9どうして
部屋から出た私たちは、愕然とした。
昨日の夜まで艶々に磨き上げられていた廊下は土や血で汚れ、飾られていた絵や壺、棚などが落ち倒れぐちゃぐちゃになっていたのだ。
壁や扉も破壊され、割れたシャンデリアや窓の破片が散らばっている。
見える範囲では二人ほど怪我人が廊下にうずくまってもいて、その周りが手当てに集まっている。
リュクスくんの部屋のすぐ目の前でまで、戦闘はおこっていたんだ。
敵にここに入らせないために、きっと何人もが守り戦ってくれて、怪我をした。
私は何も知らず、全部がおわるまで小さくなってずっと震えていただけだった。
「きゅ……」
血と砂ぼこりの混ざったような匂いが充満していて、私は吐き気を覚えた。
「ははうえ、ははうえ。マリー」
「きゅう」
「リュクス様。今はお会いできません」
お母さんの部屋へ足を向けようとしたリュクスくんを、トマスさんが腕を掴んでとめた。
「どうして!」
リュクスくんは涙目でにらみつけている。
けれどトマスさんは悲しそうに……しかし断固として開放はしなかった。
「……損傷が、ひどい。子供に見せられる状況じゃありません」
「そんなのうそ! うそうそ!」
ぽろぽろとリュクスくんは手足をふって暴れだした。
「しんでないもん! ぜったいうそ!」
「本当です」
「ちがうもん! うそ! うそつきぃ!」
……彼は、マリーさんとお母さんが死んでしまったことを受けいれられていない。
むしろ嘘だ嘘だと否定ばかりが頭の中をしめている。
生きているはずだと信じたくて、元気なのを確認したくて、会いたくて、だから行こうとしているのだ。
「はなして! ははうえ! マリーのとこいくぅぅぅ!!」
「すみません。行かせられません」
「やあぁぁだぁー!!」
「きゅ、きゅう」
私はただ彼らの足元でおろおろするばかりだ。
トマスさんがこういうからには、本当にお母さんとマリーさんはひどい状態なのだろう。
おそらく彼女たちのいる部屋もこの廊下以上に。
幼い子供にこれ以上のショックを与えれば、精神的に壊れてしまうかもしれない。
そう……リュクスくんは、四歳になったばかり。あまりにも幼すぎる。
そしてこの公爵家で唯一、たった一人きりの子供で後継ぎという貴重かつ大切な存在だ。
彼の心身を守るため、トマスさんは今はだめだとかたくなに言う。
間違っている判断だとは思わないけれど、当然リュクスくんは納得しない。
「ははうえ! ははうえ! マリー!」
必死に暴れ、掴まれた手を引きはがそうとぐちゃぐちゃな顔で暴れ叫ぶ。
「っ、すみません。どうか今はここを離れて、片付けが終わるまでは別の部屋でおやすみください」
「やだ! やだやだぁ!」
ぱちっと、リュクスくんと私の目があった。
小さな手が、こちらに伸びてくる。縋るように。
「シンシア! おねがい! たすけて!」
「きゅ、きゅう」
私はたじろいだ。
今トマスさんに飛びかかれば、確かにリュクスくんが抜け出す隙くらい作れるかもしれない。
でも、そうしてリュクスくんが行った先。
お母さんやマリーさんの遺体が想像以上にひどかったら?
首が切り離されたような状態だったら?
原型さえとどめていなかったら?
暴行されてあざや傷でぼろぼろの姿になった自身を、はたして彼女たちはリュクスくんに見て欲しいと思うだろうか。
……私だって、見る勇気がないのに。
たった四歳の子に、しかもまだ生きてるはずと頑張って信じようとしてる子にはできれば見せたくないと、大人は思ってしまうのだ。
本人の、どれほど真剣な願いであっても。
――ごめんなさい。
私は、ここでは大人の側の立場で考えてしまう。
「きゅう」
ひとこえ鳴いて、首をふる。
私の拒絶が伝わったのだろうリュクスくんは大きく目を見開いて、伸ばしていた手を力なく落とす。
ついで、くしゃりと顔をゆがませた。
「っ……シンシアのばか! きらい! トマスもきらいぃぃ!」
屋敷内にリュクスくんの悲鳴混じりの声が大きく響き渡る。
トマスさんは「すみません。すみません」とまるで自分のせいかのように謝りつづけ。
怪我人や、介抱に慌ただしそうにしていた使用人たちはぐっと奥歯を噛み締めてすすり泣いたり悔しそうな顔をして震えていた。
* * * *
それから私とリュクスくんは、屋敷内が落ち着くまではと敷地内にある北の離れへと移された。
ここは先代が第二夫人を住まわせていた建物だそうだ。
本邸よりはずっとこじんまりしているけれど、私からすれば「家」ではなく「屋敷」と呼べるくらいには豪華で広いところだ。
人が亡くなった後、後片付けに、葬儀の準備、知人親族への連絡、弔いのために訪れた人の来客対応などででとたんに周りの人間は忙しくなる。
本当に眠る間もないほどに。
葬儀を終えてからだって資産や物の整理、墓の手配など。
こっちでやるのか知らないけれど、前世だと役所を何度も往復し、書類も何枚も提出し、銀行などの機関への届け出も必要だったはず。
公爵家の人間ともなればその規模はそうとうに大きいはずで。
しなければならないことがとても多すぎて。
屋敷の人たちは悲しみ嘆くよりも、今やらなければならないことを優先して、心を殺して動くしかない。
大人ってけっこうそういうものだ。
心よりも、『やらなければいけない』ことを優先する。
そして大人のそういうところに、子供は納得ができない。
なにより子供だからってこうやって遠ざけて、現場から離されて問題に関わらせてくれないことが悔しくて悲しい。
「きゅう」
「ひどい。ひどいひどい? なんでははうえ、あえないの? マリー。マリーどこ? きてよおぉ」
離れの一室。
ソファの上で横になりクッションを抱きしめながら、リュクスくんはただ嘆く。
泣く間もなく今も本邸で色々頑張っている使用人たちの苦悩にまでは、まだ頭がまわるほどの年頃ではない。
「きゅう」
さっき「きらい」と言われたばかりの私は、うなだれながらソファの下で息を吐いた。
「マリー。ははうえ、だいすきなのに。だいすきなのに。どうして」
そうだね……マリーさんはあったかかった。
お母さんはおしとやかに見えるのに踊ったりして楽しいひとだった。
たった一週間と少しだけ同じ屋根の下ですごした人たち。
リュクスくんほどじゃなくても、いなくなってしまったことはやっぱり悲しくて。
リュクスくんの泣き声を聞きながら、私も少し泣いた。