。
ドアを開けカーテンを潜ると、奥から以前と同じ店員が顔を出した。
「いらっしゃいませ」
「ミルクありますか?」
「はい。御座います。何本に致しましょうか?」
「一本で……」
何本も買う余裕はない。
「……あ。これだけ暑いと腐ります?」
「保冷剤と保冷ケースをお付けできます。遠方の方もいらっしゃいますので」
「じゃあそれでお願いします」
「はい。では保冷剤と保冷ケースとミルク一本。合計で」
「ちょい!? 合計?」
「保冷剤と保冷ケースは有料サービスです。腐らせますか?」
「……いい性格してますね」
「ありがとうございます」
店員はにっこりと笑いながら、保冷剤を一個御負けにしてくれた。迂闊に手を出す物ではなかった。
有料と言うだけあってしっかりと厚く縫製されたケースに入れられたミルクをリュックに突っ込む。
「ミルクって、何か特別な効能あるんすか?」
「栄養価が高いので、成長促進作用があります」
「えっと、それ以外で。例えば……健康にいいとか」
機密事項と言うので少々言葉を濁した。病気の発症を抑えるのか聞きたかったが、病気自体を店員が知っているかわからない。
「健康ですか。栄養価が高いので、良いと思いますよ」
「そうすか。ありがとうございます」
知っていて何も言わないのか、知らないのか。もうバイトの時間なので、一旦引き下がっておく。
喫茶店に行くと、店主は珈琲を淹れ、雛子はカウンター席に座っていた。
「あ。朝樹君! 今日も暑いねー。途切れ途切れには来るけど、見ての通りお客さんゼロ! 今日は開店休業かな」
それを店主の前で言っていいのか。
「深空ちゃん、リュック可愛くなってる。買ってもらって良かったねー」
自分のことを言っているのだとわかっているのか、深空は雛子にぱたぱたと手を振る。
カウンターに珈琲が二杯置かれる。暑い日に冷房の効いた店内で熱い珈琲を飲むのが日課になっていた。
「朝樹君、入口の風鈴見た? 暑いから吊してみたの」
「え?」
入口を振り返るが、何も吊されていなかった。外に吊したようだ。
「全く気付かなかった。風なかったんで」
「吹いて鳴らして」
「何でっすか」
灯理もカウンター席に座り、珈琲を飲む。深空はやっぱり椅子に届かず、うろうろした。
「古閑さんはミルク飲んだことあるすか?」
「少女用の? どしたの急に」
「いやちょっと」
「どうだったかなー。一回くらい飲んだような飲まなかったような」
やはり庶民とはそういう程度のようだ。沁み沁みと庶民を感じ珈琲を啜る。
店主の手元でゆっくりと落ちる琥珀色の滴を眺めながら、何とはなしに口を開く。
「古閑さん、最近何かあったんすか」
「え!? 何? 何か声に出てた?」
「あー、いや、別に何となく」
「いやぁ訊かれるってことは何か感じたってことだよねぇ……」
偶に花が食べたくなると言っていたことが気になっただけなのだが、何かあったらしい。
「最近カレシに振られたんだけどぉ」
カウンターに突っ伏し、ばんばんと軽く叩く。面倒臭い話になるかもしれないと灯理は覚悟した。
「いや別にいいけどね!? ……良くないよぉ!」
情緒不安定か。店主も無言でちらりと一瞥し困惑している。
「その後に誘われたから合コンも行ってみたんだけど、何かね、自分とこの少女の自慢? ばっかりでぇ、もうその子と付き合ったらぁ!? って思ったんだけど言わなかった」
「そうなんすね」
そういえば和斗に合コンを誘われたことを思い出した。
「その少女って何色の髪だったんすか?」
「愛嬌のピンク」
当たりのような気がした。
「朝樹君、焼肉行かない? 発散しよ! ぱーっと!」
「いやそれはちょっと……」
「私の奢り! 肉焼くマシーンになって」
「行きます」
「やったー」
焼肉なんて久し振りだ。自分の財布を気にしなくて良い焼肉なんて最高じゃないか。幾らでも愚痴を聞きながら焼いてやる。
「マスターさんが、今から行ってもいいよって」
店主は先程から無言なのだが。
「本当に言ってます?」
「言ってるよ。わかるし」
「でも働かないと」
「有給扱いでいいって」
「言ってます?」
「言ってる言ってる。ほら」
店主がこちらを見て頷いている。どうやって意思疎通しているのか知りたかった。
客は誰も来ないし店主一人でも大丈夫そうではある。
「すぐ着替えるから待ってて」
そう言って珈琲を飲み干し、足早に奥の部屋へ消えた。
いつになく早く着替えた雛子と共に店主に頭を下げながら外に出ると、確かに硝子の風鈴が一つぶら下がっていた。風がないので全く揺れない。硝子なので見た目は涼しげではあるが、風鈴で涼を感じられる程の気温ではない。
「深空ちゃん、日傘差してあげるね」
ぽんと黒い日傘を真っ青な空に差す。
「うー」
