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登校

学校だ。二年生だ。新生活だ。

春休みを終えて始業式を迎えるべく、一年間着続けた制服に再び袖を通す。長く伸びた髪をひとつに結わう。身支度はこれだけ。すっぴん最高。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい!気を付けてね〜」

母の見送る声がする。どうやら“お兄ちゃん”はもう出掛けるらしい。そりゃそうか、ここから駅までバスに乗り十分、更に電車で三十分揺られ、最寄り駅から校門まで徒歩なのだと言う。

考えただけで疲れそう。

こっちは徒歩二十分で到着だ。何なら自転車で五分。楽過ぎる。

「おはよ…」

「あら、お早いお目覚めで」

む。

「初日くらい早起きするし」

「毎日なさいよ。あともうちょっと早ければ、お兄ちゃんの見送りも出来たのに」

それを回避する為の、この時間じゃないか。

「あんた達別に仲が悪い訳じゃないんでしょ?」

「仲が悪くないからって、仲が良いとも限らないよ」

「冷たいこと言うのねぇ」

事実そうだ。今日までの数日は結局、荷解きやら片付けやら手続きやらに追われ、私の引き籠もり癖もあってか顔を合わせる機会も少なかった。接点が無ければ進展もしない。今後だって学校も生活リズムも違えば、一緒に住んでいても何も起きやしないのだ。

戸籍上では家族でも、限りなく他人だった。

マグカップに粉末とお湯を入れてから、ダイニングテーブルに着いている母の向かいに座る。そこには既に、私の為の朝食が揃っている。

「誰のおかげで、美味しいご飯が食べられると思ってるのよ」

「そこはお義父さんに感謝」

「あの人を捕まえたあたしにも感謝なさい」

「お母さんに感謝」

「うむ」

口で言うのは容易い。感謝の言葉と引き換えに、ふわとろのフレンチトーストに齧り付く。

とても美味。冷めても美味。

インスタントのコンソメスープと素晴らしくマッチする。しかも小皿にサラダも付いている。かつての生活では有り得ない朝の光景だ。

「あたし今日夜勤だから、家の事お願いね」

「ふぁい」

昌人(まさひと)さんは、昨日ほど遅くならないだろうとは言ってたわ」

「りょーかい」

嵩人(たかひと)くんは生徒会があるとかで、帰って来るの遅くなるかも」

「…ふーん」

あの人、生徒会に入ってるんだ。まぁなんか、頭良さそうだしな。

頭の回転が良くて、無駄な事を回避するのが上手そうな印象はある。実際はどうだか知らないけど。

「ご馳走様でした」

立ち上がって食器を下げる。流しに置いたら直ぐにその場を立ち去る所を、少しだけ躊躇して思い直した。

…時間あるし、たまにはやるか。

「えっなになに、どうしたの?洗い物なんて珍しい!」

一々煩いなぁ。

「何となく、まだ時間に余裕あるから」

そっかぁ。なんて言いながら、にっこにっこ顔でカウンター越しにこちらを見てくる。とても落ち着かない。

「…する事ないなら、時間まで寝てなよ」

夜勤の出勤前はいつも寝ていて、朝のこんな時間に顔を合わせる事も無い。一人でパンを食べて、見送りも無く家を出る。それがいつもの風景だったのに。

「たまにはね」

酷く上機嫌だ。浮かれているとも言う。

「勤務中にトラブって変なミス連発しそう」

「ひどいっ!」

自分の分と、多分“お兄ちゃん”の分の食器を手早く片付けて、居た堪れない気持ちのままさっさとその場から離れる。しかし廊下に出る直前、逡巡した結果ぼそりと言葉を付け足した。

「予言してあげたんだから、ちゃんと気を付けてよね…」

歯を磨くべく洗面所に向かう私の耳に、一拍遅れて「はーい」という元気な返事が届いた。

何だこれ、物凄く恥ずかしい。


◇◆◇


バス、凄く、疲れる。

駅のホームで電車を待ちながら、先程までを振り返っていた。

バス停までの徒歩分と、待ち時間と、混雑具合を今一度考えてみる。これは自転車に切り替えた方が良さそうだ。定期未購入のうちに交渉しよう。自転車の新規購入と駐輪場の月額利用料。金銭面はこのくらいか…、あとは雨の日にどうするか。

豪と空気が音を立てて電車が入構した所で、思考を一旦切り上げる。

初めて乗る沿線は、上りだけあって非常に混みあっていた。六駅で乗り換えだけど立ち位置は何処が良いだろうと、呑気に思案していた自分を愚かに思う。ただ乗り込むだけでも一苦労なのに、希望の位置をキープするなんて、どう足掻いても困難だ。

以前はまだ目的地に近い住まいだった。思い返してみると、立地のいい場所で暮らしていたんだなと実感する。あの頃の通学から単純に遠くなっただけ、だなんて安直な考えが一瞬で打ち砕かれた。

