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第19話 絶望

 呼吸が止まった人を助けるための人工呼吸、マウストゥマウス法といったか。何かの講習で人形相手に実演するのを見学したことが一度あるだけだ。

 やり方はあっているのだろうか。よくわからない。それでもやるしかなかった。天に祈りながら、何度も何度も僕の呼気を口移しで(れん)に送り込んだ。


 やがて、唇を接した至近距離で、恋の瞳がパッと開くのが見えた。


「げほッ!」


 水を吐いた。

 身体もびくんと動いた。

 横を向けるように助けてやると、恋も自ら上半身をひねってさらに水を吐いた。


 良かった。どうやら助かった。あまりの安堵に全身が脱力した。


 恋はげほげほと咳き込みながら上半身を起き上がらせた。


「……どうなってるの。びしょ濡れ」

「おまえ、水に落ちて死にかけたんだよ」


 恋の後方、ここからは離れた場所に遅れて浮上した真っ黒な先生が、脚だけではなく腕も使って、つまり四つ脚でゆっくり接近してくるのが見えた。


 恋はそれには気付かないまま呆然と僕を見つめていた。


「溺れた私を助けるために……キスをしたのね……」


 いや言葉のチョイスよ。人工呼吸か、マウストゥマウス法と言ってほしい。

 そんなことより、迫り来る先生から逃げるべきなのだが。

 実のところ僕にはもう、立ち上がる体力は残っていなかった。

 恋もこの様子では走れまい。


 先生はやはり僕らを殺すのだろうか。

 他の死因は御免だが、先生に殺されるならそれでもいいような気がする。

 ぎりぎりのところで先生の理性が働いて見逃してくれるかもしれない。


 もうお任せしますよ。心の中で案外平穏に思ったそのとき。また先生の声が脳内に蘇った。


「灰にして」


 目の前で恋の顔が赤く染まった。


春人(はると)が……私にキスを……」


 人工呼吸で照れる、だと?

 血の気が引いた。「よせ! 後ろに先生が!」だが僕の言葉にかぶせて「嬉しい!」そう叫ぶとずぶ濡れの恋が僕を抱きしめた。


 恋の背後では先生が2本の脚で立ち上がり、青龍刀のような形に硬化した右触腕を振り上げた。

 ふたりまとめて斬られる、その寸前。


 恋の顔からピンクの光が爆発した。

 真っ赤に照れた恋を中心に、全方向に光が放射された。


 それを浴びた先生の黒い身体が、金色の火花を散らした。


「先生!」


 僕の叫び声に、今度は恋も気付き、「え」と振り返った。

 恋の目の前で大量の灰が舞った。


「うそ……」


 恋が発していたピンクの光は瞬時にかき消えた。


 床に積もった灰の中に、半透明、いやほとんど透明な女性が仰向けに横たわっているのが見えた。神崎先生だ。

 僕も恋も、あわてて駆け寄った。

 なんだこの存在感の希薄さは。

 身体に力は無く、今にも消えてしまいそうだ。

 危篤だと知らされて病院に駆けつけ、ガラス越しに見た母の最期の姿を思い出した。


 ただ、先生の表情はとても穏やかで、うっすらと開いた両目は左右ともにとても奇麗だった。


「ありがとう……人として……死ねるわ……」


 先生が微笑み、消えそうな声でそう言った。


「ゴメンね。でも、わかった……の……」


 先生が真っ白に透けた手を、力無く持ち上げようとしている。その手を僕と恋がふたりで握りしめた。見た目こそ透けていたがちゃんと握ることはできた。ただし、驚くほど軽くて冷たかった。


「女王よ……」


 先生の手から大量の視覚情報が怒濤のごとく押し寄せて来た。


「!」


 最初に見えたイメージは人喰イの大群だった。

 空を覆い尽くしている。

 超巨大な人喰イもいた。大きなやつだとあれだ、パソコンで見た、東京都を覆い尽くすほどの巨大人喰イだ。それが何体もいた。

 これは過去の映像でははい。今起きていることだ。

 そいつらが目指しているのはここ、新宿だった。

 目的は「天敵」恋を潰すためだと知れた。


 その大群のずっと奥に、別格のそれがいた。


 乳白色のひとつ目は共通するが、身体の大きさが桁違いだ。東京都どころか四国、いや、オーストラリア大陸、もはや計り知れない。

 移動する事をやめたのか、地面に癒着しているように見える。

 その巨体の大部分が腹だと直感した。そこだけ別の生命体のように蠢いていた。こいつだ。


 こいつが、女王だ。


 最初に見えた大群など無視していい。この女王さえ倒せば逆転できる。

 場所はどこだ。

 砂漠のようだ。そして夜だ。


 だしぬけに、自分の身体の重さが消えた。

 音も消えて完全な無音状態となった。


 女王人喰イの異様な巨体とそいつが癒着している砂漠のような地面が見えて、その向こうに広がる無限の闇夜の中に。


 小さくぽつんと地球が浮かんでいた。


 全身が粟立った。


 女王人喰イが巣くっているのは、38万キロという絶望的彼方の、月の裏側だった。


 映像がかき消えて地下迷宮に戻った。


 目の前に横たわる神崎先生は、穏やかな微笑みを浮かべて最期に言った。


「さようなら」


 そして、金色の火の粉となって消えた。


 風でも吹いたのだろうか、灰がふわりと舞った。


 とんでもない事実を知らされてしまった。月の裏側だと?

 そんなもの倒せるわけがない。不可能だ。

 今から宇宙船を作れと言うのか。


 呆然としていると、遠くから慌ただしく足音が近づいてきた。


「大丈夫か」


 玉虫の声だ。他にも数人の足音があった。

 どう報告すればいいのかうろたえる僕の横で、恋が震える声で言った。


「私が……先生を殺した」


 恐れていた言葉だ。僕はあわてて否定した。だがそれを聞かず恋が叫んだ。


「私が殺したのよ! 先生を!」


 恋が悲しみと怒りに染まっていた。涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

 玉虫たち数人が到着したが、大量の灰と恋の様子に戸惑って立ち尽くしている。


「どうしてキスなんかしたの! 私の気持ちに気付いていたくせに! どうして!」


 ひょっとして、とは思っていた。

 出会った時こそ喧嘩になったが、いつの頃からか、恋の僕を見る目に変化が起きていた。

 さっき5階で読んだポエムの内容にも思うところがあった。

 だがことごとく僕は「いやいや、まさか」と脳内でそれを払いのけていた。


 今、ようやく恋の想いを確信した。が、それは同時に終わりのときでもあった。


「春人の馬鹿! 大嫌い! さっさとここから出てってッ!」


 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら恋が絶叫した。


 僕はなんとか「……わかったよ」とだけ答えて立ち上がった。


 青ざめる玉虫たちを素通りするとすぐそばに階段があった。

 地上に出て夜空を見上げると、薄い雲の向こうにおぼろげな満月があった。

 まるで人喰イの目のようだ。


 遠くから鯨に似たあの咆哮が無数に重なって聞こえてきた。


 僕は新宿に、背を向けた。


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