プロローグ
シリアスな物語ですが、笑いも散りばめつつハッピーエンドに向かいます。よろしくお願いします。
五十嵐アオ
「つまり、おっぱいをいやらしく揉んでやればいいんだろう?」
曇り空の正午すぎ、比較的原型をとどめている家具専門店ビルの屋上で、下口佳祐が両手をそのように動かして見せながら下衆い笑みを浮かべた。上背があり骨太で、風貌には大型爬虫類的な冷たい凄みがある。
新宿コロニーの警備隊長を務める43歳だが、むしろチンピラのような言動だった。
同行する4名の隊員も似たような輩で「いいっすねえ!」「俺にも回してくださいよ」と品のない笑い声を上げている。
警備隊といっても制服や規則があるわけではない。ただの腕自慢を寄せ集めた荒くれ集団も同然で、国家すら崩壊したこの時代に高いモラルを求めるほうが無理だともいえた。
彼らが舐めるような視線を向けているのはまだ10代であろう華奢な少女で、ぱっつり切り揃えた前髪の下の顔は青ざめて言葉を失っている。すかさず白衣の女性が割って入り、下口を毅然と睨み返した。
「勝手な解釈しないで。穂香ちゃんは赤面した時にビームを照射すると言っただけよ」
眼帯で左目を覆っているが、右の瞳だけでも十分な怒りを表していた。ゆるやかにウェーブしたミディアムヘアが今は少し膨れ上がってまるで威嚇しているようにみえる。下口より一回り下の年齢でありながら、神崎雅美はその美貌を引き締め、指一本でも触れれば許さないという意思を示した。
穂香と呼ばれた少女と神崎の後方には、少し距離を置いてもうひとり若い女性が立っていた。
明るい色のストレートロングヘア。左右に分けた長い前髪も腰まで伸びた後ろ髪もそれぞれまとまりがなく、よく言えば自由、悪く言えば大雑把なへスタイルである。逆に顔立ちは綺麗に整っていて、トータル的にはサバイバル中のアイドルとでも言えそうな姿になっていた。
彼女は言葉こそ発しないものの、殺気に満ちた瞳で下口を睨みつけ、右手に持っている釘バットを屋上の床にゴンと打ちつけた。
おお怖い怖いとおどけて見せる下口たちから目を離すことなく、神崎は少女の肩にそっと手を置いた。
「ごめんね穂香ちゃん。こんなやつら連れてくるんじゃなかったわ」
「だ、大丈夫です先生。私、頑張りますから」
穂香と呼ばれた少女の顔色が悪いのは同行した警備員が下劣なせいだけではなかった。
新宿コロニーを徒歩で出発してからずっとそうだったように、原宿から渋谷に差し掛かったこのあたりも壊滅状態だった。周知のことだし遠目になら眺めたこともあったが、実際に歩いて目の当たりにしたその様子は衝撃だった。
アスファルトがいたるところでめくれあがり雑草が生い茂っている。
線路はねじ曲がり、電柱は倒れ、道路は建物や車の残骸だらけでまともに歩けない。多くのビルが瓦礫の山と化し、残ったビルもほとんどが半壊状態だった。山手線の車両がビルに刺さっているという目を疑うような光景もあった。
狙撃するなら高い場所からがいいだろうと階段を上がった、この家具専門店ビルの屋上から見渡す渋谷駅周辺も同様だった。
四角い全体像をほぼ残しているスクランブルスクエアにしても表面のガラスは吹き飛ばされており、高さ200メートル超えの巨大な墓標のようにみえた。
何よりも穂香を怯えさせたのは、かつて大勢の人が行き交った名所渋谷交差点にうずくまっている、黒い巨大な塊だった。
数年前までこの生物は地球上のどこにも存在しなかった。
光をほとんど反射しないため、まるで空間に穿たれた巨大な穴のようにも見える。
この謎の生物にはもともと輪郭が不気味に痙攣する特徴があるが、今はそれだけではない蠢きがあった。
肉食動物が何かを食べているような動きだった。
「じゃあさっさとやってみせろよ。かなりの大物だが、倒せるんだろ?」
遠くに見えるその黒い巨体を親指で示しながら下口がからかうようにそう言った直後。
不意にばんという轟音が複数ほぼ同時に響いた。
続いて黒い塊の表面に爆発が起き、衝撃が音となって届いた。
「戦車か!」
「マジで」
「自衛隊にまだ生き残りがいたのかよ」
警備隊の輩たちがどよめいた。ここからでも戦車を1輌見つけることができた。砲身をピタリと敵に向けたまま移動している。先ほどの一斉攻撃の様子から、他にも何輌かいることは間違いなかった。
「馬鹿が」
下口が無表情に事実を告げた。
「戦車であれを倒せるわけないだろ」
陸上自衛隊10式戦車の44口径120mm滑腔砲から発射された国産徹甲弾は黒い塊に接した瞬間、炸薬によるもではなく、黒い塊が展開する謎の障壁によって一方的に爆散させられていた。
総力戦となった当時、報道によれば米軍のいかなる兵器も通用しなかったとされている。核兵器すら効かなかったというのだから、それが本当なら今さら10式戦車の装備でどうにかなるものではなかった。
逆に、黒い塊の反撃は驚異そのものだった。
長い触腕が上空に向かって瞬時に伸びるや、今度はある一点に急降下した。そこには10式戦車が1輌潜んでいた。戦車にしては比較的小型とはいえ40トンをゆうに超える超重量車輛である。それを掴んで軽々と持ち上げ、地面に叩きつけた。そこでは別の10式戦車が後退中だった。激突した両者はどちらも玩具のようにひしゃげ、燃料に引火したのだろう、爆発的に炎上した。
「人喰イめ……」
ビル屋上からそれを目撃した神崎はいまいましげにつぶやいた。
そして、傍らに立ち尽くす穂香をそっと見た。
穂香は青ざめてがたがたと震えていた。
「おいおい、照れて顔真っ赤にして必殺ビームを出すんじゃなかったのかよ。使えねえな!」
下口が怒鳴った。
神崎は自分の見通しの甘さを認めざるをえなかった。
やはり赤面状態に誘導してくれる存在が必要だったのだ。
「難しいわよね。ゴメンね。今日は撤退しましょう」
優しくそう言って穂香の手を引いた時、下口が穂香のもう一方の手を逆方向に引っ張っていた。
「俺が可愛がってやるぜ」
下口の目が笑っていなかった。神崎は「離しなさい」と叫び腕に力を入れたが、ふたりの大人が穂香を左右から引っ張り合う綱引きのような格好になってしまった。下口の部下たちが集まり、そのひとりが神崎を突き飛ばした。
穂香は悲鳴をあげながら荒くれ集団に囲まれた。釘バットの女性が叫んで集団に殴りかかった。
そのとき神崎の視界の隅に急接近する何かが見えた。
それが放物線を描いて飛んでくる10式戦車だとわかった次の瞬間ビル屋上は戦車の直撃を受け、そこにいた全員を呑み込みながら崩壊した。
地球上の人類がほとんど喰い尽くされてからおよ1年が過ぎた、2022年9月半ばの出来事だった。