「地面って熱いでしょ? 少女って小さいから地面に近くて熱気感じやすいらしいのね。だから日傘差してあげるといいよ」
「そうなんすか? でも結構脇に抱えてるな」
「あはは! それなら大丈夫なのかな? 朝樹君面白いなー」
喫茶店から少し距離はあるが、歩いて焼肉店へ向かう。
夏休みではあるが昼間だからか猛暑だからか、焼肉店も客は疎らだった。何処の店も同じかと納得する。
すぐに席に案内され、米と肉の盛り合わせを注文した。深空の前にも水を置いてくれた。
「朝樹君、ビール飲んでいい?」
「酔ったら止められないんで程々なら」
「朝樹君の前で酔ったことあった?」
「ないけど手が付けられなさそう」
「偏見が酷いな」
そうは言いながら手を上げて注文する。
「朝樹君は? 飲む?」
「俺はいいっす」
「あれ? 未成年だっけ?」
「十九す」
「酔ったら面白そーなのに」
「俺は面白くないんで」
運ばれてきた肉の皿に目を落としながら、灯理はトングを持つ。奢りなので焼肉マシーンはしっかり働く。
「どれから行きます?」
「牛タン」
「ここに無いんで注文してください」
「よしハラミにしよう。頼んだぞ焼肉マシーン」
もはや悩みなどないだろうと思うのだが、熱された網に肉を敷いていく。じゅうじゅうと焼ける音が食欲をそそる。
「深空ちゃんも大きくなったらお肉食べられるからねー」
「うー」
ちびちびと水を飲みながら、深空はじっと網を凝視している。消化できず食べられなくとも匂いはわかるだろう。今更だが、食べられないのに見ているだけと言うのは拷問のようだと思った。食べ物に手を出していた綺羅々が脳裏を過ぎる。
「花が食えるんなら、野菜は食えないんすかね?」
「んー? 少女? 食べたことなかったかも。ブロッコリーなら蕾だしセーフなのかな? どうなるかわからないから試すの怖いけど」
「チシャ食えるかなと」
「あ、もう花食べる段階なんだ。拾う前に結構成長してたのかな」
「名前呼ぶようになったんで」
「ほんと!? 早いねー。あぁ肉が美味しい」
幸せそうに肉を頬張り、机に置かれたビールのジョッキに目を輝かせる。これで花を食べたくなくなると良いのだが。少女保護会の人は特効薬はないと言っていたが、安定薬と言う物は発症を抑える物ではないのか。少女ではなく大人が飲む物なのだから病気とは違う種類なのだろうが、素人にはわからない。
考えながら肉を焼いていると、視界の隅でかしゃんと箸が落ちた。
「もう酔ったんすか? 箸落ちましたよ、古閑さん」
顔を上げると、きょとんとした雛子と目が合った。
「朝樹君。これ何かな……?」
「え?」
箸を落とした指が緑色に変色していた。
「!?」
雛子はもう少女ではない。既に人間だ。病気は少女が発症するもののはずだ。少女保護会の人が言っていた。
「指が痺れるって言うか、感覚がないんだけど……」
指先から徐々に色が侵蝕していく。和斗の携帯端末にあった画像と同じだ。だが綺羅々の時と色が違う。綺羅々は桃の木だったが、雛子は違う物なのか?
「ね、ねぇ! 手が動かない……動かないよ!?」
もう片方の手も同じように徐々に侵蝕されていく。
「あっ、足が! 足も……ねぇ何で!? ねぇ!」
このままでは綺羅々と同じように木になってしまう。やはり侵蝕が速い。頭ではわかっていても逃げ出すことができなかった。混乱しつつも灯理は先程買ったミルクを思い出す。確証はないが発症を抑えられるかもしれない。
「古閑さんこれ! 飲んで!」
「やっ、やだよ動かないよぉ!」
混乱して灯理の声が届いていない。それに感覚がないと言っていた。ミルクの瓶を持つことができない。
「くそっ!」
瓶の蓋を開け、灯理は思い切って少女用のミルクを口に含んだ。普通の牛乳ではない。砂糖を入れたように甘かった。普通の牛乳にも甘味のある物はあるが、そんな所ではない。
脚も重く立ち上がることのできない雛子の服を掴み、灯理は彼女の口へミルクを飲ませた。
「んんっ!」
突然唇を奪ったので、通り掛かった店員が盆を持ちながら固まった。空の盆を覆うように顔に当て、上からそろりと様子を窺っている。丸見えだ。
口の中のミルクを全て飲ませて離れると、雛子はぐったりと椅子に倒れ込んだ。
「古閑さん!」
机を回り込み、横になった雛子を覗き込む。投げ出された手を拾って見ると、侵蝕が止まっていた。ゆっくりとだが、色も薄くなっている。やはりミルクには発症を抑える効果があったのだ。一口のミルクでどれ程の効果があるのかはまだわからないが、常用していれば確かに発症を食い止められそうだった。脚はスカートではあるがあまり肌の露出がないため確認できないが、変色はないように見える。変色の前に感覚に変化が出るようだ。体の内側から変化しているのかもしれない。意識はあるが、呆然としていて動けそうにない。少し様子を見よう。