減速した途端まだドアも開かないうちから、顔も見えない他人に背中を押される不条理。意味が分からない。まだ降りたくないので、横に身体をねじ込んでドア前の一帯から避難する。一人分進んだ筈のその人は、何故か舌打ちをしてきた。本当に意味が分からない。

停車後も、降りるよりも先に人が乗り込んで来るおかげで、出て行く幅が狭くなって中々出られないでいる。外では出遅れた側に並んでいた人のストレスたるや、可哀想になってくる程に時間がかかっていた。

ドアの両側で待機するのは、間違いではないかとすら思う。

たった一駅進んだだけで、通勤電車の地獄の片鱗を目の当たりにした気がする。ここが利用量の一際多い駅だったのだろう。殆ど空の状態にまで人口が減り、元いた半分以下の人数が乗車した。アナウンスの通りにドアが閉まり、時刻表通りに発車する。新たに乗り込んだ人達も、既に疲労の色が濃く見える。

酷いものだ。

ストレス社会の元凶は、自分以外の他人にあるのだと誰もが思っているが故に、自分もまた誰かのストレスになっているのだと自覚する事が出来ないでいる。思いやった人が損をする時代。他人の為に損なった分を、精算することすら難しいのが、今の世の中なのだろう。

あの舌打ちも、何か気に障る行いに対するそれだったとしたら、いったいどうするのが正解だったのか。分からないな。何をしても駄目な気がする。

あの身動きの取れない密集した空間は、確かに大きなストレスを生む。避けられるなら誰だって避けたがる筈だ。それを我慢して身を置いていては、理不尽に耐える拘束時間は苦痛だ。

我慢をしていると思うから、反発する気持ちが生まれるわけで。これはこういうものだと受け入れてしまえば、さして気を荒立てる事も無さそうだが。

などと生意気な自論を展開している間に、目的の下車駅に到着する。ここでも変わらず、ホームで待っている人達が先に押し寄せてくるものだから、一歩降りるのに苦労した。

これが今後、毎日か……。いつか、慣れる日が来るんだろうか。


◇◆◇


部屋にいると、寝てしまいそうだった。理由はただそれだけの事。

「……行ってきます」

「え?あ…、行ってらっしゃい!」

慣れた手つきで自転車に跨り、ゆったりとしたスピードでいつもの通りを走る。時間が違うせいなのか、流れる景色が一味違うような感じがする。

あまりにも早過ぎる出発に、流石の母も戸惑っていた。とはいえ、当の本人の解せない感情には遠く及ばないだろう。何せいつもより三十分以上も早く家を出てしまったのだ。全く以て不本意極まりない。

二度寝して寝過ごすよりは、いっそ教室で突っ伏して寝ていた方が都合が良いような気がしたものだから。

「…さむっ」

思考が言い訳の渦で気恥ずかしくなると、無駄に独り言が飛び出してきて更に恥ずかしくなってくる。明らかに調子が狂っている。全ては“お兄ちゃん”が身支度している物音で起こされ、どう頑張っても眠れなかったあの時から始まった。

そうだ。全てにおいて彼のせいだ。フレンチトーストだって放っておいてくれたら良かったのに、どうせギリギリになって慌てる子だから。という母の助言に従って一緒に焼いてくれちゃって。

「はぁ……」

まぁ美味しかったけど。有難かったけど。

自分で焼いてたら、ああはならなかっただろうけども。

「勝てる気しないな、あれ」

女子として。勝てる要素が見つからない。

かと言って、そもそも女子力を磨く事をしていないわけだけど。

とんでもないのが来てしまった。同じ土俵に立たないよう、避け続けなければ。

学校の駐輪場の定位置に自転車を停めながら、当面の立ち回り方針を固めた。

「あ。おーいそこの女子!手伝ってくれー」

げ。

呼んでいるのはサッカー部顧問の先生だ。名前は…忘れたが存在は知っている。そして相手は絶対に私を知らない。

「これ貼るの、手伝ってよ」

歯を見せる笑顔とはこの事か。噂通りの爽やかさだ。

彼が持っていたのは、丸めた模造紙を三枚。と、足元にいっぱい。

ん、これ広げて。と渡され言われたとおりにしてみれば、新しいクラス分けの名簿表だった。そういえば進級したんだった。

「いやぁ、助かった。まさかこんな早くから登校してるとはなぁ〜。感心感心」

「……はぁ」

嫌な役を押し付けられたもんだ。と朝早く来たことを激しく後悔したが、このまま教室に直行していたら一年の席に座っていたわけで。危うく今後の学校生活の笑い種にされるところだったと思えば、安いものかと思い改める。

