第17話 変異
新宿コロニーを包囲していた大群を薙ぎ払ったあと、恋はまずポエムノートをどこかに隠した。
そしてふたりでとにかく階段を駆け下りた。
人喰イを本当に全滅させたという保証はない。
そしてあの危険な男、下口がまだどこかにいる。
みんなは避難訓練のとおり、地下駐車場に集まっているらしい。
恋は僕を探してひとり引き返し、2階の男性フロアに上がったところでポエム朗読を聴かされたのだという。赤面ビームを下には向けなかったので、地下にいる神崎先生には当たっていないはずだと、自分にも言い聞かせていた。
1階から地下への階段を駆け下りようとした時、進行方向から複数の、ただごとではない悲鳴が重なって聞こえた。
なんだ?
不安が腹の底に広がるのを感じながら、僕と恋は一気に階段を下りた。
地下駐車場に大勢の背中が見えた。
人垣をかき分けてその先に飛び出すと。
下口がいた。
何かを握っているかのような右手がまっすぐ前に突き出されており、そこには神崎先生と、そしてふたりの間に身体を割り込ませたように白河さんが立っていた。
下口の右手は白河さんの胸にめり込んでいる。
「おっと、順番が狂った。まあいいか」
下口がそう言いながら右腕をずるりと引き戻した。手に握られているのは大型のナイフだった。日常生活で使うものとは明らかに異なる形状だ。
白河さんの顔は蒼白で、その場に力無く崩れ落ちた。
「白河さん!」
神崎先生が悲痛な叫び声を上げて駆け寄ったが、白河さんはもう動かなかった。即死だった。
誰かの悲鳴と、恐怖で泣き出す声が聞こえた。
嘘だろ。なんだこの光景は。
「ひひひひ! 俺に偉そうなことを言った罰だ。ざまあみやがれ。いっひっひっひ!」
下口の顔は狂気に満ちていた。
僕にとっては数日前に拳銃を持って現れたのが初対面だが、あのあとで聞いた下口の噂話は嫌悪すべきものばかりだった。
もともとそういう男なのか、こんな世界になったことで気が狂れたのか、それはわからない。
そういえばあのとき没収した拳銃はどこにある?
今こそ正当防衛で……
我ながら恐ろしいことを考えてしまった。
拳銃は白河さんが「自分たちには不相応」と言って金庫に入れたと聞いた。
「みんな、逃げろ!」そう叫びながら、長い武器を構えた男性が数名あわただしく駆けつけてきた。叫んだのは夏村さんで、玉虫の姿もあった。
それをきっかけに大勢が、パニック状態で逃げ始めた。
ここからの脱出経路はいくつかある。地上へ戻る階段が2カ所と、もうひとつ非常階段。他に、新宿地下迷宮へと続く出入り口がある。各々一番近い脱出口へとなだれ込んだ。
恋は神崎先生に駆け寄った。「逃げましょう先生」肩を掴んだが、先生は白河さんの遺体にすがりついたまま無言で、動こうとしなかった。
あるいは、駆けつけた男性陣が下口を倒してくれればいいのだが。
見れば男性の中に、初めてコロニーに着いたとき最初に会った、バリケードを守っていた人がいた。名前は確か菊池さんだ。
僕も前に渡されたことがある巨大フォークのような農具を両手で持っている。
数名が連携し下口を取り囲んだ。
だが、相手を殺しかねない武力行使にはよほどの勇気が必要となるに違いない。僕から見ても「囲んだもののどうすればいい」とみんなが躊躇するのがわかった。
対する下口は、技術も覚悟も桁違いだった。
まず、菊池さんが構えた農具を左の掌底で捌きつつ踏み込んだ。全身が虎のように躍動したかと思うや、すぐに次の相手、玉虫を振り返った。
この一瞬で致命傷を受けた菊池さんは一言も発することなく倒れた。胸に赤い染みが広がっていた。刺した瞬間が速すぎて見えなかった。
振り向きざま下口は、今度は玉虫が構える武器をやはり左掌底で難なく叩き落とし、ナイフを握った右手をまっすぐに突き出した。玉虫は咄嗟に後ろに引いてこれをかわした。