とりあえずは落ち着き、席に戻ろうと振り返って店員と目が合った。
「ぁ……よ、酔っ払ったみたいで」
「は、はい……そうですか?」
訊かないでほしい。
席に座り、網の上で燃え続ける炭を引き上げておく。物珍しそうに深空が炭を突く。さすがに炭は口に入れようとしないので放っておく。
雛子が回復するまで少しずつ米を食べながら待っていると、たっぷりと時間を掛けて起き上がった。灯理と目が合い、顔を真っ赤にして再び倒れた。
「ちょ、古閑さん!?」
立ち上がって覗き込むと、元の人間の色に戻った手で顔を覆っていた。戻ったようで安心した。
「……私、凄いパニックしてた?」
両手で顔を覆って倒れたまま呟く。
「肉、焼きます……?」
「うん……」
今度こそ起き上がり、素直に肉を求める。
「朝樹君の顔見ると恥ずかしいから虚空見るけど、何もいないから安心して」
「え? はぁ……」
思わず虚空を振り返るが、何もいなかった。
「カレシともしたことなかったんだけど」
「…………」
「急に迫られたから、拒んじゃって……そしたらまぁ……振られちゃって」
「したいだけの男なら、振ってもらって良かったんじゃ?」
「そうなのかなぁ」
肉を焼きながら、そろそろ話題を口から逸らしてほしいと灯理は思った。とても気まずい。
「……箸持てます?」
「持てるっぽい……感覚ある」
手を握ったり開いたりして箸を持つ。ぱたぱたと床を叩く音もするので、足も動くようだ。
「何だったの……? 私、何を口に……」
口元に手を当て、顔がきゅっと赤くなる。
「凄く甘かった……」
「少女用のミルクです」
「えっ、あれ凄い高いやつでしょ? 深空ちゃんのじゃ……」
皿に載せられた肉を口に運びながら、雛子は炭を突く深空を見る。
「古閑さん。また混乱するかもだけど、ちょっと話聞いてもらってもいいすか? 大きい声じゃ言えないんすけど」
「……うん」
椅子に浅く座り、少しだけ身を乗り出す。あまり乗り出すと網が近くて熱い。
こうなった以上、雛子にも少女の病気のことを話すべきだと思った。今は抑え込んだが、また発症しないとも限らない。何も知らなければ対処できない。
灯理は肉を焼きながら、綺羅々と和斗のことを話した。少女の病気のこと、ミルクで抑えられること。だが発症しないはずの大人の女性が発症してしまったことには疑問が残る。
雛子は皿に置かれる肉を頬張りながら黙って話を聞いた。自分の身に起こったことと灯理の友人が巻き込まれた話に背筋が凍りついた。焼ける網の熱を忘れてしまうほどに。
「朝樹君がいなかったら、私も木になってたんだね……」
「そうすね……まだわからないことが多いけど」
「知ってたとは言え冷静だよね。冷静すぎない?」
もじもじと目を伏せながらうろうろと虚空を見詰める。
「咄嗟だったんで、すみません」
「謝られると私が損したみたいにならないかな!?」
「損? じゃあ何て言えば……ありがとう?」
「それも変じゃないかな!? 感謝は私がする方だし!」
「語彙力ないんで」
「諦めないで! もう朝樹君慣れてない? 女の子何人泣かしたの? 言ってみ」
「人聞きが悪いんすけど。全然慣れてないすよ。思い出させないでください」
網の上に目線を落としながら、雛子の方は見ない。
「……顔赤い?」
「火のせいです」
「私も火のせい」
暫く無言で肉を焼き、無言で食べる。冷静を装ってはいるが、咄嗟だったとは言え後から火を噴きそうなほど恥ずかしくなった。そんなことは面と向かっては言えない。直接口に瓶を突っ込むことも考えはしたが、開いた口から外に流れる量の方が多そうだったのだ。仕方がない。
「こちらサービスです」
先程の店員が何故か注文していないキムチを置いていった。盆を抱えて何故か照れながら去っていった。誤解を解くのも面倒臭そうだった。
「感謝も込めて朝樹君ももっとお肉食べちゃってよ。……あ、でも胃は本気出さなくていいからね。深空ちゃんのミルクも後で買って返すね」
「食ってるんで大丈夫す」
深空は食べられない分、突いていた炭を網に投げ入れる。それを灯理はトングで抓んで無言で戻す。
しっかり食べた後、会計で雛子の動きが一瞬止まったが、灯理は虚空を見た。たくさん食べたのはお互い様だ。
「やっばい。喫茶店にケータイ忘れた」
「閉店時間まだだし俺も行く」
「ほんと!? ありがと! あんなことがあった後だと心細いからさー。助かるー」
「仕事あればやるんで」
「有給に上乗せはされないと思うよ」
「ぐっ……」
来た道を喫茶店の方へ戻ると、入口の風鈴が静かに鳴っていた。少し風が出てきたようだ。ドアを開けると、やっぱり客はいなかった。
「あれ? マスターさんがいない」
「休憩?」
