第6話 屋上にて
まともには眠れなかった。
暗闇の中で何度も寝返りをうっていると、カーテンの隙間から光が漏れていることに気付いた。
その明るさに対し、カーテンの黒さのギャップが不自然だった。
そうか、遮光カーテンか。
ベッドから出てカーテンの隙間から外を伺えば案の定すっかり夜が明けていた。
階段で屋上に出られると聞いていたので行ってみることにした。とにかくむしょうに日の光を浴びたかった。
2階男性フロアがそうだったように、7階まではずっと暗い状態が続いた。
8階は一転して明るく、風もよく通っていた。見ればこのフロアには遮光カーテンがない。そして東西南北のすべての方角にそれぞれ数名ずつが立ち外を見ていた。
雰囲気的に、展望を楽しんでいるのではなく監視しているのだと察しがついた。
8階の上がいよいよ屋上だ。
踊り場を曲がって最後の階段に差し掛かると、空気の流れとともに鳩の鳴き声が聞こえてきた。
「クルルル……クルックー」
「クルックー、クルックー」
2羽の鳩がまるで会話をしているようだ。
たったそれだけのことがこの世界ではとても幸せなことのように思えて、残りの階段は足音を消してそっと上がってみた。
鳩はいたが、思いがけず人もいた。
恋だった。
嬉しそうに、鳩に餌をやっていた。
屋上には芝生が敷かれ、ベンチがあり、花が咲いていた。
だが壁はほとんどが崩れており、壊滅した東京を見渡すことにもなった。
景色の残酷さが、恋と鳩の平和さを際立たせた。
つい見とれてしまった。
だがこれではまるで覗き見だと気付き、いかんいかんと咳払いをした。
「ひゃッ!」
恋が驚いて跳ねた。それに驚いて鳩もどこかへ飛び去っていった。
「なんだ晴人かあー、驚かさないでよもうー!」
「ごめん、そんなつもりはなかった。おはよう」
「いやいいけど。おはよ。眠れた?」
「全然。恋は」
「まあ普通に」
「そっか」
「……」
会話が途絶えた。
神崎先生から「婚約者」と紹介されたことで変に意識して喋りにくいとかそういうことではない。そもそもこの女と共通の話題などありはしないのだ。
居心地が悪くなったので男性フロアに戻ろうと思ったとき、恋が口を開いた。
「あのあと神崎先生に教えてもらったの。並行世界はたくさんあって、その違いもいろいろなんだって。全然違う世界もあれば、少ししか違わない世界もあるって」
ああ、そこ気になってたのか。
「SF小説みたいな話だよな。本当かな」と苦笑いして応じると、恋が神妙な顔つきで僕を見つめた。そして「晴人の世界でなら、私のパパやママ、きっとまだ生きてるよね」とつぶやいた。
不意打ちだった。胸がぎゅっとねじれた。
やはり恋は身寄りを失っているのだと知ってしまった痛み。そしてもうひとつは自分の親を思い出してのことだ。
「ああ。きっと生きてるよ」
明るくそう答えたが、ちょっと不自然だったかもしれない。恋がそれに気付いて眉をひそめた。
「……晴人のパパとママは?」
語らなければならなくなった。
どこから説明すればいいのか迷いながら屋上を少し歩き、ある方角の景色を眺めるように腰を下ろした。
親が生きていると信じたい恋に、あの厄介な新型ウイルスの話をするのは悪手だと思った。簡単に結論だけ伝えた。
「僕の親はちょうど1年前、ふたりそろって病気で死んだよ」
それは僕にとって人生最悪の出来事だった。
気分が落ち込み、食欲を失い、しばらく声も出なくなった。あれ以来、自分の感情の起伏が無くなってしまったような気がする。
転移したこの並行世界が平穏だったならば、僕もきっと恋のように「ここでなら元気な両親に会えるかもしれない」と期待したはずだ。だが。
「ちなみに僕の実家は幡ヶ谷だ。新宿から京王線で2駅。あのあたりだよ」
ここから見ると近い。足を運んで確認するまでもなく壊滅状態だ。
「ぅぅうわああああああああああん」
ぎょっと振り返ると恋が泣いていた。
「晴人かわいそう……うう……晴人のくせに……うわああああああああああん」
「晴人のくせに」は余計だが、大声で泣ける恋を少しうらやましいと思った。
そして、代わりに泣いてくれてありがたいとも思った。
ところがひとしきり喚くと、恋は手で涙を拭いて泣くことを急停止した。「違う。馬鹿。私は馬鹿だ」
顔を上げると強気な表情になっていた。そしてずかずかと僕に近寄り腕を引っ張った。無理やり立たせると手を握り、僕の顔をまっすぐ見て言った。
「亡くなったことを確認したわけじゃない。どこかで生き延びてる可能性はゼロじゃないよ晴人」
ごもっとも。死んだと決めつけるのは良くない。
と思ったら、恋の考えには広大な続きがあった。
「それにさっき言ったでしょ。並行世界はたくさんあるって。必ず、パパとママが元気に暮らしている世界がどこかにあるよ!」
まだ涙の痕は残っているが、いいことを思いついた子供のような瞳で恋が笑った。
「そうだな」
盛大に泣いてもらったおかげだろうか、少し胸が軽くなった気がする。ありがとうと言おうと思ったそのとき、背後で誰かがくしゃみをした。
振り返ると屋上出入口に何人もの野次馬がいた。「やべ!」「バレた!」「誰よくしゃみしたの」「だって……えっくしょい!」
覗き見犯は自称17歳の伝野さんと数人の小学生と、あろうことか白河さんの姿もあった。
恋が「こら!」と怒鳴ると、みんな楽しそうに悲鳴をあげて階下へと逃げていった。