否。

いつも通りに登校していれば、既に張り出されたこれを眺めて教室に行くだけだった。やはり早起きは得しない。

「君、何年生?」

唐突な質問に、チャラみを感じる。先入観も大いに影響しているのだろうが、基本人見知りする性格には一瞬詰まるものがあった。

とはいえ相手は教師だ。真面目に受け答えしておかねば。

「二年になりました」

「そっかそっか、じゃあ次これね」

手渡された模造紙を広げて見れば、最初に目に付いたのは『二年C組』の文字。目線を下ろしていくと、見知った名前を見付けた。

尾田辺芳史(おたべよしちか)

そして二人挟んで、末善柾也(すえよしまさや)

ちかちゃん、また柾也と一緒じゃん。

二人が幼少期からの幼馴染みというのは周知の事実で、更に言えば別のクラスになった事が無いという。この伝説は今年も記録更新したみたいだ。

女子の列には中々知り合いが見当たらない。

先生がA組B組と並べて貼っていた横に、用紙の上側を画鋲で止めてから、下まで伸ばしていく。ハ行に自分の名前を発見し、すぐ下には三波萌々音三波萌々音(みなみももね)という名前。

この子は。たまに耳にする不思議ちゃんじゃないか。


◇◆◇


駅のコンコースを渡ってホームを変えた所で電車を待っていると、向かいに見える元来たホームに、見知った制服の生徒達が溜まり始めていた。彼らが待つ電車は、ここまで辿って来た路線を戻るもの。つまり自宅の最寄り駅を目指している集団であり、義妹の通う学校の学生達だ。

こう見ると大きく惹かれるものがある。こんな満員電車に揺られる事無く、自転車で気ままに通える環境。羨ましい。

しかし自分で決めた、転校はしない。という決意を覆すまでには至らない。与えられた役職を放棄する訳にはいかないし、築き上げた友人関係も手放し難い。

「おはよう、八幸(はつゆき)くん」

不意に名を呼ばれ慌てて振り返ると、声で予想した通りの人物がそこに立っていた。確認すると同時に、目当ての電車が入構して来る。

「おはよう東堂とうどう。いつもこの電車なのか?」

「そうだよ。そっちは、えっと…引っ越したんだっけ?」

「ああ、まぁ」

開いたドアから下車する多くは、先程から目にしている学生服の生徒達。彼らをやり過ごして乗り込んでから、改めて友人と向き合った。

元クラスメイトの彼は、詳しい事情をまだ知らない。何も無ければ話すこともなかったが、この際だ、伝えておこうか。

「父親が再婚して引っ越したんだ。今は木多見に住んでる」

「へぇ」

一瞬だけ、東堂の目が鋭く細められた気がした。変な違和感が背筋を走る。いやしかしほんの一瞬だけだったから、見間違いかもしれない。たまたまそう見えただけだろう。

「木多見かぁ。青林高校がある所だよね」

「そうだな」

まさにそこに、義妹が通っている訳だが。

「いいなぁ」

「いい、のか?」

思い付く限り派手な商業施設は無いし、生活に不便しない程度で、これと言った利点は少ない。何よりあの一駅が地獄のようだった記憶が鮮明過ぎて、傾いた天秤を押し戻す魅力が思い付かなかった。

「何となくだけどね」

微笑みで何かを誤魔化された気がする。

「大して何も無いぞ」

「はは、そっかー」

気の無い返事だ。ただの社交辞令かもしれないし、変につつくものでも無いだろう。ここはひとつ、話題を変えておこう。

「そういえばクラス分け、どうなっただろうな」

「どうせみんなで持ち上がりでしょ」

確かにそうだ。成績上位者の特別クラスが二つあり、これに溢れない限りはクラスが変動することが無い。元が上位の生徒は成績を上位に保っているものだから、滅多に入れ替わったりしないのだ。

「あ、でも一人。二学期の後半から急に伸びた子がいたよね」

一般クラスから順位を上げてきた生徒、確か名前は、吉冨理央よしとみりおといったか。

「いたな。仮に上がってきたとしたら、落ちるのは…」

「うーん……」

思い当たる人物は、居るには居る。けど、口にするのは憚られた。

「まぁ、名簿を見れば分かる事だ」

「そうだね」

名簿と自分で言っておいて思い出した事がある。

「ちょっとごめん」

ズボンのポケットから携帯端末を取り出し、在学する山埜御堂学園の専用アプリを開いた。起動すると、トップ画面の流れるバナー群の中に、新学年クラス分け一覧名簿というものが出てきた。

「あった。東堂も見てみるか?」

「なにそれ?」

画面を見せてやると、意表を突かれた表情に変わる。

「そんなのあったんだ」

直ぐ様慣れた手つきで自身の端末を操作し、同じ画面へと辿り着く。互いに目的を達成した頃合いで、同時に顔が上がった。

「やっぱり…」

「仕方ない…かな」

言わんとしている事は分かっている。

一年間同じ教室で過ごした仲間との、暫しの別れを心の中で告げた。



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