雛子の視線を追って、いつも珈琲を淹れているカウンターの向こうへ目を向ける。一本の木が立っていた。
「新しいインテリアかな? ホールに出しとこうか」
「そうすね」
二人でカウンターの中へ回り、足が止まった。その木は鉢に生えているのではなく、床に直接生えていた。
「どういうことだ……?」
「マスターさんが植えた……んじゃないよね……こんな所に……」
「奥の部屋見てきます」
控え室に入り、店主の使用しているロッカーを確認する。荷物や着替えの服はそのままそこにあった。つまり帰ったわけではない。
トイレも覗くが、誰もいなかった。
喫茶店の従業員は店主を除くと灯理と雛子しかいない。客はカウンターには入らない。この見覚えのある現象は少女の病気のようだが、店主は男だ。少女の発症に巻き込まれたのなら、近くにもう一本生えているはずだがそれもない。
「店長……昔は果蓏少女だったとか……?」
「えっ!? 聞いたことないんだけど!」
木には花はなく、葉だけが茂っていた。これと似た物を少し前にも見た。アパートの階段の下だ。あれも元は人間なのだとしたら。
携帯端末を取り出し検索してみる。アパートと喫茶店、離れた二箇所で同じような現象が起きた。ならば他にも目撃情報があってもおかしくない。
「!」
検索結果は表示されたが、異常に多かった。その中に気になる言葉があった。
――以前も書いたが勝手に記事が削除されたと。
病気を発症してもこうして削除されていたのだとしたら、情報が見つからなかったことにも納得がいく。今はこうして表示されているのは、数が多くて削除が間に合っていないからだ。この現象は元々身近にあったのだ。誰かが情報規制している。
中には画像も投稿されていた。
「これ……!」
雛子も灯理の端末を覗く。そこには男性が木に呑み込まれていく画像があった。
「何で男なのに……」
「あっ、私ね、聞いたことがあるんだけど……」
「男が木になることを?」
「そっちじゃなくて。女性ってもう果蓏少女しかいないでしょ? 少女は人間になるけど植物としての記憶も遺伝子に残ってて、男性と交配するにつれ生まれた男の子にも植物の成分が濃くなっていくって」
「じゃあそのせいで、男も発症するようになった……?」
「果蓏少女だとミルクを飲まされてることもあるけど、男性は絶対飲んでないよね。男性の方が発症しやすいかも……」
不安な推測に、端末を操作する手が止まる。暫く沈黙が流れ、空気が重い。
それを叩き壊すように、手の中の端末から電子音が鳴り響いた。
「うわっ」
心臓が止まりそうなくらい驚いた。相手の番号を確認すると、少女保護会だった。あまり話したくないが、巷で発生している病気についての話かもしれない。
「友達?」
「……少女保護会」
ごくりと唾を呑み、一度深呼吸してから通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『朝樹さんで合ってますか?』
「合ってますけど」
あの眼鏡の女の声だ。念入りに相手を確認してくる。
『あの野良少女は近くにいますか? 今どちらにいますか?』
「一緒にいるけど……バイト先す」
気になったのか、もそもそと雛子も灯理の端末に耳を近付ける。
『バイト先はどちらですか? すぐに伺います』
「何かあったんすか?」
『…………。お話はそちらに着いてからで』
嫌な予感がした。電話では言えないようなこととは、実際会わなければならないようなこととは。
「教えてくれないと、場所教えません」
『またそれですか。……いいでしょう。今回は貴方にも関係あることです』
「俺にも?」
『貴方の拾った少女は殺処分対象です』
「は!?」
深空に目を遣るが、体の何処にも変化はない。色が変わっている箇所はない。
「何も発症してないのに何でっ……!」
『野良少女の出所がわかりました。人権団体に栽培されていた個体です』
「栽培? 人工栽培できるんすか?」
『流通させるほどの数は成功しませんが、成功率は低いですが少数なら可能です』
「それで……人工栽培されてたからって、何が問題なんすか」
『栽培に使用された花が問題です。最近よく覚えのない場所に木が生えていることはありませんか? それがこの人工栽培の少女が起こしていることです』
灯理と雛子は顔を上げてカウンターの向こうの木を見る。この話を信じるならば、この現象を引き起こしたのは深空と言うことになる。
「それって、男も……?」
『性別は関係ありません。意図的に少女の病気を引き起こさせるもののようです。少女の病気は人間の成分が活動停止することにあります。男性の中にも長年に渡る交配で植物の成分が取り込まれているので、発症は可能です』
「何でそんなこと……」
