引越し
普段から車通りの少なくない道に面していても、家の前に停車する音というのは耳につくものだ。常ならば「なんか頼んでたっけ?」となるシーンだけど今日は違う。
いつもならしなくていい心構えを強いられて、ストレスで吐きそうだ。
インターホンが鳴り、恐らくモニターで確認したであろう母がそのまま出迎えている。
「遠路遥々お疲れ様〜〜荷物運び手伝うわね!いったんリビングに…」
一応は人前に出られる格好に着替えていたけども。やっぱり面倒くさい。騒々しい玄関先から離れるように、布団を被って二度寝する構えを取った。しかし流石に許されないようで。
「紗千乃!早く降りてきて手伝いなさい!」
強制労働とは、酷い母親がいたものだ。もそりと起き上がり、手櫛で髪を整えながら部屋を出る。こっそりと。音を立てないようにドアを閉めて、音を立てないように廊下を進み、階段を降りる。
降りて行く途中で先に目が合ったのは、“お兄ちゃん”だった。こちらを認識するや否や、彼は前を歩く父の背をつついて気付かせる。
「やあ紗千乃ちゃん!今日からよろしくね」
「よろしく」
父を先に挨拶させてから、自身も会釈する。よく分からないが、ファザコンとまではいかないまでも、この父が大事なんだろうなという印象を持った。
「どうも」
とはいえ対応に困るのは変わらない。
「もう、紗千乃ったら。ちょっとは可愛げのある挨拶でもしなさいよ」
リビングから遣り取りを聞いていたらしく、姿は見えないままに窘められた。テンションの上がっている母の無茶振りには、若干引き攣るものがある。可愛げのある挨拶って何だ。最早いっぱいいっぱいだと分からないのか。
「まぁまぁ、最初のうちは緊張するものだから」
義父のフォローに複雑な感情が渦を巻く。助け舟は有難い、有難いのだけど、僅かに苛つく部分がある。ああ、嫌だな。こんな気持ちになる自分の性格が、本当に嫌だ。
「車の後部座席の前側、比較的軽い荷物が積んであるから」
立ち竦む私に向かって、“お兄ちゃん”が声を掛けてくれる。
「あ…ありがと」
つい口をついて出た感謝の言葉に、それが正しい受け答えだったのか疑問が過ぎった。変じゃなかったか。もっと他に言い方があったんじゃないか。「分かった」とか「了解」とか、そっちの方が良くなかったか。
まともに顔も見れずに背を向けて、小さな後悔とせめぎ合いながら靴を履く。
参ったな。部屋から出てものの数分で、疲労感が半端ない。
「えーっと……」
目の前に路駐している車のトランクとスライドドアは、開けっ放しになっていた。何とも無防備だけど大丈夫か。
後部座席の前側、と言っていたか。
言われた場所には、見るからに大きなダンボール箱が立ちはだかっていた。これを退かさなければ、他に何も取り出せない位置だ。多分、“お兄ちゃん”の言った比較的軽い荷物はこれでは無い。けど、まぁいいか。
「よい、せっ」
軽い掛け声と共に抱え上げる。何とかいけそうだ。玄関前の段差に注意しながら、そういやこのドア引き戸なんだよなぁ。と考え込んだ。
◇◆◇
リビングで荷解きをしてくれている新しい母親は、申し訳なさそうに娘を擁護する言葉を並べている。
「あの子、昔からどうも人付き合いが不器用でね…、冷たい気持ちで素っ気なくしてる訳じゃ無いと思うんだけど……」
「うん、なかなか直ぐには受け入れられないだろうからね、徐々に打ち解けていってくれたらいいなぁ」
他人同士が家族になるのって、想像以上に大変なんだな。気を遣い合って、互いに疲弊して、それでも上手くやっていく為にコミュニケーションを取らなくてはいけない。関心が無くなったらお終いだ。
「その点、嵩人くんは良い子よねぇ。さっきの助言も、紗千乃に気を遣ってくれたんでしょ?」
この人、案外耳が良いな。
「いえ、まぁ…具体的な指示も無く、ただ手伝ってって言われても、困っちゃうかなって」
「さっすが!あの名門校に通ってる子は頭の出来が違うわね」
関係あるのかな。取り敢えず笑っておこう。
多分この人も、歩み寄り方を模索してるんだろう。適当な所で呼び方の提案をしておくか。妹とか特に、何て呼んだらいいか本当に分からない。
