追懐(焼肉)
降りた電車がゆっくりと発車していく。
今夜は、仕事終わりに後輩とサシで飲みに行った。ついつい話が盛り上がり、少し飲みすぎてしまったようだ。
家の最寄り駅までたどり着いたものの、心地よい酔いで、このまま帰る気が起きない。
ドカッとホームのベンチに腰を下ろし、衣服を少し緩めた。
酔い醒ましの夜風が気持ちいい。もう終電間際なこともあり、人もまばらだ。
――ふと、どこからともなく生暖かい、ぬるい風が吹いてきた。
男は、焼き肉の熱い風を思った。
今夜の飲みを回想する。今夜飲んだ店はホルモンが売りの焼き肉屋だった。
店は七輪をテーブルに置く方式で、席につくと店員が七輪を運んでくる。中の炭から発された熱い風に顔がチリチリし、期待とともにメニューを開いたのだった。
◇
――突然ガチャガチャと音がした。
目を向けると同じホームの少し奥に行ったところに、細長い影があった。用具入れのロッカーだろうか。
扉を揺らすように、ガチャガチャと音がする。周りには誰もいないのに。
男は、一杯目の梅酒水割りを思い出した。
店には色々な種類の梅酒が置いてあるが、メニューには『梅酒』としか書かれてない。梅酒を頼む際には店員に好みの味を伝え、チョイスしてもらった。
乾杯し口をつける。梅の甘くて酸味のある華やかな香りが鼻をくすぐり、さっぱりとした冷たい梅酒が喉を潤す。
氷が冷たくカチャカチャと揺れ、薄いグラス越しに涼を伝える。蒸し暑い夏の夜には最高の一杯だった。
◇
――いつの間にか、先ほどのロッカーの扉が、少し空いていた。普通は鍵がかかっているのではないだろうか。
何気なく見ていると、およそ血が通っていると思えない白い手が隙間からヌッと出てきた。
……さっき食べたホルモンも厚い白色だった。
思い出して喉がゴクリと音をたてる。
店の看板メニュー。白くてプリプリ肉厚のホルモン。小腸あたり。
薄いピンクに色づいた皮目を下にして七輪でじっくりと炙る。皮目がチリチリとして、透き通った油滴がポタポタと落ち出したところで裏返す。反対側はさっと炙るだけ。焼き過ぎると油が落ち旨味が逃げてしまう。
この店の味付けはシンプルに塩だ。美味しい肉でなければこの食べ方はできない。
そしてお好みで赤唐辛子。各テーブルには唐辛子を入れた小壺が置かれている。およそ粉末とは呼べぬ、大きめに刻まれた唐辛子。しかし不思議なことに強い辛みではないのだ。たっぷりつけてもほんの少し辛味を感じる程度。
いい加減となったホルモンを、後輩と取り分ける。炙りたてのホルモンに唐辛子をふんだんに付け、いそいそと口に入れる。
アツアツふわふわの脂身から脂の甘味がジュワッと溶け出し、口福を感じる。一口、二口と噛みしめるごとに旨味が口いっぱいに広がる。程よい塩加減に、唐辛子のほんのりとした辛味がホルモンの味を引き立てていた。
「これ、めちゃめちゃ旨いっすね!」
どうやら後輩も気に入ったようだった。誘ったかいがあった。
◇
――気がつくと、ロッカーの白い手は、ゆっくりとした動きでズルリ…ズルリ…と這い出て、二の腕まで覗かせた。
そして動きを止めると、ドロリと溶けた。輪郭が崩れ去り、遂には霧散した。
……その溶け様は、中盤で食べたアボカドを連想させた。
野菜メニューにアボカドを見つけた後輩が、僕アボカド好きなんですと言って二人分注文したのだ。
種が取り除かれたアボカドの半身にオリーブオイルと塩がふられている。これを網の上に乗せジリジリと炙り、皮が焦げ、身と皮の境がふつふつとしたら食べ頃だ。スプーンでくり抜いて食べる。
まったりとした舌触りに濃厚なコク。火が通ったことで独特の青臭さが消え、ほんのり塩味がちようどいい。あっという間に口の中で溶けてしまい、一口、また一口と進む。
「……また食べよう」
男はそう独りごちた。
◇
――手の消えたロッカーは、もうなにも動きがなかった。
◇
注文したメニューも全て平らげ、満腹の心地良いダルさを感じながら男はボヤいていた。
「あ〜、明日休みたいな」
「……僕明日休みなんです」
「えぇ!なんで⁉俺も休みを取れば良かったよ」
少しはにかんで後輩が応える。
「明日、彼女と旅行に行くんです」
「……そうなんだ」
聞きたくなかった。聞きたくなかった。羨ましい。自分だってこんなに気持ちよく酔った次の日は休みたいのだ。それが羨ましい。……断じて旅行に、あまつさえ彼女と旅行に、行くことが、羨ましいのでは、ない。
伝票を受け取り、後輩が金額を覗き込む。律儀に半額出してきたので、千円だけ受け取りあとは返す。
「え、いいんですか」
「……旅行、楽しんでこいよ」
旅行、楽しんでこいよ。ついでにちょっといい美味しい土産も買ってこいよ、そう思いながら会計を済ませた。
◇
追懐から醒める。……だいぶ長く駅で休んでしまったようだ。
俺は明日も仕事だ。そろそろ帰るか。
そう思い、立ち上がって改札に向かった。
……後ろで扉が乱暴に閉まる音が聞こえた。