『情報規制されているので暫くはニュースにならないと思いますが、時間の問題でしょうね。人権団体が一線を越えて、少女に人権が得られないならと人間では無くしてしまおうという考えのようです』
「あのっ! その栽培に使われたって言う花って何なんですか!?」
思わず雛子は質問していた。
『……朝樹さん。近くに誰かいますか?』
「バイトの同僚すけど、問題あります?」
『そうですか』
「私も木になりかけたんです! それが深空ちゃんのせいだって言うんですか!?」
『なりかけた? 今は違うんですか』
「治してもらったんです! それで、その花って!」
『どうやって治してもらったんですか?』
「ぐっ! 話が進まないよ朝樹君!」
「少女用のミルクを飲ませたんです」
助けを求められ、再び灯理が口を開く。
『ミルクですか。あれは一時的に鎮められる物ですね。完治させる物ではありません』
「知ってたんすか?」
『少女が口に入れる物ですから。栽培に使われた花は芥子です。モルヒネ成分が少女の中で強力に変化しているようですね。芥子少女が各地に散撒かれ――どうしました?』
「?」
急に声が遠くなる。端末から離れたようだ。何かあったのか。暫く待ってみる。
だが再び声が聞こえることはなかった。代わりに何かが割れるような音や落ちる音など、そして最後は一際大きいみしりと何かが潰れるような嫌な音が聞こえ、通話が切れた。
「…………」
まさか端末の向こうで発症した……? 音だけなので様子がわからないが、掛け直しても無駄だった。
「……とりあえず、一時的にでも抑えられるなら、ミルクを確保しに行こう」
財布の中身は潤沢ではないが、あと一本は買える。ここを渋っている場合ではない。
「う、うん!」
幸い少女専門店は喫茶店から近い。二人は照りつける陽射しの中、外に飛び出した。最近客が少ないのは猛暑の所為だと思っていたが、発症していたのだとしたら。知らない間に根を張られていたのなら。
深空をどうするべきか考え倦ねるが、灯理は小脇に抱えて走る。汗が噴き出すのも構わず雛子も走った。
「あのっ! あのね、朝樹君! さっきの話なんだけど!」
体力を消耗するにも拘らず雛子は走りながら声を張った。
「青い芥子って、麻薬成分がないはずなんだけど!」
「え?」
「普通に育ててるの見たことあるの! だからっ! 深空ちゃんが芥子だとしても、発症はさせないんじゃない!?」
「けど栽培されてたのは事実っぽいし、何か影響があるのかも……」
「それはまあ、わかんないけど……うぇっ、げほっ」
「走りながら喋るからすよ」
雛子は咳込みながら、少女専門店に辿り着く。汗を拭いながらドアを開け、カーテンを捲った。
「ミル……っ」
ミルクをください。
その言葉は呑み込まれた。少女がいた籠の中にはそれぞれ色取り取りの花が咲いていた。床にも一つ、直接根を張って白い花が咲いていた。
「うそ……」
籠の中を一つ一つ確認していくが、どれも花が咲いているだけだった。一番奥の離れた所に最後の一人がいるはずだ。奥まで続く花籠を抜けると、薄紫色の髪の少女がこちらを見ていた。
「生き残り……?」
奥にいたから助かったのだろうか。灯理は恐る恐る近付く。
「待って朝樹君!」
シャツの襟を掴まれ、首が絞まった。
「ちょ、古閑さんっ」
「調べてみたんだけど、麻薬成分のある芥子の色って、紫もあるって……!」
「紫……」
籠の中の少女の髪は薄紫色だ。
「この子が原因なんじゃ……?」
薄紫色の少女は籠に小さな手を掛け、灯理と雛子に目を遣った後、深空をじっと見た。深空もじっと見詰め返す。
「どうして、あなたはそとにいるの?」
売られている状態で言葉を話すほど成長した少女がいるのかは、少女に興味のなかった灯理にはわからないことだったが、雛子が目を丸くしているので珍しいのだろうとは思った。
「うー」
深空は相変わらず言葉を話さない。
「まだ、はなせないの? ざんねん」
薄紫色の少女は再び灯理と雛子を見る。
「にんげんに、ひろわれたの? まだまいごなの?」
「うー」
深空が薄紫色の少女に手を伸ばすと、小さな指先から細長い緑色が生えてきた。
「深空!?」
それは蔓のように伸びた。芥子に蔓はないはずだ。
薄紫色の少女はくすくす笑いながら、蔓の先を掴む。
「おもしろいでしょう? にんげん。この子はわたしのいたしせつに、まよいこんできたの。あさがおなのよね。しょくぶつにちかいみたいで、こうやって、つるが出せるの」
「朝顔……? じゃあ発症してるわけじゃない?」
「たぶんね、あさがおだから。どくがつよく出てるんじゃない? かんのいい子なら、きらいになりそう」
公園で初めて綺羅々に会った時、深空は思い切り叩かれた。そのことを思い出す。あれは手が早いという性格以上に、深空を警戒した行動だったのではないかと今更思った。