「あー、嵩人くんごめん、ちょっと玄関のドア開けてきてくれる?」
玄関…外で何かトラブルか。
「分かりました」
耳の良いこの人の事だ、何かを聞きつけたのかもしれない。問題を解決しつつ、話しの切っ掛け作りにもなるか。
あらゆる打算が飛び交う現状が、何だか滑稽に思えてくる。
玄関ドアの磨りガラスには薄らと人影が映り、押すか引くかのドアノブが忙しなく音を立てていた。自分の靴を履きながらドア越しの人物に声を掛ける。
「今開けるから、少し離れて」
途端にドアから人が離れる気配がしたので、こちらの意図が伝わったのだと解釈した。縦に長い、カーブを描く板状のプッシュプル錠ハンドルを押して、そっとドアを開く。
目の前に飛び込んできたのは、予想もしていなかった大きさのダンボール箱だった。
「え……待って、待って君っ、これ…何でこんな物を…!」
「んー。いいからそこ退いて」
慌ててドアを最大限開くように背で支えながら、腹の前をダンボールが通り過ぎるのを目で追った。距離を測るように左右に首を振りながら進む彼女の顔は、驚くべき事に涼しげだ。
この箱は、記憶が確かならば、一人で運べる重量ではない。
一体どんな腕力で持ち上げているのか。いやそもそも、どうして彼女がそれを持ち運ぶに至ったのか。
「それ…、一番奥のシートに乗せてたはずなのに……」
「え?一番手前にあったけど?」
一番手前?そんなはずは。
「何なら入口んとこ、これ動かさないと何も取れなかったから、持ち上げたついでに運んじゃおうと思って」
持ち上げたついで…って。
「ごめんそれ手違いだ、手伝うよ」
「いいって、もうすぐそこだし」
気付けば彼女はとっくに靴を脱いでいて、目的地のリビングまでスタスタと進んで行く。ただただ呆然と、見送る事しか出来なかった。
なんとも、逞しい妹が出来たものだ。
◇◆◇
母の呆れ顔と、義父の驚愕顔がこちらを見ている。なにも、そんな目で見なくてもいいじゃないか。
中からは液体の揺れる音がしているので、慎重にそっと、そぉっと床に辺を当ててからずらす様にして、底面を安定させていく。ピタリと設置された瞬間、再び持ち上げるのは難しくなった。
ドアを開ける際、一旦置く事を諦めたのはこの為だ。ドア前の小上がりは面積が狭過ぎて、置いたらそもそもドアが開けられない。小上がりを降りた所は緩やかな坂になっており、中身が何なのか分からない液体を斜めにする事に抵抗があった。更には床に置いてしまった場合、再度底面に指を掛ける時に確実に痛い思いをする。
さっさと車まで戻って置き直し、ドアを開けてから再チャレンジする手も考えはしたが。
「さ、紗千乃ちゃんそれ…!一人で、持ってきたのかい?」
「うん」
見たら分かるだろうに。義父は眉根を寄せて、過去を悔いるように渋い顔をしている。
「父さん。何でこれを入口まで引っ張り出してたんだ」
「いや、こっちにスペースがある内にさ、重いの運んじゃおうと思って…」
「だったらこの子に手伝い頼む時、こうなる予想くらい出来ただろ」
「いや、どうせ運べなかったら戻って来るかと…」
「何でそう無駄な事をさせるかなぁ」
「はいはいまぁまぁ一旦そこまで」
母が手を叩きながら割って入る。
成程、子供がしっかりしていると、こうなるのか。うちでは母に抗議するのは自分の欲求を押し通す時で、行いを諌めるような物言いなんてした事がない。
「紗千乃ちゃんごめんね…。指とか腕、痛めてない?」
「いえ、全然」
パッと両手を広げてから、ぶらぶら振ったり腕を回して見せる。慎重になり過ぎて首が少し痛むくらいで、これくらいどうって事はない。
「それよりこれの中身、何なんですか?」
「あ…うん、これはね」
いそいそと蓋を開けるべくガムテープを剥がそうとする。端っこに爪を立てて少しずつ、やたら丁寧に、ちょっとばかし見ていられなくなる程にもたもたと。
無心で眺めていたら“お兄ちゃん”が反対側に鋏を入れた。
「じゃーん」
開ける作業を殆どやってもらってから、得意気に中身を披露してくれる。面白い人だなぁ。
覗いてみると、黒や黄金色の液体が入ったボトルが立ち並び、見知った白いチューブや、いくつかの缶詰も詰められている。下に埋もれてるのは…、一斗缶か?