「玉虫よ。お前のことも嫌いだったよ。生意気だからなあ」
ナイフを構えて低く笑う下口に、「ほざけ」と叫びながら玉虫はなんとハイキックを返した。あいつそんなことができたのか。
だが下口は下段の回転足払いを同時に放ち、ハイキックを回避しつつその軸足を払った。
たまらずうつ伏せに転倒する玉虫。受け身もろくにとれなかった。その無防備な背中に「死ね」と叫んだ下口が逆手に握ったナイフを振り下ろした。
どん。
間一髪、僕の体当たりが下口を押しのけた。
僕には格闘技の心得などない。だが、身体をぶつけることぐらいはできるはずだ。
そう信じて咄嗟に駆け出していた。
玉虫は無事だ。良かったと安堵した僕の胸に、下口が渾身のナイフを刺し込んだ。
「!」
これは死んだ。さすがに助からないと悟った。
が。痛くない。
見れば僕はまったく無傷で、代わりに下口の右腕の手首から先が消えていた。
ぼたり。床に、ナイフを握ったままの右手が落ちた。
「な!? ぐわあああああ!」
下口が悲鳴をあげた。
切断された右腕を左手で押さえ、何が起きたのかと振り返った。
僕も恋も玉虫も、居合わせた全員が同時にその人を見た。
人と呼んでいいのかどうか怪しかった。
闇のように真っ黒な上半身は奇妙に膨れ上がり、輪郭が痙攣している。両腕が鞭のように長く伸びており、目には止まらなかったが、これが下口の手首を切断したのだろうと思われた。
猫背から突き出た頭部には、乳白色のひとつ目が虚ろに光っている。
「ギギギ……ギチギチギチ……」
歯ぎしりなのか唸り声なのか、そんな音が口元から聞こえてきた。
だが腰から下は人間だった時と変わっていない。
恋が震えながらその人の名を呼んだ。
「神崎……先生……」
絶望とはこれのことか。到底受け入れられない出来事に地面が傾いた。
夏村さんも玉虫も、先生を見つめて絶句し、硬直している。
恋が駆け寄った時すでに様子がおかしいとは思っていた。
左目に巣くっていた人喰イが、先生の悲しみと絶望を喰らって急成長した……そんな想像が脳裏をよぎった。
「ダメだ先生! 戻って!」
僕は必死で叫んだ。
それには答えることなく、神崎先生の全身が大きくしなり、空気をどんと震わせた。
下口の、今度は左手首が飛んだ。
「ぎゃああああああああ!」
切断面からぼたぼたと血を流しながら、下口の顔が恐怖に歪んだ。パニック状態でよたよたと逃げ出した。
僕らはみんな恐怖に硬直し、一歩も動けなかった。
先生は獲物が弱っていく様子を楽しむように、ゆったりとした動作で下口の背中について歩く。
追われていると気付いた下口は身体を先生に向け「よせ神崎! やめてくれ!」と命乞いをしながら、階段に向かって後退った。その背中が、黒い巨体にどすんとぶつかった。
地上から階段を下りて現れたそれは、あの獅子型人喰イだった。
鼻先だけではない、全身いたる所が欠損し、そこから火花と白い灰をまき散らしている。
下口は獅子型人喰イを間近に見て一瞬ギョッと肩を跳ねさせたが、すぐに気色ばんだ。「おお……助けにきてくれたか! あいつだ! あいつを殺してくれ!」手首の無い腕で先生を示した。
だが獅子型人喰イが太い両腕で捕らえたのは下口だった。そして大きな口をことさらゆっくり開いた。口の中には無数の牙が並んでいる。
目の前に開いた地獄への門に、下口は絶望した。
「違う! お、おお俺じゃない! 俺じゃなああああああああ……」
それが最期の言葉になった。
下口を捕食した獅子型人喰イは今度は僕らを睨みつけ、威嚇するように咆哮をあげた。
その途端、巨体が斜めに両断された。
乳白色の目が極限まで大きく見開かれ、先生を見つめた。そのまま爆発するように灰となった。
人喰イを一撃で葬った先生は灰の吹雪の中でふらりと向きを変え、僕と恋の横を通過した。
そのまま振り返ることなく。
新宿地下迷宮の闇に、消えた。