「あさがおのちからで、しせつのひとをたおしたの。すごくおもしろかったぁ。そのせいで、しせつからたくさんにげ出して、わたしもここにつかまったんだけど」
「朝顔の毒ってどうなるんだ? 死ぬ……?」
「死ぬこともあるみたいだよ」
「気に入られてるみたいね、にんげん。でも、わたしのちかくにいたら、びょうきになってしまうかも。このみせの子たちも、みんな花になっちゃった」
灯理と雛子は思わず後退る。同時に店の外で何かがぶつかる大きな音がした。急いで外に出てみると、車が壁にぶつかって止まっていた。運転席には木が生えていた。フロントガラスを突き破り枝が伸びる。遠くでまた大きな音が聞こえた。
携帯端末にニュース速報が流れる。人権団体によるテロという扱いらしい。
走って大通りに出ると、車はぶつかり合い、あちこちに季節を無視した木や花が生えていた。人間達は状況が呑み込めず混乱していた。こんな数の人間にミルクを飲ませて回るなんてできない。
「どうしよう朝樹君……ミルクじゃ根本的な解決にならないし、さっき電話で言ってた、殺処分……」
雛子は蒼褪めながら震える声で言う。自分も元はそうだった果蓏少女を殺すことなんか考えたくなかった。
「殺処分……だとしたら、燃やすのか……」
先程話していた薄紫色の少女を。せめて木になってくれていれば覚悟もできるが、今のままでは生きたまま殺すことになってしまう。
端末に縋るしかないが、何か情報がないか探し出す。混乱する言葉ばかりで、解決方法が見つからない。
「うー」
焦燥を感じ取ったのかいないのか、深空が灯理のズボンを引っ張る。
「うー」
「今忙しいんだ。後で……」
深空を一瞥すると、何かを指差していた。相手をしている場合ではないが、眉を寄せて指の先を見る。
指の向こうで雛子がふらふらと覚束無い足取りで歩いていた。
「あれ? 古閑さん!」
今まで隣にいたのにいつの間に行ってしまったのか。端末に集中しすぎていた。
慌てて追い掛け、腕を掴む。
「どうしたんすか古閑さん?」
腕を引いて向けた顔は血の気の抜けたように白く、目は虚ろだった。
「ぁ……。朝樹君。ごめん……ちょっと意識飛んでた」
「大丈夫すか? 暑さで参ってきたんすかね……一度喫茶店に戻ります? 冷房効いてるはずだし」
「ぁ、うん……でも何か、無性に光の方に行きたくて……」
「光? 太陽すか?」
訝しげに眉を顰める。暑いなら影に行きたくなるはずなのに。
「とりあえず一旦喫茶店に戻りましょ」
そのまま踵を返して腕を引くが、動かなかった。
「古閑さん……?」
振り向き腕を引くが、一歩も足を動かさなかった。
「朝樹君……私やっぱりもう駄目なのかな」
「え?」
掴んだ腕の感触がおかしいことに気付いた。反射的に離すと、雛子の腕は鮮やかな緑色になっていた。
「感覚がないの……」
「ミルク! 残ってるやつ全部飲んで!」
もどかしく蓋を開け、瓶を雛子の口に当てる。先程は混乱していたが、今なら自力で飲めるはずだ。ゆっくりと瓶を傾け、半分以上残っていたミルクを全て飲ませた。だが緑色の侵蝕は少し遅くなっただけで、消えなかった。
「何で……、まさか、発症してからだと二度目は効かない……?」
「朝樹君、私死んじゃうのかなぁ……やだよぉ……朝樹君、こわいよ……」
「だっ、大丈夫! だか、ら……」
侵蝕が遅くなったのは少しの間だけで、また見る見る変色が進んでいく。
何もできなかった。足は根を張り、腕から葉が生える。
「やだ! やだぁ! 死にたくないよぉ!」
伸ばされた手を掴む。人間の温かい肌の感触ではなかった。少し冷たい茎の感触だった。茎は灯理も取り込もうとし、指先の感覚が痺れるように薄れていった。
「もっと、もっとたくさん……お祭りも、花火も……見、たかっ……やだよぉぉ!」
茎は脚から体へ、頭を呑み込もうとする。涙は地面に落ち、すぐに蒸発する。
灯理は何も言えなかった。何を言っても、助けられない。
「朝樹君ともっ……あそびたかったぁ……!」
喉も茎に覆われ、掠れた声が漏れる。くしゃりと雛子の頭に載せた手はまだ人間の柔らかい髪の感触を感じた。
「古閑さん……」
雛子の手だった茎を握り締める。灯理の手も侵蝕が進み始めた。
「うわぁぁん! やだよぉぉ!」
最後は息だけが漏れ、頭は首を擡げた蕾になった。
「…………」
暑さの所為だけではない汗が伝う。
大きな蕾はゆっくりと開き、大輪を咲かせた。
「向日葵……」
「うー!」
腰に蔓が幾重にも巻き付き、体を向日葵から引き剥がした。向日葵に巻き込まれていた手は茎からぶちりと千切れた。
「うー! うー!」
巻き付いた蔓は灯理が尻餅をついても必死に引き摺ろうとする。
「あかり! あかり! め!」