「愛用の調味料がこっちで手に入るか分からなかったからね。一通り揃えて持ってきたんだ」
そういやこの人、料理屋のシェフだったっけ。
「もう少ししたら、簡単にお昼作っちゃうね」
「昌人さんの手料理!楽しみ!紗千乃、ちゃっちゃと荷物運び込んじゃって」
「…はいはい」
母が活き活きしている。そりゃまぁ、味に惚れ込んでゲットしてきたくらいだから当然か。一体どんな手を使って、ホテルの高級レストランで鍋を振るシェフをとっ捕まえて来たんだか。
◇◆◇
恐ろしい事が起こった。当初勝手に戦力外と判断して、男二人で運搬作業に当たるものと覚悟して来たのに。
「ふぅ。これで全部ですねー」
気付けば積荷の大半を、目の前の妹が運び入れていた。
「こっちも出来上がるから、一旦お昼にしようか」
一見仕切っている風に映る父さんは、早々に荷運びを任せて料理を始めていた。適材適所と言っても流石に、一月とはいえ年下の子だぞ。いや年齢を差し引いても、相手は女の子なんだぞ。本人も母親も当然の配役と言わんばかりに平然としているけど、いいのかこれで。
「お箸?スプーン?」
「焼きうどんと卵スープとポテトサラダだよ」
「…両方持ってくか」
いつもの流れで自然とサポートに回っていて、ふと気付く。初めて立つ台所で食器を物色している訳だが、まぁ、既にこの父が腕を奮っているのだから今更な気遣いか。
「な、にか手伝う…こと……」
「いいよ座ってて。あ、お箸どれ使ってるかだけ教えて」
ほんと、出来ればずっと座ってて欲しい。あれだけ働かせたんだから。
「あーらら、普段そんな手伝いした事ないくせにぃ」
「うるさい……」
引き出しから選ばれたのは、女性向きの赤い箸が二組。そして包装されている青と緑の箸が一組ずつ。
「良かったらこれ、使って」
「用意してくれたんだ!わざわざありがとうね」
皿に盛り付けながら見ていた父さんが、それは嬉しそうに言うものだから、持って来た箸は処分しておくか。と心に決める。
「由貴さんは何飲む?」
「あたしビール!昌人さんも飲むでしょ?」
「ははっ、じゃあご相伴に預かろうかな」
ダイニングテーブルに向かおうとした足が回れ右をして、箸を持ったまま戻って来たと思ったらグラスを物色し始めた。箸を置いてから来ても良かったのに。
「持って行くよ、どのグラス?」
「あれ、黒いの二つ」
中身が冷えたまま保てる例のアレだ。うちには無かったんだよな。本当に温くならないのかな。
僅かに高い位置に置かれているものだから、尚更取り辛いのだろう。こちらで軽々と二つ手に取ると、背伸びを止めて別のグラスに手を掛けた。
「君は何飲むの?」
「お茶」
「じゃあ僕もそれで」
便乗すると、二つ重なった上だけ取ろうとしていた手が戻って、お揃いのグラスが取り出される。グラスと箸で両手が塞がった所で、再びテーブルに向かって歩き出した。
警戒心が解けきらない様子で、ちまちま動くのを見ていると、小動物のような一面が見えてくる。だがしかし、先の力仕事っぷりを思うとどうにも、可愛らしいとまでは至らなかった。