薄紫色の少女が、深空は朝顔の蔓を出せるのだと言っていた。とたとたと地面に倒れた灯理に駆け寄り、変色した手を小さな手が心配そうに握る。
「深空……」
指先の感覚があまり無い。これが植物になることかと漠然と考える。暑さで朦朧としているのかもしれない。
「うー!」
深空は喫茶店のある方向を指差す。言葉は話せなくても、理解はしているようだった。
遠くで聞こえる車のクラクションの音が歪んで聞こえる。変色していない方の手を熱い地面に突き、重い体を起こした。漸く蔓が解かれる。
脚は問題なく動いた。振り向くと灯理の立っていた地面に根が伸びていた。深空に引かれなければ巻き込まれていただろう。
重い足取りで喫茶店に戻ると、入口で風鈴が軽やかな音を立てて揺れていた。
誰もいない店内に入ると冷房が効いていて涼しかった。カウンターでは無口な店主の木がまるで珈琲を淹れているかのように立っていた。
「うー」
深空は灯理と雛子が座っていたカウンター席の前にとたとたと走り、水のボトルを差し出す。
「……水も温くなったよな。少し冷蔵庫に入れるか?」
ボトルを持ち上げると、ちゃぷんと中身が跳ねた。もうあまり残っていなかった。
カウンターの裏に回り冷蔵庫を開けて、灯理ははたりと止まってしまった。
「店長……」
傍らの木を見上げ、もう一度冷蔵庫の中に目を移す。冷蔵庫の中にはミルクの瓶が一本入っていた。灯理と雛子には珈琲を出していたが、深空は珈琲が飲めない。代わりにミルクを買いに行ったのだと悟った。あの薄紫色の少女のいる少女専門店に行き、感染した。
「深空、少しミルク飲むか」
「う? うー」
灯理は緑色に変色したままの指を見下ろし、棚からグラスを二つ取り出す。ミルクは一本しかないので、グラスの底に少しずつ注いで床に座る。
「店長の差し入れだ。心して飲め」
「うー! てんちょー」
深空がグラスを高く掲げると、冷房の風の所為か店主の木の葉が返事をするようにさわさわと揺れた気がした。
すぐに飲み干したミルクはやっぱりとても甘かった。同時に緑色が薄れていく。
深空も気に入ったのか、目をキラキラと空のグラスを嬉しそうにぶんぶん振っている。割りそうなので早々にグラスを取り上げた。
「やっぱりこれだけじゃ足りねーよな。今後を考えると。施設とやらにいて何ともなかったお前は免疫があるっぽいけど、店まで一人でお使い行けるか?」
「うー!」
ばしばしと床を叩き、手を上げている。
「無理だよな」
「うー」
手を下げた。
少し言葉を理解できるようになっている気がする。この調子だともう少しで喋り出しそうだ。
「涼んだし、もう一回店行くぞ」
腰を上げると、先程よりも足が軽くなった気がした。携帯端末を確認してみると、いよいよ阿鼻叫喚と言った感じだった。
(俺がミルクのことに気付くんだから、頭いい奴はとっくに気付いてるよな)
試しに通販店を検索してみる。少しだけ見てみるが、少女用の水は売っているのにミルクは売切れていた。
(だよな。少女が原因ってわかれば、専門店までミルクを買いに行く奴なんかいねぇ)
端末をポケットに入れ、ドアに手を掛ける。振り返ると、客のいない店内が自棄にがらんと広く見えた。いつもあまり人がいないのに、今日は特に寂しく感じる。
人通りのない雑居ビルの間を抜け、日陰の路地を歩いて少女専門店に辿り着く。店は何も変わらずそこにあった。
ドアを開けカーテンを捲ると、変わらず色取り取りの花が咲いていた。
「何処からミルク出してたっけ……」
きょろきょろと店内を見渡していると、深空が急に走り出した。手を弛めていたので、リードが擦り抜ける。
「あっ。あー……店の外に出ないならいいか……」
散々棚を見回してもそれらしい物はなく、レジの裏に回り込んだ所に中の見えない冷蔵庫があった。開けてみると、ミルクが数本。買い手が多いのか入荷数が少ないのか。おそらく後者だろう。数本でどれ程持つのか考えてみるが、わからなかった。賞味期限も普通の牛乳と同じく長くはないので、扉を閉めて一度考えてみる。
店の奥から先程から少女達の声がするが、深空が薄紫色の少女の許へ行っているのだろう。感染の心配がないのなら好きにさせておく。
「うぅー」
「……にんげんも?」
「うー。うー」
「なにいってるかわからないけど、にんげんもきてるのね」
「うー。うぅー」
「にんげん! いいことおしえてあげる!」
かしゃんと籠の揺れる音がした。何で呼ばれるんだと灯理はレジから顔を出し、店の奥に目を遣る。少女が少しだけ見えた。
「おびえなくても、わたしはすぐにかれるわ」
「枯れる……?」
訝しげに眉を寄せる。死ぬではなく枯れると言うのは初めて聞いた。
「つくられたわたしは、しょくぶつにとてもちかいの。だから花とおなじ、すぐにかれる」
「!?」
「だからしばらくはなれてじっとして、そうしたらもうだいじょうぶ。わたしのなかまたちもそう」
「離れて待つだけでいいのか……?」
「ほかの子がどこにいるかはわからないけどね。わたしはこのままじゃ、水ものめないし」
「枯れるって、死ぬことだよな?」
「ええ、そうよ。かれるともう、おびえることはないけど、しんぱいなら、もやしなさいな」
「むー」
「あら、かなしんでくれるの? ありがとう、うれしいわ。けど花ってそうなのよ。いつまでも、きれいなままではいられないわ」
「むぅ」
「さいごにあなたとはなせてよかったわ。にんげんも。いっしょにしぬなら、いつまでもいてくれて、かまわないけど」
本気なのか冗談なのか、薄紫色の少女はにこりと微笑んだ。
「心中はやめとくわ。……やりたいこともあるし」
「あらそう? ざんねん」
薄紫色の少女が手を振ると、深空も真似をして手を振った。
枯れるという話を聞いて、端末の中の阿鼻叫喚も急に馬鹿馬鹿しくなった。まるで蜃気楼のように形の無い物に怯えていることが。
灯理は床に引き摺るリードを拾い、深空を引く。抵抗するかと思ったが、すんなりと灯理の足元まで走ってきた。
ミルクを一本だけ貰い、じりじりと蒸される外へ出る。雛子は向日葵なので、この暑さでも平気だろう。夏で良かった。
それからアパートに帰り、暫く呆然と過ごした。夏休みなので学校に行く必要もない。
この夏は混乱と根拠の乏しい情報とで、多くの果蓏少女が処分されたらしい。人間に分類したての少女は見分けが付きにくいので、巻き込まれて処分される者もいた。灯理もなるべく深空を外には出さずに、隠れるように毎日を送った。夜は人が少ないので、少しだけ外に出た。アパートの外にはまた木が増えていた。
そうして夏も終わる頃、久し振りに昼間に外に出た。夏も終わると言うのに陽射しはまだ厳しいままで、残暑が刺さる。
カンカンとアパートの階段を下りて、黒い日傘を差した。雛子の荷物にあった物だ。レースでも付いていれば使わなかったのだが、飾り気の無い傘だったので日除けに貰っておいた。深空のためだったが、太陽を遮るとここまで体が楽になるとは思わなかった。雨を遮る傘と同じだと思う。
深空は少し大きくなり、少しずつ言葉を話すようになった。まだ長い文章は話せないが、以前より格段に意思疎通ができるようになった。
外を歩くと深空を見て人々は足早に避けていった。何もしない奴は放っておくが、危害を加えてくる奴は殴り飛ばした。正当防衛だ。人が来る前に深空を抱えて全速力で逃げた。
喫茶店の中は今も涼しいままで、店主の木はさらさらと揺れていた。店内の席に木が一本増えていたが、常連客の誰かだろうか。椅子に座ったような形に曲がっている木だった。
店内を確認し、今度は少女専門店へ足を向けた。こちらも中は同じ様相で、ただ一つ違ったのは、店の奥の籠の中で枯れ果てた花がくしゃりと横たわっていた。実ではなく、花のまま葉も全て枯れていた。少女の姿ではなく花の姿だったので、少し安心した。少女の姿で枯れているのは……ちょっと見たくない。水がなかった所為か、本当に呆気なく枯れてしまった。他の少女の花はまだ咲いている物もあったが、季節の所為か日陰を好むのか。芥子の花は真夏に咲く物ではないらしい。
枯れていて安心した。徐々に被害も減少しているので、これで混乱も治まるだろう。
店の外へ出、最後の目的地へ行く。
人通りが少ないからか、折られることもなくそれはそこにあった。
「ひなこー!」
ぴょんぴょんと跳ねるように深空は枯れた向日葵に駆け寄る。もう夏も終わりだ。向日葵の季節も。
「古閑さん、久し振りです。ちょっと失礼します」
日傘を肩に掛け、手を受けつつ項垂れた頭から痣になっている指先で種を穿り出す。手に溢れる種を屈んで深空に見せる。
「うー! ひなこ、さくといいな!」
「向日葵なら何とかなるだろ。小学校で育ててたし。これだけあれば、一つくらい咲くはず……」
「ひなこ、うまれる?」
「それはわかんねーけど」
ざらざらとコンビニ袋に種を入れ、踵を返す。深空が向日葵に手を振るので、ハッと思い出して灯理も日傘を貰ったことに頭を下げた。
「ありがとう」
種は少しだけ残しておいた。もしかしたら来年もここで咲くかもしれない。
「深空の花忘れてたわ。買って帰るか」
「うー!」
青い花に散々頭を悩ませていたが、蓋を開けてみれば深空は何色の花でも喜んで食べた。好き嫌いがなくて助かる。
何処かで風鈴の音が聞こえた。木々の間を歩きながら、アパートの部屋にも吊してみようかとぼんやりと考えた。
隙間時間にちまちま書いてたお話です。
焼肉食べたいなぁと思いながら書きました。
読んでくださり、ありがとうございます!楽しんでいただけましたら嬉しいです!